N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。

『新約聖書と神の民』(上)

第一回

新約聖書の権威

この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約聖書の記述の史実性、特に奇跡についての記述が疑問視されました。また、人々が抱く多様な価値観を等しく認めようというポストモダンの時代が到来すると、新約聖書の提示する倫理の規範性そのものが批判の対象となりました。このような現状を踏まえつつ、ライトは新約聖書の持つ「権威」を高く掲げます。しかしライトはその権威を学校の校則のようなルールとして捉えているわけではありません。端的に言えば、新約聖書の権威はストーリーの中にある、とライトは主張します。新約聖書全体が物語るストーリーは、私たちが世界をどのように理解し、その世界の中でどう行動すべきかを教え導いてくれる、そういう権威あるストーリーなのです。

新約聖書のストーリーとはまずなによりも、「イエス・キリストのストーリー」です。さらにはイエスの生と死と復活の後、聖霊によって生み出された「教会のストーリー」があります。しかし、イエスのストーリーも教会のストーリーも、もっと大きな旧・新約聖書全体を貫く「メタ・ストーリー(より大きく、根源的なストーリーという意味です)」の一部であり、またそのクライマックスを形作っています。

もちろん、旧・新約を貫くメタ・ストーリーといっても、それは一つとは限りません。聖書の各文書、またその中の一節ですら、そこには様々な解釈があります。ですから聖書全体の理解の仕方にも当然多くの選択肢があります。本エッセイの目的は、ライトの提示する聖書の「メタ・ストーリー」を読者の方々が理解するための一助となることです。N. T. ライトは世界でも屈指の新約聖書学者ですが、しかし彼を含めてどんな学者の場合でも、彼らの言うことがすべて正しいということはありえません。しかし、ライトの示す聖書のストーリーは傾聴に値し、聖書をより深く理解する上で有益なものだと私は考えています。

さて、ライトが提示する聖書のメタ・ストーリーの理解を容易にするために、そのライバルとも言うべきもう一つのメタ・ストーリーとの対比を以下で試みます。この二つのメタ・ストーリーはまったく異なる二つの世界観に基づいており、そのどちらの世界観に立つかで私たちの新約聖書理解にも非常に大きな違いが生まれます。そこでまず初めに、ライトのものではない、もう一つのメタ・ストーリーの方から素描してみたいと思います。そのために、20世紀の新約聖書学を振り返ってみましょう。

 

ルドルフ・ブルトマンとユダヤ教

20世紀中葉まで、世界の新約聖書学、特にプロテスタントの聖書学をリードしてきたのはドイツでした。ドイツのキリスト教神学における主導的立場は、マルティン・ルターの宗教改革以降、常に保たれてきました。20世紀最大のドイツ聖書学者といえばルドルフ・ブルトマンです。ブルトマンは日本の新約聖書学界にも巨大な影響を及ぼし、彼の多くの著作が邦訳されています。そのブルトマンの代表作がTheologie des Neuen Testaments(「新約聖書神学」)です。このブルトマンという人物は、ドイツの聖書学・神学の強みと問題点とを体現した学者でした。その強みというのは聖書釈義における緻密さと同時に、敬虔主義的な神学的深みを併せ持っていることです。他方でその問題点とは、キリスト教とその母体となったユダヤ教(これを「第二神殿期のユダヤ教」と呼びます)との関係の理解の仕方です。

ルドルフ・ブルトマン

イエス・キリストも12使徒も、エルサレム教会の指導者である主の兄弟ヤコブも異邦人の使徒パウロも全てユダヤ人であり、キリスト教がユダヤ教を母体として生まれてきたことは紛れもない歴史的事実です。しかし、原始キリスト教は単にユダヤ教の一セクトではありません。出エジプトの解放を祝う過越祭はイエス・キリストの制定した聖餐式の重要な歴史的・神学的背景となっていますが、それでも過越祭と聖餐式は同じではありません。聖餐式はイスラエル民族のエジプトからの解放ではなく、主イエス・キリストの死と復活による罪と死からの解放を祝うものだからです。このように、ユダヤ教とキリスト教との間の連続性と区別性はいずれも重要なのですが、ドイツでは伝統的にユダヤ人やユダヤ教に対する否定的な見方から、その断絶ばかりが強調される傾向がありました。ブルトマンがキリスト教の誕生する以前のユダヤ教をどう理解していたのかについては、『ブルトマン著作集6』(新教出版社)に収録されている「原始キリスト教」という本に詳述されていますが、同書から彼のユダヤ教理解の一端を示す一文を以下に引用します:

