大きな喜びの知らせ

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

クリスマスおめでとうございます。このクリスマスに行った説教に手を加えたものをアップします。

8  さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9  すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10  御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11  きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12  あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13  するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14  「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

15  御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16  そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17  彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18  人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19  しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20  羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
(ルカ2章8-20節)

日本でも年中行事の一つとしてすっかり定着したクリスマスですが、本来はイエス・キリストの誕生をお祝いするキリスト教の祝日です。ただし、12月25日にキリストの降誕を祝うようになったのは後の時代の話で、聖書にはイエスさまが実際何月何日にお生まれになったかは書いてありません。イエスさまがいつお生まれになったかよりも大切なのは、どういう状況でお生まれになったか、ということです。

聖書の中でイエス・キリストの誕生のようすを詳しく書いてところは2箇所ありますが、今日はその中でルカの福音書から、聖書の世界に分け入っていきたいと思います。

ルカ福音書の降誕物語は、ローマ皇帝アウグストゥスが「全世界」の住民登録をするようにという勅令を出した、という記述から始まっています(2章1節)。イエス・キリストは今からおよそ2千年前のユダヤ、今でいうとイスラエルの地にお生まれになりましたが、当時地中海世界を支配していたのはローマ帝国でした。ここで登場するのは初代皇帝のアウグストゥスです。住民登録をするというのは、税金を徴収するのが主な目的でした。ローマで皇帝が一言命令すれば、そこから遠く離れたユダヤの地でもすべての住民が自分の町に登録に行かなければならなくなったのです。このようなできごとを通して、一般の人々もローマ帝国の支配を肌で感じたのです。

けれども4節でルカはもう一つの王家について語っています。それはイスラエルのダビデ王家でした。けれども、それはローマとは対称的な描かれ方をしています。イエス・キリスト誕生の約1000年前にイスラエルの黄金時代を築いたダビデ王でしたが、その王国はとうの昔に滅亡し、ユダヤ人は異民族であるローマ人の支配に服さなければならなくなっていました。ヨセフは王家の血を引く家系に生まれましたが、王とは程遠い貧しい暮らしに甘んじていました。

ヨセフは身重のマリアを連れてベツレヘムにやって来ますが、そこでマリアはイエスさまを産み、飼い葉桶に寝かせます。7節に「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」と書かれています。「客間」と訳されているギリシア語は、「宿屋」と訳されることも多いですが、当時のベツレヘムはさびれた寒村で、旅行者専用の宿屋などはおそらくなく、ヨセフは自分の親戚の家に泊まっていたと思われます。住民登録のために各地からやって来た親戚で客間が一杯になっていたため、彼らは土間のようなところに寝起きしていたのでしょう。そこは必要なら家畜を入れることもできるスペースで、したがって飼い葉桶もあったのです。

けれども、ヨセフたちがそのような場所に甘んじなければならなかったのは、他にも理由があったかもしれません。5節でマリアはヨセフの「いいなづけ」であるにもかかわらず、「すでに身重になっていた」とあります。マリアはもちろんヨセフではなく聖霊すなわち神の霊によってイエスさまを身ごもったわけですが、正式に結婚が完結する前にマリアが妊娠したということは、親族の間では大きなスキャンダルになっていたのかも知れません。当時は現代よりそのようなことに対してかなり厳しい社会でしたので、ヨセフとマリアはそのような中で親戚の家に滞在せねばならず、ずいぶん肩身の狭い思いをしていたと思われます。その家には、「彼らのいる余地がなかった」のです。そしてそれは、生まれ出たイエスさまにとっても同様でした。汚い土間に置かれた飼い葉桶しか、イエスさまの居場所はありませんでした。

そうした暗く寒々しい情景は、8節でも続いていきます。そこに登場するのは羊飼いです。羊飼いは当時のユダヤ社会の下層に位置する貧しい人々でした。彼らは社会の中心的な活動の場である町には居場所がなく、そこから離れた野原で羊の番をしていました。しかも時刻は夜でした。暗くて寒く、野獣や盗賊に襲われる危険もある「夜」は、彼らが置かれていた厳しい状況を象徴するイメージと言えます。
ローマ人に支配されたユダヤ民族、没落したダビデの王家、親戚の中で居場所のない若い貧しい夫婦と、飼い葉桶に寝かされた幼子、そして夜の野原で羊の番をする羊飼い――ルカがここまでの部分で語るキリスト降誕のできごとは、非常に暗いトーンで描かれています。そこに登場するのは、この世で居場所のない人々ばかりでした。

けれども、そのような暗い情景は9節で一変します。羊飼いのところに主の使いが突然現れると、彼らはひどく恐れました。それに対して天使は言います。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」(10節)

