男女を含めて天的な希望を持つクリスチャン、あるいは大群衆のクリスチャンが証人の統治体の聖書の解釈の間違いを指摘する事があるかもしれません。
「(3)大群衆が統治体の聖書の解釈の間違いを指摘するのは聖書的に正しいですか」「(4)天的な希望の女性が統治体の聖書の解釈の間違いを指摘するのは聖書的に正しいですか」
エホバの証人の統治体は、初期クリスチャンのエルサレム会衆の長老団になぞらえられるグループであるとみなされています。ですから、証人たちは、統治体は神とキリストの導きを受けている神の組織なので、間違いをしないと教えられています。
では、エホバの証人の統治体が、聖書の正確な知識を退けるということがあるでしょうか。そのことを考えてみます。
(1)一世紀の聖霊で油そそがれた長老が真理からそれパウロが退けられる危険もあった
聖霊で油そそがれた長老は間違った判断を決してしないのでしょうか。残念ながら、そうではありません。一世紀においても、聖霊で油そそがれた長老が真理において間違った道をとったことがありました。
たとえば、ペテロとバルナバが、アンティオキア会衆で、「割礼を受けた人たち」の影響を受けて、割礼を受けていない非ユダヤ人との交際を避けるということがありました。(ガラテア2:11-14新世界訳改訂版)
ここで注意しなければならないのは、ペテロとバルナバは、聖霊に導かれており、基本的には神に忠実であろうとしていた聖霊で油そそがれた長老であったということです。彼らも、割礼の問題で、真理からそれる危険がありました。ですから、聖霊で油そそがれた長老であっても、必ずしも、神の目に正しい道をとっていくという保証はありませんでした。
ペテロとバルナバはなぜ、真理からそれそうになったのでしょうか。彼らは、周囲に合わせたいと願ったでしょう。ペテロは、「割礼を受けた人たちを恐れた」と述べられています。(ガラテア2:12新世界訳改訂版) ペテロは、以前も人を恐れてイエスを否認してしまいましたが、その時も神よりも人に受け入れられたいという願いによって間違った行動をとりました。
それで、聖霊で油そそがれた長老も完全ではなく、聖書に基づかない間違った行動をすることがあります。このことがきっかけで、証人の時代の算定によると西暦49年頃開かれた割礼を非ユダヤ人のクリスチャンが割礼を受けるべきかどうかという会議が行われました。
わたしは、ガラテア書にあるアンティオキア会衆にペテロが訪問してパウロと意見が分かれた時期が、エルサレムで割礼に関する会合が開かれた時の前か後か幾らか分かりませんでした。(ガラテア2:11,12)
しかし、パウロは、アンティオキアでペテロに対して、「ユダヤ人であるあなたが,異国の人のように生活し,ユダヤ人のようには生活していないのに,どうして異国の人々にユダヤ人の習慣に従って生活させようとするのですか」と非難しています。 (ガラテア2:14新世界訳改訂版)
もし、割礼に関してエルサレム会衆でのヤコブの裁定がくだされた後であれば、パウロはその事実に言及したはずです。
ですから、この出来事は、割礼の話し合いがもたれる前に起きたことで、このことがきっかけで、パウロは問題をエルサレムの年長者団に持っていたのでしょう。もし、そうであれば、最初はバルナバやペテロでさえ、割礼の問題で真理からそれそうになっていたことになります。
ですから、彼らは、パウロの言葉によって、すぐに正しい道に立ち返ることができ、エルサレムの会合で正しい発言ができたということになります。
その時、もし、割礼をすべてのクリスチャンが受けることを強制されるならば、重要な良いたよりの真理が否定される危険性がありました。つまり、クリスチャンが割礼を受ける必要があるということになると、信仰によってキリストの贖いの犠牲に頼ることをやめて、救いを得るためにモーセの律法を守るという業に頼るという道に逆行する危険がありました。(ローマ3:30)
一世紀には、幸いに新参者のパウロが、聖書的な根拠に基づいて割礼の問題について論じました。(ガラテア2:12新世界訳改訂版)パウロはその問題をエルサレム会衆に持って行って、そこで聖書的な根拠について論じる集まりを設けることを要請しました。
その集まりでは、幸いなことに当時、エルサレム会衆を主宰していたと思われるヤコブは、聖書と事実に基づいて推論し、正しい結論に達しました。(使徒15:13-15)エルサレム会衆の中心的な長老たちであったヤコブやペテロは、真理において新参者であったパウロの言葉を謙遜に受け入れました。
しかしながら、エルサレム会衆の長老団が全体として、パウロの主張を退ける可能性もありました。エルサレム会衆の中に、クリスチャンに割礼を強要する「割礼を受けた人たち」は現として存在していました。(使徒15:5。ガラテア2:12新世界訳改訂版)
「割礼を受けた」「以前はパリサイ派だった信者」の言うことが押し通される危険もありました。(使徒15:5新世界訳改訂版)ですから、パウロの主張のために、パウロが、一世紀のエルサレム会衆の年長者団から、退けられるということは起こり得ました。 ガラテア人の手紙によると、当初、ペテロもバルナバでさえ、「割礼を受けた人たち」の影響を受けていたので、そのような事態が進展する可能性もありました。(ガラテア2:12新世界訳改訂版)
