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- 確かさという名の偶像(12)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、前回から第2部「真の信仰」に入りました。今回は第5章「空に向かって叫ぶ」を取り上げます。前回見た第4章では、旧約聖書に見られるイスラエルの信仰は、神に対して正直に向き合い、時には神と格闘することも辞さない信仰であるということを見ました。それでは、新約聖書においてはどうでしょうか?ある人々は、「新約聖書では旧約聖書よりも完全な啓示が与えられているので、キリスト者にとっての信仰の概念は旧約時代の人々とは異なる」と考えるかもしれません。しかしボイドは、新約聖書においてはイエス・キリストという形で神が究極的な自己啓示を行われたので、確かに信
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- クリスマスと御父の愛
クリスマスおめでとうございます。黙示録についてのシリーズの途中ですが、今日は少しお休みして、クリスマスの意味について考えてみたいと思います。キリスト教においてクリスマスとは、三位一体の神(父・子・聖霊)のペルソナの一人である御子キリストが、人類を救うために人間となってこの世に来てくださった(受肉といいます)できごとを祝うものです。神である御子がどのようにへりくだって私たちのために人間となってくださったか、その謙遜と愛について語られることが多いです。もちろん、そのようにクリスマスを御子キリストの視点から見ることは間違ってはいません。しかし、クリスマスのできごとを別の視点すなわち父なる神の視点から見ることもできます。つまり、クリスマスとは父なる神が愛する御子をこの世に送ってくださったできごとでも
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- 黙示録における「福音」(6)
(このシリーズの先頭はこちら)前回は、黙示録に登場する様々な暴力的なイメージ表現を文字通りに受け取るべきではなく、イエス・キリストの十字架というレンズを通して解釈しなければならいということを述べました。ヨハネはユダヤ教の黙示文学の標準的なイメージ表現を踏襲しながら、それを「小羊」キリストの中心イメージを通して逆転させているのです。ここまで述べてきたことは、重大な適用上の意義を持っています。すなわち、私たちが黙示録の暴力的なイメージを字義通りに受け取るか、象徴として、十字架のレンズを通して解釈し直すかどうかによって、私たちの神観、キリスト観、また倫理観すら大きく変わってくるのです。もし世の終わりに神/キリストが文字通り暴力的に世界を裁かれるのであるなら、福音書に描かれている愛のイエスの姿は神の
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- 世代から世代へ:現代イスラエルのメシアニック賛美
その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)私は、さまざまな言語、スタイルで神を賛美する音楽を聴くのが好きです。世界には実にさまざまな言語、種類の音楽があり、それは神が造られた世界の多様性、神の美の多様性とともに、上の黙示録の箇所にあるような、神が贖われた民の多様性を実感させてくれます。今回は現代イスラエルのメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと信じるユダヤ人)によるヘブライ語の賛美を紹介します。イスラエルのメシアニック・コミュニティーでは、1980年代にヘ
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- キリストの福音にふさわしい生活
所属教会で礼拝説教の奉仕がありましたので、その内容を要約・編集したものを掲載します。ただし、説教そのままではなく、かなり手を加えています。* * *「キリストの福音にふさわしい生活」(ピリピ1章27-30節)27 ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、 28 かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。 29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけ
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- ヘヴィメタル・チャーチ出演
3月30日(土)の夕方に横浜で行われる「ヘヴィメタル・チャーチ」という礼拝イベントでメッセージをしますので、お知らせします。「ヘヴィメタル・チャーチ」はその名の通り、ヘヴィメタルのスタイルで賛美を行う礼拝イベントです。個人的な友人でもある日本のクリスチャンメタルバンド、Imari Tonesの中峰さんが中心となって行われているプロジェクトで、第1回が昨年10月に行われましたが、今回がその第2弾となります。Heavy Metal Church, vol. 2: “Exodus”会場:西横浜El Puente日時:2024年3月30日(土)開場17:00 開演17:30出演バンド: Antidemon, Imari Tones, 時啓草, Anakrino当日はライブ配信
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(13)
