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『聖書信仰とその諸問題』への応答4(藤本満師)

(その1 その2 その3)藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第4回目です。*     *     *4.「原典において無誤」――無誤に執着?今回は、『諸問題』への直接の応答ではなく、逐語霊感説やシカゴ声明の「無誤論」への違和感として、一つの問題を提起してみます。2014年、日本の福音主義神学会で聖書信仰が論じられた同じ年に、米国福音主義神学会でも聖書の「無誤論」をどのように理解すべきか論じられました。主題講演を担った一人、ベン・ウィザリントン(Ben Witherington Ⅲ)はメソジストで、ケンタッキーの福音的なアズベリー神学校で新約学を専門に教鞭を執っています。彼は講演の中で、福音派で定着した「原典において無誤である」という表現に違和感を覚えると述べています。もともとこの表現は、2

エペソ書とキリストの戦い(5)

(その1 その2 その3 その4)エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回が最終回です。10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

ルカ文書への招待(2)

前回に引き続き、Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足をお送りします。*     *     *ルカが語る福音の物語② 「ルカ福音書と使徒の働きの並行関係」前回のコラムでは、ルカの福音書と使徒の働きはルカが書いた一つの長い物語(フィクションという意味ではありません)の前編と後編である、と書きました。ところで、使徒の働きがルカの福音書の続編ということは、ただ単にルカは福音書で描いたできごとの続きを書き綴っていった、という以上の意味があります。ルカの福音書と使徒の働きの間には、もっと密接な対応関係を見ることができるのです。まず、この二つの書はどちらも似たような構成を持っています。どちらもテオピロに宛てた序文から始まります(ルカ1:1-4;使徒1:1

確かさという名の偶像(22)

(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第11章「神の約束につまずくとき」を取り上げます。前章でボイドは信仰を行使するとはどういうことかについて述べました。この章ではボイドは信仰の中身について考察します。もし信仰が神に信頼することであるなら、私たちは何について神に信頼すべきなのでしょうか?もし、ボイドが言うように信仰が私たちと神との間の人格的契約関係であり、相互の信頼にもとづいているとするなら、神が私たちに対して信頼できるお方であるとは、何を意味しているのでしょうか?多くのクリスチャ

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1)

先日の記事で藤本満先生の近著『聖書信仰』をご紹介させていただきましたが、このたびご本人にお願いして、数回にわたってゲスト投稿をいただけることになりました。お忙しい中、快く引き受けてくださった先生に心より感謝いたします。このブログに寄稿する機会を与えてくださいました、山﨑ランサム和彦先生に心から感謝申し上げます。先生は拙著『聖書信仰――その歴史と可能性』を読んでくださいました。そして、拙著の学術的な色彩をもう少し平易に乗り越えるために、短い文章を書く機会をここで与えてくださいました。ところが、書いてみたのを自分で読んでみると、さらに難しくなったのかと、自分の表現力のなさに落胆します。読んでくださる方々に、神の助けがありますように。(藤本満)聖書信仰(1)ギャップに架けられた橋1――批評学聖書信

クリスマスのわざ

カリフォルニアでのEquipper Conference 2016での奉仕のためにアメリカに来ていますが、その前にミネソタ州にある妻の実家を訪れ、何年かぶりでアメリカでのクリスマスを過ごしています。近年は日本でもそうですが、アメリカでもクリスマスは文化の一部になっており、キリスト教とは直接関係ない世俗の祝日として楽しまれています。同時に、日本とは異なり多くのクリスチャン人口を抱えるアメリカでは、多くの教会でクリスマスが盛大に祝われています。しかし今回は、そのどちらでもない、もう一つのクリスマスを垣間見ることができました。その一つとして、クリスマスイヴには、市役所前の広場で今年亡くなったホームレスの人々に捧げられた、エキュメニカルな追悼礼拝があり、それに家族で参加してきました。亡くなった方々の