天使が伝えたのは「大きな喜び」の知らせです。また「伝える」と訳されている言葉は「福音を伝える」「良い知らせを伝える」とも訳すことができることばです。「すべての民」(より正確には「この民全体」)というのは、神の民イスラエルを指します。つまり、天使がこれから伝えるメッセージは、イスラエル全体のための大きな喜び、福音、つまり良い知らせだというのです。

では、その知らせの内容とは何でしょうか? 11節を見ましょう。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」良い知らせ、大きな喜びとは、ひとりの幼子の誕生のニュースです。その幼子がどのような方であるかが詳しく説明されています。

まずこの方は「救い主」です。1章のザカリヤの賛歌(ベネディクトゥス)の中で、この救いは「罪の赦しによる救い」(77節)であり、また「敵からの救い」(71節)でもあると語られています。ルカが2章8節まで描いてきた暗い世界の有り様、居場所のない人々の苦しみは、突き詰めていくと人間の心の中にある罪(まことの神を知らず、自分中心に生きる生き方)によって、人々が互いに傷つけあうことから引き起こされるものであることが暗示されているのです。生まれ出た幼子は、このような苦しみから人々を救い出してくださる方だ、と天使は言います。

また、この方は「主キリスト」です。「キリスト」は「メシア」というヘブライ語のギリシア語訳で「油注がれた者」という意味です。メシアとは神さまからの特別の使命のために聖別され任命された人を指しましたが、この当時のユダヤ人にとっては、イスラエルを救う王を意味しました。それはローマ皇帝にも使われた「主」という称号や、この方がダビデの町ベツレヘムに生まれた、ということからも分かります。要するにイエスさまは、ダビデの家系に属する王としてお生まれになった、ということです。王であるということは、先ほど述べた救いを人々に与える力を持っているということです。天使が告げた「良い知らせ」は、イスラエルの救い主なる王の誕生についてのニュースだったのです。

天使はこの知らせが本当であることを羊飼いたちが確認できるように「しるし」を与えます。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(12節)。

これはとても奇妙なしるしです。聖書の別の箇所(マタイ2章)では、東方からの博士たちが幼子イエスさまを訪ねてくる話が書かれていますが、博士たちはイスラエルの王なら当然エルサレムの王宮に生まれたのではないかと思って、エルサレムのヘロデ王を訪れました。けれども先ほども言ったように、「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムは、当時はさびれた小さな村に過ぎませんでした。そして生まれ出た「救い主」はなんと動物のえさ箱に寝かされているというのです。さらに言えば、そもそもメシアの到来という国家的重大ニュースがなぜ野原で野宿している貧しい羊飼いに伝えられたのでしょうか? ここで語られているのはすべて、人々の常識をひっくりかえすような奇妙なことばかりです。

けれどもこのような、この世の常識を覆すような点にこそ、「大きな喜びの知らせ」の本当の意味が隠されているのです。1章で、自分が神の霊によってイエスさまをみごもったことを知ったマリアが神さまを賛美しますが、マニフィカトと呼ばれるようになる有名な賛歌(後にバッハなども曲をつけています)の中で、彼女は神さまの救いのご性質について次のように歌います(51-53節):

主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

神さまの救いは人々の社会的立場を逆転させるものであり、この世の価値観をひっくり返すものです。だからこそ、救い主である「王」は、ローマ皇帝とは対極に位置する存在としてお生まれになったのです。降誕物語の冒頭で登場した皇帝アウグストゥスは、「全世界」を支配しているかのように描かれています。ある意味で彼は、当時の世界で最強の権力者でした。けれどもルカが語ろうとしているのは、全世界の本当の支配者は皇帝ではなく、辺境の地であるユダヤで生まれた貧しい幼子である、ということです。実際ルカの降誕物語には、当時皇帝を賛美するために使われていた様々なキーワード(救い主・主・神・平和・福音など)がちりばめられています。この子は成長して、ローマの権力によって十字架につけられて殺されることになります。ベツレヘムに生まれたイスラエルの「王」は、ローマ帝国の威力の前にあっけなく潰されたかに見えました。けれどもイエスが三日後によみがえったと信じる人々の運動(キリスト教)はやがてローマ帝国を席巻し、数世紀後にはこんどはローマ皇帝たちがイエス・キリストの前に膝をかがめて礼拝するようになるのです。