(このシリーズの先頭はこちら)前回は教会共同体というコンテクストで聖書を読むことによって、個人による聖書解釈の限界を補っていくことができるということを述べました。しかし、教会で聖書を読むことはもっと積極的な意義もあります。それは私たちが何者であり、どのように生きるべきかについての指針を与えてくれるということです。つまり、私たちは教会共同体において聖書が正しく読めると同時に、聖書は教会にアイデンティティを与え、それぞれの時代と文化において神の民を形成していくという循環的な関係があるのです。聖書を救済史ナラティヴの枠組みを通して読むことの重要性は既に指摘しましたが、ナラティヴと私たちのアイデンティティとは密接な関係があります。私たちがアイデンティティ(自分が何者であるのかの理解)を持つためには、
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- ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(2)
(その1)ピーター・エンズの著書『確実性の罪(The Sin of Certainty)』について、前回は導入的な記事を書きましたが、今回からいよいよ本書の内容に入っていきたいと思います。本書は9章からなりますが、その第1章は「自分が何を信じているのか、もう分からない(I Don’t Know What I Believe Anymore)」というショッキングな題がつけられています。ここでエンズは、多くの(もしかしたらすべての)クリスチャンが一度は体験したことのある、ある瞬間について語り始めます。それは、神について自分があたりまえのように信じてきたことがらが揺さぶられ、脅かされるような体験です。それは必ずしも聖書やキリスト教について深く考えている時に起こるとは限りません。エンズに
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- シスター・ロゼッタの新しい歌
少し前にヘヴィーメタルについて連続記事を書きましたが、それがきっかけで日本のクリスチャンメタルバンド、Imari TonesのTak Nakamineさんご夫妻と知り合うことができました。たまたま家も近かったので実際にお会いする機会も与えられ、たいへん充実した楽しい時間を過ごすことができました。その時にいろいろと音楽についても教えていただいたのですが、その中でSister Rosetta Tharpeという黒人女性ミュージシャンの存在を知り、とても興味を覚えて自分でも調べてみました。ロックミュージックの起源については諸説ありますが、その誕生に大きな影響を与えた一人がシスター・ロゼッタです。彼女は1915年にアメリカ南部のアーカンソー州に生まれた歌手またギタリストで、エルヴィス・プレスリーやチ
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- N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(7)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6)ライトは第3部の13章「神の霊感による書」と14章「物語と務め」で、聖書が語り、私たちが生きている神の物語において、聖書自体がどのような役割を果たしているのかを論じています。ライトによると、聖書もまた、天と地が重なり、かみ合う接点の一つであり、聖書の「霊感」もこのような視点で捉えられると言います。聖書は神の啓示そのものですが、それは単なる「真なる情報の伝達」ではありません。ライトは、聖書が与えられた中心的な目的は、正しい教理を教えることではなく(それも大切ですが)、神の民がこの地においてその務めを果たすエネルギーを提供することだと言います。その意味でライトは、「無謬性」や「無誤性」に関わる議論はそれほど重視しません(259ページ)。ライトによると、
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- 神とともに創造する
前回の記事からずいぶん間が空いてしまいましたが、聖書における創造概念についてもう少し考察を進めてみたいと思います。ジョン・ウォルトン師の中心的主張は、聖書が語る創造の概念は物質的なものというよりは、機能に中心的な重点が置かれていると言うことです。そのような機能的創造概念が旧新約聖書全体に渡って見られることは、前回も述べたとおりです。今回考えてみたいのは、そのような創造の主体は誰か?ということです。もちろん、第一義的にはそれは唯一の神であることは言うまでもありません。しかし、同時に、神はその創造のわざ――つまり、世界に機能と秩序をもたらすこと――に参加するように被造物(特に人間)を招いておられるのではないかと思うのです。ビジネスの世界には「共創(co-creation)」という概念がありますが
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- 子としてくださる御霊
所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。 子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしてい
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- 礼拝における連帯
11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。(黙示録5:11-14)黙示録4-5章では、キリスト者の基本的な世界観が示されています。世界の空間的中心は天にある神の王座であり、時間的中心はイ
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- オープン神論とは何か(6)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5)オープン神論の実践上の意義について、前回は祈りの問題を取り上げましたが、今回は神の導きを求めることについて考えます。 「選ばれざる道」アメリカの詩人ロバート・フロスト(1874-1963)の詩「The Road Not Taken(選ばれざる道)」は、アメリカ人なら誰でも知っている詩で、子どもたちは学校で必ず習います。この詩は英語で書かれた最も有名な詩の一つであると同時に、最も誤解されている詩としても知られています。詩の語り手は森の中で、二手に分かれた道のどちらを行くべきか、逡巡しています。どちらの道も同じように見え、なかなか選ぶことができません。どちらを選んでも、もう一方の道を行っていれば良かったのではないかと後悔することになりそうです。そしてこの詩