確かさという名の偶像(6)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きです。ボイドは確実性追求型信仰の問題点をさらに挙げていきます。硬直した信仰ボイドは、「疑いは信仰の敵」という考え方は、信仰に関する硬直した態度を生み出すと言います。しかし、複雑で曖昧な現代世界に生きる人々にとって、このような考え方は受け入れ難いものとなってしまっています。このタイプの信仰は、ひと揃いの永遠の真理から成り立っており、それをすべて受け入れるか拒否するかの選択を迫ります。このような信仰姿勢にとっては、これらの真理のいくつかだけを受け入れたり、あるいはある程度までしか受け入れなかったり、留保つきで受け入れたりといったりすることは許されません

悲しみの人

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ53:3-5)桜の花が咲き乱れる季節がやってきましたが、いつもと変わらないのどかな春の風景とは裏腹に、世界は不穏な空気に包まれています。連日メディアは新型コロナウイルスの話題で溢れています。今も感染者は急増を続けており、ついに日本でも緊

eラーニング「ルカが語る福音の物語」

Grace-onlineにおいてこの秋開講される、ルカ文書のeラーニング・コースを担当させていただく事になりました。「eラーニング」とは、インターネットを使った学習システムのことで、世界中どこにいても講義動画やテキストを用いて学びができるだけでなく、掲示板のディスカッションを通して講師や他の受講者と交流することで、さらに理解を深めていくことができるようになっています。詳しくは、こちらをご覧ください。今回私は、11月から始まり、アドベントをはさんで前後4週間ずつ、合計8週間持たれるコースを担当させていただくことになりました。「ルカが語る福音の物語」と題して、ルカ文書(ルカの福音書+使徒の働き)についての入門的な内容にしたいと思っています。ルカの福音書と使徒の働きをそれぞれ単独で学ぶ本や講義は数

キリストの昇天

今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。実際、新約聖書の多くの箇所では、昇天は単にその事実について簡潔に語られるか(ピリピ2:9など)、あるいはすでに天におられるキリストについて語ることによって暗黙のうちに前提されるか(ローマ8:34など)であって、昇天のできごとそのものを具体的に描写しているのはルカだけです。(マルコ16:19は本文批評上の問題があり、いずれにしても昇天に関してはその事実に短く言及しているにすぎません。)しかしルカ文書においては、昇天の出来事は福音

力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意で

神がデスヴォイスで歌うとき(2)

人は外の顔かたちを見、主は心を見る。(1サムエル記16章17節)(その1)クリスチャンメタルについて書いていますが、このシリーズは単なる音楽の趣味について語っているのではありません。また特定の音楽的嗜好を読者に押しつけようとするものでもありません。むしろ、ふだんヘヴィーメタルを聴かない人々、あるいはメタルというジャンルについて特定の固定観念を持っておられる方々にこそ読んでいただきたいと思っています。それは以下のような理由によります。私たちはいろいろな事物の好みを「感覚」で判断することが多いです。分かりやすい例が食べ物です。甘いものに目がない人もいれば、辛いものが大好物という人もいます。そういった好みは各人の味覚に基づいており、それ自体悪いことは何もありません。けれども、そういった感覚的好みが

神の救いの全体像(「舟の右側」新年メッセージ)

「舟の右側」誌の2018年1月号に新年メッセージの寄稿依頼をいただき、「神の救いの全体像」と題して書かせていただきました。まだ新年には少し早いですが、雑誌自体は25日に発刊になりましたので、記事のさわりだけをご紹介します。使徒行伝20章でパウロがエペソ教会の長老たちに語った訣別説教の中で、彼はエペソでの3年間の伝道活動を総括し、「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせた」と語ります(27節)。パウロがエペソ教会の人々に伝えたメッセージは、「神のご計画のすべて」でした(新改訳2017の訳。第3版では「神のご計画の全体」)。これは何を指しているのでしょうか? 彼は同じ説教の中で、このことばを「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(21節)、「神の恵みの福音」(

ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(1)

このブログでもたびたび取り上げてきた人物に、アメリカの旧約聖書学者ピーター・エンズがいます(たとえばこの過去記事を参照)。私は彼の著作からいつも大きな刺激を受けています。今年の2月に出た最新作How the Bible Actually Works(聖書は実際どう働くか)も早速読んでみましたが、期待に違わぬ充実した内容でしたので、紹介してみたいと思います。Image from peteenns.com 本書は一般向けの聖書論の本と言えます。私は神学校でも聖書を教えていますが、聖書をどのように解釈すべきかを知るためには、まずは聖書がそもそもどのような性質の本であり、どのような目的を持っているのかについて考える必要があります。この最初のボタンをかけ違えてしまうと、どれほど聖書原語に習熟し、釈義の

大きな喜びの知らせ

クリスマスおめでとうございます。このクリスマスに行った説教に手を加えたものをアップします。 8  さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9  すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10  御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11  きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12  あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13  するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 14  「いと高きところでは

グレッグ・ボイド・インタビュー(7)

(その1 その2 その3 その4 その5 その6)7回にわたって連載してきたグレッグ・ボイド博士のインタビューも今回が最終回です。今回も前回に引き続き、先生の最新刊、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)についてお聞きします。*     *     *――旧約聖書において神を暴力的な存在として描いているように見えるテクストは、どういう意味で霊感された権威ある神のことばだと言えるのでしょうか?GB:私の考えでは、すべてのことは十字架を土台として考えるべきです。十字架の観点から霊感を考えるとどうなるでしょうか?人々が神が聖書に息を吹き込んだ(これは2テモテ3章16節に出てくる表現です)と考えるとき、霊感とは神からの一方的な行為だと考え

ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像(藤本満師ゲスト投稿2)

(その1)藤本満先生による、ゲスト投稿シリーズ、第2回をお送りします。*     *     *ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像ピスティス・クリストゥ論争とは?ピスティス・クリストゥ論争については、多くが語られてきました。簡易に整理いたします。ローマ人への手紙3:21に「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」、そして続く22節に「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(新改訳2017)とあります。イエス・キリスト「を」信じるとは、原語では「イエス・キリスト『の』ピスティス」となっているだけです。新改訳2017の注には「イエス・キリストの真実」と原語そのままの別訳が掲載さ

祈り(詩)

祈り神の霊が炭火となって心に火をつけると祈りが始まる祈りは香の煙となって天に向かって立ち昇る祈りは立ち昇りたゆたいひろがり そして虚空に消えていく残るのは沈黙のみ主よ私の祈りは御前に覚えられているのですか?祈って何になるのですか?それでも炭火は燃え続け祈りは静かに昇り続けるそして聖霊の火が私の存在を燃やし尽くすやがて黒かった心が純白の灰に変わるとき聖所に満ちるのはキリストの香り そして御父の愛の沈黙

エペソ書とキリストの戦い(1)

所属教会のサンデースクールで何回かに分けてエペソ書の学びをしてきましたが、今日は最終回で6章を取り上げました。この章は「神の武具」「霊的戦い」で有名な箇所ですが、エペソ書で霊的戦いについて述べられているのはここだけではありません。この機会に、エペソ書における霊的戦いについてまとめてみました。エペソ書6章のいわゆる「神の武具」の箇所(10-18節)は霊的戦いを教えている箇所として有名です。エペソ書で霊的戦いというとこの部分だけが突出して有名ですが、実は1章20-21節、2章2節、3章10節、4章27節などを見れば分かるように、霊的戦いはエペソ書全体を貫く大きなテーマであると言って良いと思います。本書の全体をまとめるキーワードは「神の奥義」です。8  神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵

『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事 1 2 3 4 5 6 7)藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。*     *     *8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をも

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