けれどもこのような「良い知らせ」は、社会の底辺にいた羊飼いたちにまず伝えられました。最初のクリスマスの喜びは、この世に居場所のない人々に告げ知らされたのです。今の時期、街はクリスマスのイルミネーションで輝き、楽しげな音楽が流れ、人々は楽しくパーティを開いたりしていますけれども、そのような中に居場所を見つけることのできない孤独な人たちもたくさんいることが知られています。けれども実は、イエス・キリストはそのような人々に喜びを与えるためにお生まれになったのです。クリスマスの知らせは、一部の恵まれた境遇にある人々のためだけではなく、すべての人のための喜びの知らせです。

さて、この「大きな喜びの良い知らせ」に対して、どのような応答がなされたでしょうか? 13-14節では、最初の天使に他の大勢の天使が加わって神さまを賛美します。

「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(14節)

これはラテン語のはじめのことばを取って「グロリア」と呼ばれる賛歌です。救い主の誕生は、天においては神さまに栄光、地上においては「みこころにかなう人々」に平和をもたらすできごとです。ここで言われている「平和」はただ戦争や争いがないというだけではなく、ヘブル語でシャロームと言われる、人々が神さまの祝福に満ち足りた幸福な状態、つまり「救い」と言い換えてもよいことばです。「みこころにかなう人々」とは神を待ち望むすべての人々のことです。

最初にこの知らせを聞いた羊飼いたちは、まさにそのような「みこころにかなう人々」でした。そのことは、彼らがこの知らせを信じ、天使が告げたしるしを探し求めてベツレヘムまで出かけていき、マリアとヨセフとその場にいた人々にその知らせを告げ知らせたことからも分かります。彼らはこの知らせが「民全体」のためのものであることを理解していたのです。救い主誕生の知らせは、この世に居場所のない孤独な人々をたがいに結びあわせる働きをしました。

20節を読みましょう。「羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。」イエスさまの降誕物語の結末は、羊飼いたちが神さまを賛美したことでした。これは14節にあった、天における御使いたちの賛美と呼応しています。救い主の誕生に応答する、天と地における賛美は、旧約聖書のイザヤ書に書いてある、次のような内容を思い起こさせる情景です。

天よ、歌え、主がこの事をなされたから。
地の深き所よ、呼ばわれ。
もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、
声を放って歌え。
主はヤコブをあがない、
イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。
(イザヤ44章23節)

ここに描かれているのは、神さまの救いに応答する、天と地の賛美です。イエス・キリストの誕生は、天地のすべてに救いと回復を告げる、すばらしい喜びの知らせだったのです。

羊飼いたちはすべてが御使いの告げたとおりであったことを確認した後、神さまを賛美しながら「帰って行った」とあります。彼らは夜の野原に置き去りにしてきた羊の群れのところに戻っていったのでしょう。誕生した救い主をその眼で見た後も、彼らの生活は表向きは何も変わらず、それまでと同じ、貧しく苦しい現実が待っていたのかもしれません。けれども、彼らの心の中には、いつも喜びと感謝と賛美が溢れていたのではないかと思います。なぜなら、彼らはすべての苦しみはまもなく終わり、救いが与えられるという確証をいただいたからです。その希望によって、彼らはこの地上の現実の中で、喜びをもって生きていくことができたと思うのです。

私の大好きなクリスマスの絵に、スペインの画家エル・グレコの描いた「羊飼いの礼拝」があります。

全体的に暗い背景の中、中心にいる幼子イエスさまが明るく浮かび上がっていますが、それはランプのような光によって照らされているのではありません。そうではなく、イエスさまご自身が光源となって、周りにいるマリアとヨセフ、そして羊飼いたちを照らしている様子が幻想的に描かれています。その上方では天使たちが喜び歌っています。この絵は、イエス・キリストの存在そのものが、暗い世界に与えられた光である、ということを言おうとしているようです。

9節で天使が羊飼いたちに現れたときも、彼らは明るい光を見たとあります。彼らにとって、救い主との出会いはまさに暗やみの中に輝く光を見たできごとと言えるでしょう。

12月25日がクリスマスの日と定められたのにはいろいろな歴史的経緯がありましたが、起源はどうであれ、そこに一つの象徴的な意味合いを見ることができます。この時期は一年で一番日が短くなる冬至の季節ですが、キリストの誕生日を冬至に合わせることで、この時から光が増し加わっていく様子をイメージすることができるでしょう。まさにイエス・キリストは、この世と私たちの心の中にある暗やみに希望の光を与えるために来てくださいました。

クリスマスは、すべての人のための、大きな喜びの知らせです。それは特に、この世で居場所のない人々、心の中に闇を抱えた人々のための、希望の知らせなのです。耳を澄ませば、今でも夜空に響く天使の歌声、羊飼いたちが神さまを賛美する声が聞こえてくるかもしれません。私たちも彼らに唱和し、暗く希望のない世にあっても、救い主の到来をたたえる賛美の歌声を響かせていきましょう。

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