ユダヤ教には科学や芸術を生み出す可能性はなく、ユダヤ民族には他の国々と文化的交流をする余地もなかった。(ヘレニズム的ユダヤ教を除けば)イスラエルは自らを外の世界と切り離し、極端な孤立の中で生きていた。結果として、イスラエル自身は歴史の中から漂流してしまった。イスラエルが未来に待ち望んだ贖いとは、真の歴史的出来事ではなく、全ての歴史が決定的な終止符を打つという幻想的な出来事でしかなかった(Primitive Christianity, p.60-61;[私訳、上記の邦訳書では391ページ参照])。

1世紀のユダヤ教の研究が進んだ今日においては、このような1世紀のユダヤ教の記述を20世紀を代表する聖書学者が唱えていたとは信じがたいことです。1世紀のユダヤ人たちは確かに自分たちの民族の独自性を守ることに心を砕いていましたが、それは彼らの生活領域が外に開かれていて、様々な面で外国の人々と活発な交流をしていたからこそ、自らの民族的・信仰的アイデンティティーを維持する必要があったのです。また、普通のユダヤ人が世界がすぐにも消滅することを期待していたという証拠もありません。ブルトマン自身が反ユダヤ主義者であったということでは決してありませんが、彼の神学にはそうした人種的偏見を助長しかねない面があったことは否定しがたいと思います。この点はブルトマンを批判的に継承したドイツのもう一人の聖書学者、ケーゼマンにも当てはまるでしょう。このような非常に暗く、ネガティブなユダヤ教理解に立ってしまうと、ユダヤ教がキリスト教を生み出した母体だったと考えることが困難になります。実際、ブルトマンはユダヤ教、特にエルサレムを中心とするパレスチナ的ユダヤ教が原始キリスト教のルーツであったという見方を極力否定しようとしました。しかし彼とて、キリスト教が何のルーツも持たない、いわば真空から生まれてきたような存在だとは考えませんから、キリスト教が急速に伝播していったギリシャ・ローマ世界の様々な哲学や宗教にその思想的ルートを求めようとしました。その中でもブルトマンやケーゼマンが特に重視したのがグノーシス主義です。グノーシス主義とは何か、ということについては日本でも優れた解説書が何冊か出版されていますし、このエッセイでも折に触れて解説していきますので、ここでは詳しい説明はしませんが、以下にブルトマンの簡潔な説明を引用します:

しかし、最も重要な原始キリスト教における神学的展開は、イエスのペルソナをグノーシスの救世神話の観点から解釈することだった。イエスは天上の光の世界から遣わされた天上的存在であり、父のもとから来られた、いと高き方の子である。地上の姿を取られ、その業を通じて救済に着手したのである(Primitive Christianity、p.196; [邦訳書の391ページ参照])。

ブルトマンはこのグノーシス思想が(彼の言うところの)パウロ的キリスト教、ヨハネ的キリスト教の救済観の土壌になっていると主張しました。

 

