「狼なんか怖くない」ヨハネ10:11-18 中村吉基

エゼキエル書34:1-8;ヨハネによる福音書10:11-18

エゼキエル書34:1-8;ヨハネによる福音書10:11-18

私たち日本人にとっては羊飼いというのはあまり身近なものではありません。また、私たちの普段の生活の場で羊を目にすることもほとんどありません。たまに外国での写真やテレビの映像を通して見る程度です。しかしイエスさまが生活をされたパレスチナでは羊を飼うということはごくごく身近なことでありました。ですから羊飼いと羊の関係に、神と人間をたとえてイエスさまは今日の箇所で人々に教えられたのでしょう。イエスさまが生きたパレスチナとは生活環境やそのスタイル、価値観がまったく違う私たち日本人がイエスさまの言葉の意味を理解するには羊飼いと羊の関係をまず知ることが必要です。

羊飼いは羊を大切に育てました。たくさんいる羊の一匹一匹に名前を付けていました。羊飼いがその名を呼ぶと羊が近づいてきました。パレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われます。羊飼いは一定の場所に定住せずに多いときには100匹の羊の群れを追って、水や草のあるところを求めて移住していきます。羊はきわめて弱い動物です。一匹でいたならば野獣に襲われて死んでしまうこともあります。羊飼いの仕事は、羊を一つの群れに束ね、狼や盗人から羊を守り、水や草のあるところに羊を導くことでした。夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくのだそうです。名前を付けているくらいですから羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたようです。イエスさまの教えを聴いていた人々はこういう羊飼いの生活をよく知っていたのです。サムエル記にはこういう描写も残っているほどです。

彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった(サムエル下12:3)。

羊飼いは愛情を込めて羊に接していました。それを土台に今日のたとえ話が語られています。羊飼いは羊が狼や盗人の餌食にならないように細心の注意を払います。迷った羊がいたならば必死になって捜します。11節「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあるようにです。

日本語の聖書では「良い」羊飼いと訳されますが、ギリシア語では「良い」という言葉が2つあります。それは「立派な」「優秀な」羊飼いである、というような時に使われるagathos(アガソス)という言葉と、「美しい」「善良な」羊飼いだ、とするkalos(カロス)という言葉があります。よく使われる言葉ですが、11節で言われている「良い羊飼い」というのは後者のkalosが使われています。魅力的な美しい羊飼いであるというようにこの羊飼いには誰もが魅了されるというのです。

しかし、羊飼いが忙しい時や養う羊がたくさんいるときには人を雇って羊の管理をさせるときがあります。お金で雇われた人は所詮、雇われ人です。中には忠実にその仕事を成し遂げた人もいたかもしれませんが、本物の羊飼いとは羊に対する態度や心の持ち方が違うのです。ふだん何もない時にはその違いは見えてきませんが、いざ何かが起こると明らかに本物と偽者の羊飼いの心が態度に表れてきます。イエスさまはうまくそこを表現しています。

羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

しかしイエスさまは「悪い羊飼い」という表現はされません。ここで狼のたとえ話をされるのです。狼や飢えた野獣が羊たちを狙って襲うというようなこともしばしばあったのでしょう。羊飼いが本当に羊を愛しているのであれば自分のいのちをかけて狼と闘います。しかし、お金で雇われた人は狼が来ると羊を見捨てて逃げてしまいます。

狼は羊を奪い、また追い散らす。

同じヨハネによる福音書の11章52節にはイエスが「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」と言われていますし、また12章32節では「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と語られています。つまりイエスさまの御心は「奪う」ことや、「追い散らす」ことではなく、ご自分のもとに「集める」「引き寄せる」ことにありました。

本物の愛を持って行動する羊飼いと自分の損得ばかりを考える利益中心主義者の雇われた人との違いが浮かび上がってきます。本物の愛に生きる人は自分と関わるもののいのちのためにはいかなる犠牲をも払います。損得は考えません。それどころか自分に与えられている権利も捨てます。自分の時間や休息のときさえも愛するもののために使います。自分がくたくたに、あるいはぼろぼろになろうとも、それを惜しむことはありません。たとえば愛するものが差別されている、不幸な状態にある…一生懸命にそこから救い出そうとするのです。

それに対して、雇われた人の姿は損得、利益の有無がこの人の行動を左右していきます。損になると分かれば、雇い主から預かった大切な羊であっても簡単に放り投げて関係を切ってしまいます。あちらのほうが利益になると思えば、すぐさまそちらに向かっていきます。こちらのほうが、都合が良いと思えばそれまでの関係を清算して、こちらへ向かってくる。いわば「ご都合主義」です。こういう人との人間関係は常にメリットを重視して、あまり信頼関係を築くことができません。私たちがこのようにならないということと、私たちの周りにこういう誘惑が多いことを憶えて警戒しなければなりません。

