ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像(藤本満師ゲスト投稿2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1)

藤本満先生による、ゲスト投稿シリーズ、第2回をお送りします。

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ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像

ピスティス・クリストゥ論争とは?

ピスティス・クリストゥ論争については、多くが語られてきました。簡易に整理いたします。ローマ人への手紙3:21に「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」、そして続く22節に「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(新改訳2017)とあります。

イエス・キリスト「を」信じるとは、原語では「イエス・キリスト『の』ピスティス」となっているだけです。新改訳2017の注には「イエス・キリストの真実」と原語そのままの別訳が掲載されています。「ピスティス」は、新約聖書では「信仰」の意で用いられていますが、本来は、真実・信実・誠実を意味する言葉です。イエス・キリスト「の」という属格は、対格的(目的格)用法で訳されるのが一般的と言えるでしょう。つまり、「イエス・キリストを信じる信仰」(新改訳)、「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波訳)と。

この対格用法に異論を詳しく唱えたのが、カール・バルトでした(『ローマ書』第二版)。バルトは「の」を、対格ではなく主格的用法で訳しました。「神の義は、イエス・キリストにおける『神の』信実によって啓示される」と(『カール・バルト著作集14 ローマ書』、新教出版1967年、114頁)。「の」は対格ではなく、つまり人間がキリストを信じる信仰ではなく、キリストを主格とした「の」、つまりキリストの真実、あるいは神がキリストにおいて現された真実(信実)と考えたわけです。ですから、聖書協会訳共同訳では
「イエス・キリストの真実」と訳されています。

バルトの論

では、なぜバルトはそのように考えたのでしょうか。私たちが神に対して、イエスに対して明確な信仰を示すべきことは聖書に明らかです。マリアは、主によって約束されたことは必ず成就すると信じ切った人です。イエスは湖の嵐におびえた弟子たちに、「まだ信仰がないのですか」(マルコ4:40)とお叱りになり、信仰の成長と確立を求められました。長血を患っていた女は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(マルコ5:28)と信仰を行動へと奮い立たせました。

しかし、ひたむきな信仰が聖書に多く記されていながら、逆に人間の信仰の弱さをも聖書は明らかにします。民の信仰はそんなに強固ではありません。「あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消える露のようだ」(ホセア6:4)。イエスも人間の信仰を憂えておっしゃいました。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)。

同じピスティスでも、「人の神への信仰」と「神の人への真実」、どちらに重きが置かれているのかと問うならば、やはり「神の真実」が「人の信仰」にまさって、前者が後者を支えていると言わざるを得ないでしょう。「実に、私たちは滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:22-23)。

バルトは、人の信仰のもどかしいまでの弱さと、神の真実の確かさとの関係を、あの悪霊につかれた息子を癒やしてほしいと願った父親の言葉に見て取りました。「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)。

一体信仰が欠けていない人がいるであろうか。一体誰が信じることができるのであろうか。・・・信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。・・・『わたしは信じる』と彼が言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助けください』という願いの中でのみ、その願いと共にであろう。(K.バルト「福音主義神学入門」『カール・バルト著作集10』、289頁)

人間がイエスに手を伸ばすというよりは、鉄くずが磁石に吸い付けられていくように、人間の方がイエスに引き寄せられていきます。人間が理性や判断を駆使してイエスを明確に捉えるのではありません。これが、私たちが誰しも体験している「信仰」だとバルトは考えました。

さて、ここで言われる信仰は、単なる神への信仰ではなく、罪人を義とする信仰です。私たちがまだ罪人として霊的に死んでいたとき、神はキリストにおいて私たちへの真実と愛を示してくださいました。それがキリストの受肉・十字架・復活という確固たる出来事です。

先のローマ書3:22をバルトがイエス・キリストのピスティスを「イエス・キリストにおける神の信実」と訳したとき、それは次のような意味があります。神の信実を実現するイエス・キリストは僕の姿を取り、十字架へと赴きます。それは神に見捨てられるような裁きでした。なぜ神の信実は十字架に現れたのでしょうか。バルトは「福音と律法」の中で次のように記しています。