幸い、彼らはパウロの聖書的な論議によって助けられました。パウロは、ガマリエルから教えを受けていて、聖書に精通していたので、彼の聖書の正確な知識によって、一世紀のクリスチャンが背教してしまわないように助けました。(使徒22:3)一世紀の聖霊で油そそがれた長老たちは、パウロの助けにより、真理から徐々に離れていき真理を否定して、神の是認を終局的に失うという事態をまぬかれました。
しかしながら、そうした幸いな状況が、過去において神の民にいつも起きてきたということではありませんでした。神の民の中で、神の真理が必ずしも、順調に受け入れられないということが起こり得ます。
とりわけ、奇跡的な神からの導きのない現代においては、ペテロとバルナバのように、エホバの証人の統治体も、真理の理解において間違いをすることがあります。
神の民が、エホバ神によって「命と死」という二つの選択が提示される場合に、神の民が必ず命の道を選択するという保証はありません。(申命記30:15-18)エホバ神は、被造物が自由に判断し、選択することを許されるので、どちらの状況も起こり得ます。パウロの言うことが受け入れられる可能性もあり、退けられる可能性もあったのです。
(2)パウロは真理において長いペテロやバルナバに盲従せず聖書から論じて神とイエスに従った
その当時、パウロは比較的に新参者で、ペテロやバルナバは、パウロより、真理において長かったのです。しかし、パウロは、ペテロやバルナバが自分より真理より長いからといって、盲従はしませんでした。
パウロは、聖書をよく理解していたので、聖書に従いました。それは、パウロが神とイエス・キリストに第一に従ったことを意味しました。 パウロも、人間ではなく神に従うという立場をとりました。(使徒5:29)パウロのとった態度は、預言者ナタンがダビデの悪行を指摘したこととあい通じるところがありました。
さらに、パウロは宣教旅行の後期に、命の危険をおかしてもエルサレムを訪問して、エルサレム会衆の監督団に自分が行っていることを知らせて、できるだけ意志の疎通を図り、敬意を払いました。(使徒21:11-13,17-19)
そして、使徒たちの活動の記録によると、パウロがエルサレムを訪問した際に、パウロは、エルサレム会衆の監督団から、律法に対して熱心なクリスチャンのために律法に従っていることを示すよう要請されたので、それに従いました。(使徒21:20,21;23-26)
このことは、エルサレム会衆に、やはり、律法を守ることを強調するクリスチャンが大勢いたことを示しています。エルサレム会衆の監督たちは、一歩間違えば、モーセの律法を守ることによって、救いを得るという立場になってしまう危険もありました。このことは、ヤコブのような真理において長い聖霊で油そそがれた監督が、真理において間違い得る危険があったことを示しています。
でも、パウロは、割礼も無割礼も重要ではないこと、つまり、割礼などのモーセの律法の要求をクリスチャンが守っていても問題がないことを理解していました。(ガラテア6:7,8,15)それで、エルサレム会衆の監督団の要求に応じました。
それは、「律法の下にいる人に対しては律法の下にいる人のようになり」、「 あらゆる人に対してあらゆるものに」なり、ユダヤ主義のクリスチャンも受け入れるためでした。(コリント第一9:20,22新世界訳改訂版)
しかしながら、パウロは、諸会衆に対する手紙の中では、はっきりと、律法を守ることを非ユダヤ人のクリスチャンに強制する必要がないことを話しました。このことは、やはり、パウロがエルサレム会衆から退けられる可能性があったことを示しています。
パウロは割礼の問題について多くの会衆の手紙の中で論じました。そのようにして、み言葉の剣で戦いました。パウロは、長い間蓄積されてきた間違った教えをみ言葉の剣によって覆していました。(コリント第二10:4,5)
(3)イエス・キリストや預言者エレミヤの宣べ伝えたことも既成のグループからは退けられた
聖書に基づく教えが必ずしも神の民から順調に受け入れられないということは、イエス・キリストご自身に起きたことから分かります。
イエス・キリストの宣べ伝えた音信は、当時の人々にとっては、新しい音信でした。イエスのもとに集まって来る人もとても多かったのですが、イエスの新しいキリスト教の教えは、当時の宗教指導者のパリサイ人や書士たちの大勢からは受け入れられませんでした。(ヨハネ11:47,53)
そのために、イエスは、ユダヤ人の会堂に集まっていた人に聖書から話した時に、人々を怒らせ、殺されそうになったことさえありました。(ルカ4:17,18)イエスから盲目をいやされた男の人は、イエス・キリストを「神の所から来た人」として認めたために、会堂から追い出されてしまいました。(ヨハネ9:33,34新世界訳改訂版)
