オープン神論とは何か(1)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

昨年、グレゴリー・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)を取り上げて、「確かさという名の偶像」という25回シリーズで紹介させていただいたことがあります(最終回の記事に、過去記事へのリンクが貼ってあります)。これによって、恐らく日本で初めて、ボイドの神学的主張をある程度まとまった形で紹介することができたのではないかと思います。

これから何回かにわたって、ボイドが支持するある神学的潮流に光を当てていきたいと思います。それはopen theismと呼ばれるものです。これは日本ではまだ定着した訳語がなく、「開かれた神論」などと呼ばれることがありますが、このブログでは「オープン神論」と呼んでいきたいと思います。オープン神論的な考え方は古くからありましたが、1990年代ごろから欧米特にアメリカで盛んに議論されるようになってきました。日本でも大頭眞一師が2013年に日本福音主義神学会西部部会で「神にとっても未来は開かれているのか?『神の物語』とオープン・セオロジー」という研究発表を行っておられます。けれども、日本ではまだあまり一般に知られていませんので、その主張と、それがどのような意義を持っているのかについて、これから紹介していきたいと思います。

ただし、実際の説明に入って行く前にまずしなければならないことがあります。オープン神論はボイド神学の中でも、もっとも物議をかもしてきた部分であり、特にアメリカの福音派の間では、激しい論争を巻き起こした神学でもあります。ですから、このシリーズを読まれる方に、あらかじめ知っておいていただきたいことがあります。

 

オープン神論は神学的「意見」である

実りある有意義な神学的対話を行うためには、意見の相違をどのように考えるかについて、共通認識を持つことが必要です。キリスト教神学にはさまざまな内容が含まれていますが、そのすべてが同程度に重要なわけではありません。あることがらはキリスト教信仰について根源的な重要性を持つ内容で、この点において妥協することは許されません。一方、別のことがらについては、たとえ意見が異なっていたとしても同じイエス・キリストを主と信じるクリスチャン同士として協力することにまったく支障がないものもあります。このブログでは、このような神学的内容を「教義・教理・意見」という三つのレベルに分けて考えることを提案しています(「違いの違いが分かる男(女)」参照)。また、すべての中心にはイエス・キリストとの人格的関係が置かれるべきです(こちらを参照)。

さて、ボイド自身は、オープン神論をこの3つのカテゴリーのうち、最も重要度の低い「意見」に分類しています(こちら)。つまり、この神学的立場を支持するかどうかということは、正統的キリスト教神学の試金石として捉えられるべきではなく、また特定の教派やグループの中で意見の相違があっても問題にはならないということです。オープン神論を支持するクリスチャンも支持しないクリスチャンも、同じ神の家族に属する存在として互いを受け入れ合うことができるのです。

なぜこのような断り書きを最初にするかというと、私の留学当時アメリカの福音派の間ではオープン神論に関する激しい論争が巻き起こっており、福音主義神学会からオープン神論者を追放しようという政治的な動きまで起こっていたからです(結局それは成功しませんでしたが)。私にはそのような論争は神学的な議論に基づくと言うよりは、感情的また政治的な動機にもとづいていると思えるケースが少なくありませんでした。このような形でオープン神論を福音主義神学から排除しようとする傾向について、アメリカの神学者ロジャー・オルソンはブログで批判しています(こちらやこちらやこちらを参照。ちなみにオルソン自身はオープン神論者ではありません)。

このシリーズで紹介していくオープン神論の主張については、福音主義に立つクリスチャンの間でもさまざまな反応があることが予想されますが、そのような立場の違いも、聖書の権威を尊重する福音主義神学の枠内にある聖書解釈の幅の中でとらえていただくことができるよう、個人的には希望しています。

 

本シリーズで紹介するオープン神論について

もうひとつ、あらかじめお断りしておきたいことは、これから連載していくのはオープン神論の包括的な紹介ではない、ということです。オープン神論はさまざまな神学者が主張していますが、このシリーズではそれらの多様な見解を網羅的に論じていくのではなく、あくまでグレッグ・ボイドの主張をベースにした、私なりのオープン神論の理解を紹介することに限定したいと思います。

ボイドによるオープン神論の入門書God of the Possible

私の専門は新約聖書学であり、組織神学ではありません。私が多少なりとも理解を持っているオープン神論はボイドのものであって、オープン神論全般についての包括的な議論を行うだけの知識も時間も持ち合わせていません。このブログではあくまでもボイド神学の紹介の一環として、オープン神論について書いていきます。必要に応じて他のオープン神論者の議論も紹介するかもしれませんが、中心はあくまでもボイドの理解であることをお断りしておきたいと思います。けれども、上で述べたようにオープン神論自体が日本ではほとんど知られていない神学ですので、多くの人々がこの神学に触れ、賛否は別として活発な議論がなされていく呼び水となればと願っています。

ちなみに、オープン神論あるいはそれに類似する立場を取る人々には、ボイド以外にクラーク・ピノック、ジョン・サンダーズ、ユルゲン・モルトマン、ダラス・ウィラード、ジョン・ポーキングホーン、ジョン・ゴールディンゲイ、ニコラス・ウォルターストーフ、マイケル・ロダールらがいます。さらに詳しいリストはこちらを参照してください。

 

オープン神論の中心的主張

それでは、オープン神論とはいったいどのような神学的主張なのでしょうか?ボイド自身の要約(こちらの記事からの抜粋)を見てみましょう。

オープン神論とは、神は自由な主体を含む世界、したがって可能性が真に存在する世界を創造することを選ばれた、という見解である。未来は神が予め決定することを望まれる限りにおいて、また被造物の主体が行なった選択の不可避的な結果が予め決定する限りにおいて、予め決定されている。しかし、未来はまた、主体が自らの選択によって可能性を実現する自由を有する限りにおいて、開かれている。

オープン神論の見解では、神は未来を含めすべてのことがらを完全に知っておられる。しかし未来は部分的に可能性から成っているために、神はそれを部分的に可能性から成っているものとして知っておられるのである。

オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれる、ということです。そしてそこから導き出される重要な結果の一つは、未来は部分的に開かれている、ということです。

オープン神論の主張の詳細、およびこの神学がどのような意義を持っているのか、またそれはどのような聖書的根拠があるのかについては、次回以降に見ていきたいと思います。

(続く)

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