罪に対する神の答えは「われわれは死なねばならぬ」という肉としてのわれわれの存在である。・・・しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。・・・救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われた者であると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくて神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給もうことによって、肉において服従を確証し給もうことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給もうことによって)引き受けるということ――これが恩寵本来の業である。(「福音と律法」『カール・バルト著作集5』、154~155頁)

端的に言えば、私たちが担うことのできない罪の代価を、キリストが僕の姿を取り、死に至るまで従順に神に従い、罪の裁きをその身に引き受けたことに神の信実が現れた、というのです。ですから、救われるのは、神の信実(恵み)のゆえなのです。

バルトは、後に扱いますガラテヤ2:16の「イエスのピスティス」も、ローマ3:22と同様に、「キリストを信じる信仰」ではなく、「キリストが信じる信仰」「キリストの信実」と訳すべきだと記しています。ガラテヤ2:19以下、私たちは、御子イエスに対する「私の信仰」によって生きているのではなく、実際は「御子キリストの信仰」の中に招かれ、御子の信仰の中にあって生きている、というのです。私たちの信仰の根拠は私たちの内側にあるのではなく、ただイエス・キリストにあります。

さて、こうしたバルトによる「私の信仰」ではなく「イエスの信実」が私たちを救うという論理は、プロテスタントの原点であるルターやカルヴァンから外れているのでしょうか。いや、むしろ、その真髄を捉えていると言えるでしょう。宗教改革の基点となった、いわゆるルターの「塔の体験」は、自らの信仰の弱さと罪の重荷にあえぐところから始まりました。1545年、自身の著作集がヴィッテンベルクで出版された際、老齢のルターが昔を振り返って、ローマ書1:17「福音には神の義が啓示されている」という一文をどう理解すべきか苦しんでいたことを述懐しています。当初彼は、神の義とは、神がそれによって罪人を裁く審判の正義(能動的な義)であると考え、そのような厳しい神に憎しみさえ抱いたというのです。ところが、ある時ルターは、神の義はキリストの十字架のゆえに罪人を義人とみなす、そして人間の側からは受動的に与えられる義であると理解しました。受け取る手段は「信仰のみ」による。その信仰とは、人は乞食の手のように、何も神に対して差し出すことはできず、ただ空っぽの手を差し出して賜物を受け取るに過ぎない、と。そしてその信仰さえも、人のうちに働かれる神の御業である、と。これらすべてに働いているのは、神の信実です。

義は私たちのうちにあるのではなく、ただキリストのうちにあることをカルヴァンも強調しました(『キリスト教綱要』Ⅲ.1.23)。私たちはあくまでも「自分自身の外に(extra nos)義を求めるべきである」(同)とは、宗教改革のキャッチフレーズとなります。義認は、キリストの神が私たちの罪を数えず、信仰の服従におけるキリストの義を私たちの「勘定に加算する」(同)ことによって起こるわけです。

さて、宗教改革者たちはみな、信仰もまた神の働きであることを強調しましたが、決してそれは人間の無力さだけに終わるものではありません。人は信仰によって「キリストの体に接ぎ木され、彼と一つになる」(『キリスト教綱要』Ⅲ.11.10)とカルヴァンは考えました。私たちの義は、外なるキリストの義であったとしても、そのキリストは私たちから遠く離れて立っているのではない。私たちは信仰によってキリストの義を着て」(ガラテヤ3:27)、「キリストの香りを匂わせ、我々の悪徳をキリストの完全によって覆いかつ埋没させる」(『キリスト教綱要』Ⅲ.1.23)、と。ルターもまた、信仰が私たちとキリストを結びつけることを教えました。キリストに結び合わされると、そこに神秘的な交換が生まれます。信仰者の罪と死がキリストのものとなり、キリストの義といのちが信仰者のものとなります。