そのことについて、イエスは、人は長く慣れ親しんだ教えから、なかなか離れられないということを指摘されました。「古いぶどう酒を飲んだ後は,誰も新しいものを欲しがりません。『古いのはうまい』と言うのです」と言われています。(ルカ5:39新世界訳改訂版)
ですから、イエスは、モーセの律法に伴う歴史的な宗教上の教えに慣れ親しんでいたユダヤ人が、新しいキリスト教をなかなか受け入れないという傾向があると指摘されました。
また、預言者エレミヤの真の預言の場合も、当時のイスラエル人社会では、不人気な預言でした。エレミヤの側に立つ人はいましたが、少数派でした。(エレミヤ26:24;36:10;38:11-13)そのため、エホバ神を真に代表する預言者が、不利な立場に立つというあるべきでない状況が起きました。
(4)神に忠実であろうと願っている聖霊で油そそがれたクリスチャンのグループであってもなぜ間違った判断や決定をするのか
私たちは、聖霊で油そそがれたクリスチャン、とりわけ長老であれば、無条件で神がその者と共にいると考えがちかもしれません。また、証人の統治体がパウロの言葉を受け入れたペテロやバルナバのようであってほしいと望むと思います。そうであることを望みたいものです。
しかし、それはいつもそうなるとは限りません。どの聖霊で油そそがれたクリスチャンも、また、聖霊で油そそがれた長老であっても聖書から離れることがありえます。
ある新しく正しい聖書の理解が受け入れられるかどうかは、その時の宗教情勢にもよりますし、その時の個々の人の自由意志にもよります。聖書の真の預言は、いつも、その時代の神の民に好意的に受け入れられてきたというわけではありませんでした。
イエスはその新しい教えのために殺され、エレミヤは神の真の預言を伝えたために、「投獄された」のです。(エレミヤ37:18新世界訳改訂版)イエスの時代の宗教指導者たちは、イエスの教えが広まるならば、ローマ帝国が攻めてきてイスラエル国家が存続できなくなるのではないかと恐れました。(ヨハネ11:48新世界訳改訂版)
さらに、パウロは割礼を強制しようとする人たちは、「人から良く見られようとする人たちです。彼らは,キリストの苦しみの杭のために迫害されるのを避けたいだけです。 」と述べました。(ガラテア6:12新世界訳改訂版)
パウロは、聖霊で油そそがれたクリスチャンになった「以前パリサイ派であった」長老が、迫害を避け、人から受け入れられたいという動機を持っていたと述べています。(使徒15:5新世界訳改訂版)
ですから、聖霊で油そそがれたクリスチャン長老といえども、いつも正しい判断をするわけではないということを聖書の事例も示しています。結局、聖霊で油そそがれたクリスチャンが皆、神の王国の希望をとらえるわけではありません。「招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ないのです」(マタイ22:14新世界訳改訂版)
中には、不忠実になってしまう聖霊で油そそがれたクリスチャンが存在します。それは、わたしも含めてどんな聖霊で油そそがれたクリスチャンにも起こり得ることです。死に至るまで、忠実を保たなければならず、途中で離れ落ちる聖霊で油そそがれたクリスチャンもいるわけです。
ですから、他の天的な希望を持つクリスチャンが統治体の間違いに気づいて、その間違いを聖書から指摘したとしても、それを統治体が謙遜に受け入れるという保証はありません。ペテロやバルナバのような真理に長い長老が真理からそれそうになったのですから、ましてや、今日、聖霊の奇跡的な導きのない時代は、聖霊で油そそがれた長老であっても、容易に真理からそれることがあるからです。
エホバの証人の統治体が、ラッセル兄弟が最初に提唱した教えに慣れ親しんできたために、その教えを快く思って、離れたくないということもあるでしょう。『古いのはうまい』と言うのです」(ルカ5:39新世界訳改訂版)さらに、他の人に受け入れられたいとか、その聖書的に正しい教えによって迫害されることを恐れるかもしれません。
また、聖書の十分な正確な知識が欠如しているとこともあるかもしれません。さらに、聖書の正確な知識に基づいた教えを受け入れるためには、幼子のような謙遜さと神に対する信仰が求められます。もし、統治体の兄弟たちが神に求められているそのような謙遜さや柔軟性に欠けているなら、やはり、自分たちが従来受け入れてきた教えに調和しない聖書的な教えに謙遜に注意を払うことができないかもしれません。
エホバ神は、神の民の間で、自由意志による自由な進展があること許されます。ですから、エホバの証人の統治体が、聖霊で油そそがれたクリスチャンが聖書に基づいて語った言葉を退け、そして、その天的な希望を持つ聖書の研究者を、証人の組織の中から排斥するということさえ起こり得ます。
それで、今まで、エホバの証人がその解釈の点で、何度も間違ってきたように、間違い続けるということもあり得ます。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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