グノーシス主義の「メタ・ストーリー」  

グノーシス主義が生まれたのは紀元2世紀中葉とされていますから、今日ではキリスト教神学のグノーシス起源説は学界では受け入れられていません。しかし、このグノーシス主義の根底にあるプラトン主義の霊肉二元論、この思想がキリスト教の誕生に重要な役割を果たしたという見方は未だに根強く残っているように思われます。プラトン主義は世界を物質的なものと、霊的なものとに二分して理解します。物質的な世界は一時的なものに過ぎず、ついには解体されますが、霊的な世界は完全不滅なものだとされます。プラトン主義によれば、「悪」とは物質世界のみに固有なもので、霊的世界には悪は存在しません。こうした世界観に立てば、「救い」とは物質的な世界を逃れて、霊的な領域である「天国」に向かうことだということになります。この観点からは肉体的な死は悲しむべきものではなく、真の霊的な世界に行くためのいわば通過点だということになるでしょう。また、体のよみがえりという「肉体の復活」はプラトン主義者にとっては希望どころか物質世界への隷属状態への逆戻りであり、忌まわしいものとなります。そして先ほど触れたグノーシス主義はこのようなプラトン的の二元論的世界観に立脚しています。グノーシス主義のエッセンスとは次のようなものです:物質世界の創造主は旧約聖書の神、イスラエルの神だが、実はこの神は劣った神であり、イエス・キリストが啓示した新約聖書の神とは別の神である。イエスが父と呼んだ神は霊的世界に住まわれる高次の神なのである、というものです。有名なマルキオンがこの神学に立ち、旧約聖書を拒絶しました。こうした現在の世界は悪い世界であり、イエス・キリストが説いた「神の国」とはこの世とは何の関係もない「あの世」のことなのだという思想は絶えることはなく、中世ヨーロッパでは「カタリ派」として復活しました。これらの系譜に属する宗教思想においては、「体のよみがえり」は徹底的に否定され、パウロの第一コリント15章も肉体の復活ではなく「霊的存在への変容」を指しているという風に理解されます。ここで注意すべきなのは、グノーシス主義もある意味で聖書の「メタ・ストーリー」を物語っているということです。そのメタ・ストーリーとは意表外なもので、旧約聖書で「ヤハウェ」と呼ばれている神と、新約聖書でイエスが「アッバ、父よ」と呼んでいる神とは実は全く異なる神であることが明らかになるという、そんなストーリーなのです。近年話題になった「ユダの福音書」などはまさにこのようなメタ・ストーリーがベースとなって書かれたものです。

 

キリスト教と霊肉二元論  

さて、このプラトンの霊肉二元論がキリスト教神学に影響を及ぼしているとしたら、どんな問題が生じるでしょうか?プラトン霊肉二元論の根底にある思想は、物質的な「この世」は一時的なもので、悪に満ちた世界なので、救済不能であり、いずれ消滅するというものです。ライトが特に問題意識を持っているのが、このプラトン的世界観がキリスト教神学に及ぼす影響なのです。つまりプラトン的な霊肉二元論の世界観と、ユダヤ人の信仰の根幹にある、天も地も共に神の創造された本質的に「良い」ものだという世界観とを意識して区別しないと、キリスト教神学にもプラトン主義に基づくグノーシス的な要素が混入してきてしまうということです。ライトは『新約聖書と神の民』(NTPG)の中でこう述べています。

一例として、ポスト啓蒙主義的な思想潮流の中では、多くの「保守的な」キリスト教徒と「リベラルな」キリスト教徒は...物質的な世界から逃れて純粋なスピリチャルな世界に行くことだという信念を強調している(NTPG, p.246)。

クリスチャンが抱く死後の世界のイメージに、滅ぶべきこの世界から逃れて霊的な楽園に行くという、プラトンの霊肉二元論的世界観が忍び込んでいないかよくよく注意する必要がある、というのがライトが鳴らし続ける警鐘です。ライトは別の著作で次のように書いています。

大西洋を挟んだヨーロッパとアメリカの両大陸でこの二百年の間人気を博してきたタイプのキリスト教は、復活などの新約聖書と原始キリスト教の重要なテーマの意義を常に貶めてきた。そして、本当に大切なのは「私の」魂の状態と救いだという個人主義的救済観のみならず、ぞっとするほどグノーシス主義のものと似ている未来への希望を養ってきた。「死んだら天国に行く」―または死を逃れて「携挙」という手段によって天国に行く、というのが数百万のこのタイプのクリスチャンの至上目的になっている(Judas and the Gospel of Jesus, p.141)。

では霊肉二元論ではない、ユダヤ的世界観に基づいた聖書のストーリーとはどんなものなのでしょうか?それについて次回考えてみたいと思います。

(続く)

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