さて、そのように考えますと信仰者の「生」は、キリストに結びついて、「キリストの信仰」、すなわち「キリストの神に対する真実な・信実な姿」の中に深く入り込んでいくことになります。ルターは次のように記しています。

このパン種は、突然すっかり発酵するのではなく、巧妙に慎重に時間をかけて、我々を、全く自分のものとにし、新しくし、神のパンとするのである。・・・このような生活は・・・存在ではなく、生成であり、休息ではなく、訓練である。・・・すなわち、進行中であり、行われているのである。(「大勅書に対するルターの弁明と根拠」『ルター著作集第一巻4』、聖文社。30~31頁)

それは、キリストの信実がキリスト者の生を変貌させ・形成していく過程です。そして、この過程の根底にあるのが、「人は神の像によって創造され、キリストの像に贖われる」という考え方です。

キリストの像(imago Christi)

人間は神の像(imago Dei)として創造されたとは、聖書に一貫して響いている、人間論の中核です(新約聖書ではヤコブ3:9、Ⅰコリント11:7)。しかし、新約聖書は創造論における人間よりは、一旦そこから堕落して、キリストにあって贖われた「新しい人間」に話を集中させます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)。

「神のかたちであるキリストの栄光」(Ⅱコリント4:4)、「御子は、見えない神のかたち」(コロサイ1:14)、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)と聖書が語るとき、こうした表現は、イエスこそが神がどのようなお方であるかを具現化している神の像である、ことを語っています。しかし、それだけではありません。イエスこそが、人間の本来的な姿を完全に現している神の像です。

アダム以来、人間は神のあり方を映し返すことを拒み、神に逆らい、神の似姿を失ってしまいました。神に逆らい、神の似姿を喪失してしまった人間のただ中に、神に呼応・対応している人間が出現した、それがキリストです。バルトが、「人間の存在論的規定は、イエス以外のあらゆる人間の真中に、イエスというひとりの人間がいるという中に基礎づけられている」(KD III/2, S.158、邦訳版『教会教義学』273頁)と言ったとき、それはこういう意味です。堕落した人間は、もはやだれも神の栄光を映し出すことはできない。しかし、その人間のただ中にイエスが来られ、神の像はイエスの人間性において見事に回復している、ということです。T. F. トーランスも次のように述べています。「キリストにおいて神と直面する再生させられた人間という立場からだけ、我々は、人間が神の像に創造された、という事実の意義を理解することができる」(『カルヴァンの人間論』、47頁)。神に呼応するただひとりの御方において、事実上、神に呼応していないすべての人間が、神に呼応する本来の人間性に立ち戻ることができるのです。この出来事をパウロは「義認」と考えたというのです。

しかし新約聖書は、キリストが真に神の像であるというメッセージだけで終わりはしません。十字架につけられた方の復活の中で、神の像が輝きだしました。その光は、神に背を向けている私たちを映し出し、あらためて神の像に作られた人間がどのようなものであるべきかを教えています。キリストが神の像であるということは、その事実を失ってしまった人間を再び神の像に与らせ、新しい人間性へと造りかえ、創造の時からの神の意図を成就するという聖化の方向性を内包しています。「神はあらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めておられたのです」(ローマ8:29)。この方に接ぎ木されることによって、私たちもまたキリストに似た者と変えられていきます。それが聖霊によってなされる聖化です。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)。

ですから、パウロはキリストを第二のアダムと呼びます(ローマ5:12-19、Ⅰコリント15:45-49)。罪を犯したアダムの代わりに、神の声に喜びをもって耳を傾け、それに従う人間がキリストとして出現しました。このイエスの信実において、失われた神の像は、完全に回復しています。私たちがイエスを救い主として信じ、「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」(ガラテヤ2:20)によって生きるとき、それは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(同)ことになります。