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- 聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿7)
シリーズ過去記事 0 1 2 3 4 5 6⑦いのちに向かう教会今回の記事がこのシリーズの最終回になります。少し内容を振り返ってみます。「⓪はじめに」では「聖なるものの受肉」誕生までの物語をお分かちしました。キリスト教倫理は単に良い悪いを判別するためだけのものではなく、もっと豊かなものではないか、そんな格闘が私の出発点でした。「①キリスト教倫理と自己物語」では、従来のキリスト教倫理のイメージを自己物語論の考え方を使って書き換えることを提案しました。イエス・キリストの「聖なるものの受肉」の歩みを手がかりにすることで、私たちはより豊かな神さまの冒険を味わっていくことができるはずです。「②『肉』と『聖』といのち」では、物語の書き換えのカギとなる「肉」「聖」「いのち」というキーワードを見ていきました
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(3)
前回の投稿で、福音派の標準的な聖書解釈法である「歴史的・文法的方法」について概観しました。歴史的・文法的方法の基本的な前提は、「聖書のテキストには、聖書記者が意図した唯一の意味が内在している」というものでした。それをできるだけ正確に取り出すこと(釈義exegesis)が、聖書解釈の目的であったわけです。歴史的・文法的方法では、聖書が書かれた当時に「意味したこと」と、聖書が現代の私たちに「意味すること」を区別することが重視されます。聖書が意味したことを明らかにするのが釈義の務めであるなら、聖書が現代の教会に対して意味することを考える作業は「適用」と呼ばれます。歴史的・文法的方法によると、聖書が「意味したこと」は聖書記者の意図した意味と同一であり、従って一つしかありません。一方、聖書が「意味する
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- 信仰と疑い――ピーター・エンズのポッドキャスト
以前、アメリカの旧約聖書学者ピーター・エンズの著書 『確実性の罪(The Sin of Certainty)』 を取り上げ、信仰と疑いについて考察しました(こちら)。先日エンズが配信しているポッドキャスト “The Bible for Normal People” でこのテーマが取り上げられていたので、紹介します。B4NP Podcast Episode 12: “Faith and Doubt: No, You’re Not the Only One”この中でエンズは、もう一人のホストであるJared Byasと、クリスチャンの人生における、不確実性や疑いの意義について語り合っています。詳しくは実際にポッドキャストを聴いていただきたいと思いますが、いくつか心に残った
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- 「あなたの信仰があなたを救った」(4)
(その1 その2 その3)前回の投稿では、ルカ福音書における「信仰」の概念は、ローマ帝国や旧約聖書における「信仰(あるいは信頼)」の概念とつながるものであることを見ました。イエスに対するクリスチャンの「信仰」は、ローマ皇帝が臣民に対して要求した「信頼(忠誠)」と同様のものとして考えることができます。しかし、イエスに対する「信仰」と、皇帝に対する「信頼」とは異なる側面もあります。今回は、両者の間の連続性ではなくて非連続性の側面について見ていきたいと思います。その再注目するのは、ルカがイエスをどのような種類の「王」として描いているか、ということです。王なるイエスに対する「信頼」このことが非常に示唆に富む形で表されているのは、ルカ22章1-62節おける、最後の晩餐とそれに続くできごとの記述です。こ
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- 「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その3)
(その1 その2)関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画
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- 受肉というスキャンダル
今日は灰の水曜日であり、レント(四旬節)の期間に入りました。教会暦では復活祭に先立つ40日間を、自らを省みる祈りと悔い改めの期間としています。40日という期間は、イエスの公生涯に先立つ荒野での試練に対応していますが(過去記事を参照)、それはもちろん究極の試練である十字架をも指し示すものでもあります。灰の水曜日には、教会によっては信者の額に灰で十字のしるしをつける儀式を行います。そこには自分が死すべき存在であることを覚え、悔い改めて神に立ち返るようにというメッセージがあります。このことを思いめぐらしていたとき、死すべき存在である人間のひとりに神がなってくださったという受肉の意味について、改めて考えさせられました。私はレントと受難週にはよくバッハのマタイ受難曲を聴きます。お気に入りは大定番ですが

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
