N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版①

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

この度、新しい翻訳書を出版しました。N・T・ライト著『聖書と神の権威』(あめんどう)です。

 

英国の新約聖書学者N・T・ライトについては、本ブログでも度々取り上げてきましたので、改めて紹介する必要はないでしょう。私がライトの著書を翻訳させていただいたのは、『シンプリー・グッドニュース』に続いて2冊目となります。先月末に発売されて以来、公私ともに多忙が続き、ブログでの紹介が遅くなってしまいましたが、本書の簡単な内容紹介と、本書についての個人的な思いを綴っていきたいと思います。

副題の「聖書はどのような意味で『神の言葉』であるのか」は、本書の内容を要約しています。私が属する福音派と呼ばれるグループは特にそうですが、広い意味で言えばキリスト教会全体は聖書を何らかの意味で権威ある「神の言葉」ととらえており、聖書は教会の信仰と実践に対して大きな影響力を持っています。

しかし、ではそのように重要なテクスト(聖典そして正典)である聖書を実際にどう読むか、そしてそのような読みを現代世界における信仰者や教会の実践とどう結びつけていくか、という段になると、キリスト教会内でも様々な意見に分かれているのが現状です。

ここからは私が現在身を置いている福音派というグループに焦点を絞って書いていきますが、私見によれば、現在福音派の教会内で戦わされている論争の多くは、突き詰めていけば聖書論、すなわち「聖書とは何か?それはどのように働くのか?」という問題にぶつかります。つまり、土台にある聖書論が違うならば、クリスチャンがいくら聖書を引き合いに出して議論しても、話は平行線をたどるだけなのです。「聖書は権威ある神の言葉である」というだけでは不十分です。さらに踏み込んで、聖書の権威とはどのようなものか、それはどのような意味で神の言葉であるのか、と問わなければなりません。そして、本書『聖書と神の権威』はまさにそのような問題を取り上げています。

ライトによると、「聖書の権威」とは、より正確に言えば「聖書を通して行使される神の権威」だと言います(41頁)。さらに、その「聖書」とは、一つの物語(ナラティヴ)の形で捉えるべきである、とします。聖書は多数の文書のコレクションであり、その中には様々な文学類型が含まれますが、キリスト教会の正典としてまとめられたその全体は、一つの大きな物語として読むべきだ、というのです(44-45頁)。これをまとめると、聖書の権威とは「聖書という物語を通して行使される神の権威である」ということになります。

しかし、物語が権威を持つとはどういうことでしょうか? それは、道徳の教科書のように、なすべき行為や避けるべき行為を指示する、という意味での権威ではありません。また、真理の百科事典のように情報を提示してそれを信じるように求める、ということでもありません。これらの要素も含まれるかも知れませんが、物語は全体としてもっと違った形で働きます。

ライトによると、物語は人間が世界を認識する基本的なモードです(『新約聖書と神の民』上巻85頁以下を参照)。聖書もまた、その全体的ストーリー(グランドナラティヴ)を通して一つの世界観を提示しています。それは哲学や組織神学の教科書のように真理とされる命題を秩序だった体系にまとめたものではなく、時間の経過に沿って展開されるプロットを持つ、ダイナミックなものです。

聖書は天地創造から創造の刷新にいたるまでの、神と世界の関わりを描く物語を描いています。聖書の権威を受け入れるとは――言い換えればキリスト者になるとは――この物語が提示する世界が真実の世界であることを受け入れ、その物語に生きることを決断することにほかなりません。

ライトはそのような聖書のグランドナラティヴを5幕構成の劇の台本になぞらえて説明します(168頁以下)。この5幕撃のアナロジーは、彼が主著『新約聖書と神の民』でも提示した有名なものですが、1.創造、2.堕落、3.イスラエル、4.イエス、5.教会~終末のような構成になっています。

このアナロジーのポイントは、それが未完の台本である、ということです。聖書の記述は第5幕の最初の場(初代教会の歴史)で終わっています。最後のフィナーレ(終末)がどのようになるかのラフスケッチは遺されていますが、その間は書かれていません。そして現代の教会はこの未完の場面を舞台に立って演じるように求められている、ということなのです。

具体的な指示を与えるト書きや台詞は与えられていませんので、私たちは即興(アドリブ)で演じることになります。先行する場面の演技を機械的に繰り返すだけでは不十分です。しかし、ただ思いつきでやりたい演技をすれば良いというわけでもありません。役者(教会)は、これまでのストーリー展開を熟知し、さらに劇全体が最後のフィナーレに向かってどのように進んでいくのかを認識した上で、今の場面に最もふさわしいパフォーマンスは何なのかを考え、演じていく必要がある、ということです。そこには唯一の「正解」はありませんが、それでも「良い演技」と「悪い演技」はあるのです。

教会が「聖書の物語を通して行使される神の権威」に従うとはこのようなものであるとライトは言います。21世紀の現代社会(さらに教会が置かれている地域や文化によってより細かく特定していけるでしょう)という「場面」において、教会がどのような「演技」ができるのかが問われています。それはいくつかの「証拠聖句」を引用してそれを実行すれば済むという単純な話ではありません。500年前の宗教改革時代の演技をただ模倣すれば良いということでもありません。私たちは現代に最もふさわしいパフォーマンスは何かをクリエイティヴに考えて実行に移していく責務があります。

現代社会においてキリスト教会はいくつもの難しい課題に直面しています。その中でどのようにして「聖書の権威」に基づいて歩んでいくか。そこには唯一の正解としての「聖書的・キリスト教的立場」というものはありません。同じ聖書を信じるキリスト者同士でも意見の相違はありえます。しかし、そこにはキリスト教にユニークな「聖書的視点」というものはありうると思います。

私は、本書で展開されているライトの聖書論は全体的にはとても説得力があると思いますし、聖書の権威を重んじつつ、現代の諸課題に柔軟に取り組んでいくために有益なものであると思います。そのような意味で、本書を日本語の読者に紹介できる機会が与えられたことを感謝しています。

そのことを述べた上で、本書の内容には個人的に同意しかねる重要な部分も含まれていますので、訳者としてそのことに触れないわけにはいきません。次回はそのことについて書きたいと思います。

(続く)

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Emmanuel

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