すると、キリストにある私たちの心も行動も具体的に変わります。私たちがキリストとの交わりの中に生きるとき、「キリストの心」、すなわち「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、・・・十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:6-8)姿勢が私たち自身のものとなり、私たちは不平や疑いに囚われず(同14節)、「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みる」(同4節)、遜った人・愛の人へと変えられていきます。「キリストにある」という私たちの生は「キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」(Ⅰヨハネ3:2)とあるように完成を迎えます。「キリストをありのままに見る」(同)、そしてありのままにキリストを反映するという終末(ゴール)を目指しながら、私たちも「イエスが歩まれたように歩」んでいきます(同2:6)。こうして私たちは、本来的な人間性をキリストの心と生の中に見いだし、それを自分のものとしていきます。

リチャード・ヘイズの貢献

日本でピスティス・クリストゥ論争に大きく貢献したのは、2015年に翻訳出版されたリチャード・ヘイズの『イエス・キリストの信仰:ガラテヤ3章1節―4章11節の物語下部構造』(河野克也訳、新教出版社)です。この本はヘイズの博士論文ですが、1981年当時における、そしてその後における「主格的属格」を支持する膨大な研究書を、「目的格属格」を論じる書物とともに挙げています(455~456頁)。バルトが、ローマ書3:22と共に指摘した「イエス・キリストの信仰」は、ガラテヤ2:16に出てきます。新改訳2017では、「ただイエス・キリストを信じることによって義と認められ」と、ここも対格(目的格)的属格で訳されていますが、注には「イエス・キリストの真実によって」と別訳を掲載しています。

イエスは神への徹底した従順を貫いたただ一人の人間であり、その真実は十字架にかかることによって自らのいのちを死に明け渡したことに極まっています。それが「イエスのピスティス」です。これは同時に「神のピスティス」でもあります。「『イエス・キリストの信仰』という表現は、イエスの死が、神に対する人間の忠実な行為であると同時に、人類に対する神の忠実な行為であることを示している」(39頁)。

さて、ヘイズの強調は、ここに働くイエスの人としての「代表」性にあります。イエス・キリストは私たちの代表であり、私たちの救いは、この代表者キリストに「参与すること」である(333頁)、と。洗礼を受ける時に、キリストと結び合わされ、キリストの命を共有するとき、私たちは神の命に与ることになります。

ヘイズは新約学者として、この手紙を分析することによって上記のことを明らかにしようとしますが、拙論ではその解説には入らないことにします。ただ、ガラテヤ人への手紙で「キリストのピスティス」を考えますと、以下のような論理が見えてきます。福音書が記される前、パウロがガラテヤの諸教会の人々に語ったイエスの物語が、この手紙の背後にあります。その物語がどのようなものであったのかは、パウロがガラテヤの教会の人々に語る次の表現で、人々はすぐに思い出したというのです。「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」(3:1)。言うまでもなく、十字架のイエス・キリストを描いたのはパウロ自身です(81~85頁)。このキリストを信じ、結び合わされるとき、それは単に私たちの罪が赦されるだけではありません。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:19~20)と、キリスト者はキリストのいのちに参与します。

さらに、私たちは「キリストの信仰から(ek pisteōs)生きる人々」(3:7)となります。私たちは「キリストにつくバプテスマを受け」(3:27)、聖霊を受けます。この聖霊に導かれて、私たちはイエス・キリストの「生」のパターンに従って生きる者となります。ヘイズは、キリスト者の生は、イエスにおいて啓示された信実のパターンの再演である(362頁)と記しています。

ヘイズのこうした考え方は、彼も用いる「物語」の概念(前回、説明しました)に基づいています。キリストの生は、まさに人間にとってのプロト物語です。プロト物語が私たちの前に現れたとき、それは私たちの人生(プレ物語)と対峙し、私たちを招き入れ、私たちはその招きに応じてキリストの物語の中に入り込み、この世にあってキリストの物語を再演すると者と変えられ、さらにキリストの運命を相続する者とされている。これこそが、パウロの救済論の全体像であることを、ヘイズの著書は「キリストのピスティス」がいかなるものであるかを考察しながら、明らかにしています。

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