14節をご覧ください。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とあります。そして15節につながります。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」。この魅力的な、美しい羊飼いが犠牲となって命を捨てるのではなく、それは神の御心が顕わされるためだとイエスは言われました。そして続く16節では「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われます。ここでは唐突に別の囲いで過ごす羊が出てきますが、この羊たちは誰のことを言っているのかと言えば、ユダヤ人だけではなくて、全てこの世界に住む外国人たちにも羊飼いとしての務めがあることを示しています。

神の救いに与るものはヘブライ民族だけではなく、そこに集まってくる一匹一匹の羊たちにはすべて救いが備えられている。それが先ほど申し上げましたイエスの主たる働きであって、奪い、追い散らすことではなく、ご自分のもとに「集める」「引き寄せる」ことにありました。その羊たちの群が信仰の共同体に、やがては教会になっていくことを意味します。

終わりの18節には「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」とあります。掟などというと私たちには縁遠いものに感じられてしまうかもしれませんが、これはイエスの死を通して、私たちは神から永遠の命を与えられていて、私たちはその主の命によって生かされ、その恵みによって今日の私たちがあります。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)とありました。ただ見た目が美しい、魅力的な良い羊飼いだというのではなく、一匹一匹の羊のために命を捨てる「羊飼い」なのだというたとえを通してイエスの十字架の死と、そこからの復活を説明しようとされたのです。

また、イエスのこのたとえ話の一つの意図には、おそらくこの世界が絶えず危険に満ちているという認識があったからではないでしょうか。私たちの周囲にはさまざまな形をした「狼」がたくさん存在しています。このような狼たちはいつも私たちを狙っています。自分の願望を達成させるためには出来うる限りに他人を利用し、用がなくなったら捨ててしまう。そしてその達成に向けて障害になるものや反対するものは邪魔者である、という考えがはびこっています。これはイエスの時代もそして私たちが生きる現代も同じです。大きな権力を持って少数派を押さえつける。あるいは武力を使って従わせる。このような「狼」の仕業によってどれほど多くの人の人生が破壊され、多くの人が涙を流し、犠牲となったのか計り知れません。そしてそのような破壊行為は今この時も続いています。

イエス・キリストの生き方は先ほどもお話ししたように、これとはまったく逆の人生でした。力で人を服従させるようなことはありませんでした。自分の楽しみや利益や幸せのために人を動かすということはまったくない生涯でした。福音書の中にこういう記事があります。イエスさまの弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いのかと論争になったときに、イエスさまは「(わたしは)仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20・28、マルコ10・45)とはっきり弟子たちに宣言されました。「仕える」とは自らの利益や権利をすべて捨て去ることです。相手の前にへりくだってその人の幸せのために尽くすことです。それは民族や国や思想、信条、宗教、セクシュアリティーなどすべてを超えて、すべての人々を対象にイエスさまはこのように言われたのでした。

三浦綾子の小説「塩狩峠」には、士族の子として生まれた永野信夫という人物が登場します。日本古来よりの価値観を祖母に教えられて育ちますが、祖母の死後、クリスチャンであったために信夫が物心つく前に、祖母が家から追い出した母親と共に暮らすようになります。その母親が当時、世間一般で忌み嫌われていたキリスト教徒であることを知って信夫はショックを受けますが、母親にも、同じくクリスチャンである妹にも、そしてもちろんキリスト教にも心を開くことができずにいました。生まれつきの生真面目さゆえに、思春期以降、悩むことが多かった信夫でしたが、そうした時、ことあるごとに信夫の耳に入るのは聖書の一節でした。

尊敬する父親も実はキリスト教徒であったことをその死後に知ることとなり、また、心惹かれる親友の妹もそうであると知り、次第にキリスト教に対して柔和な姿勢をとり始める信夫はふとしたきっかけでキリスト教を受け入れます。彼は鉄道職員として働きますが、結納のため札幌に向かった信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、逆方向に暴走し始めました。乗客は声もなく恐怖に怯えます。信夫はこのままでは大惨事になると判断して飛びつくようにハンドブレーキに手をかけましたが止めることができませんでした。そこで信夫はとっさに線路の上に身を投げ出し、自分が列車の下敷きとなって、無理矢理に列車を止めました。まさに命をかけて多くの人の命を救い出しました。この小説は、旭川六条教会におられた長野雅夫氏をモデルにしたものです。実話をもとに三浦綾子さんが小説にしました。

私たち人間一人ひとりの中には欲望があり、自己中心の思いがある限り、イエスのように良い羊飼い、本物の愛を携えた羊飼いになることはできません。長野氏のように見ず知らずの人のために命を捨てることができないとは言い切れませんが、それはごくごく稀なことです。今日の「良い羊飼い」のたとえはイエス・キリストの私たちへの愛の確かさ、本物の愛を示してくださった「良い羊飼い」を示すものです。今日の箇所には3回「命を捨てる」という言葉がでてきました。この言葉が繰り返されているようにイエスさまは私たちを愛し、大切にしてくださるのです。そして十字架に至るまで、最後の最後まで私たちに奉仕してくださったイエスさまの姿に感謝しながら、私たちはここから新しい1週間に出発しましょう。

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