「同じ目線に立って」ルカ6:17−26 2022/02/13 中村吉基

エレミヤ書17:5−10;ルカによる福音書6:17−26

エレミヤ書17:5−10;ルカによる福音書6:17−26

礼拝においてルカによる福音書から聴き続けています。ルカの1章で「マリアの賛歌」と呼ばれる記事がありますが、この中でルカはイザヤ書40章3節の引用に加えて「高い者は低くされ、低い者が高められる」(1:48−55)と付加します。ルカ独自の視点といってよいと思います。今日の箇所はその延長線上で、ルカの視点の大切なところを伝えています。

今日の箇所の直前になりますが、6章12節以下で主イエスが山に登られました。いったい主は何をしに行ったのでしょうか。その目的の一つは「祈る」ためであったことが記されています。特別なことではなくイエスは日常的に山に登り、祈っておられました。「夜を明かされた」(12節)とあるように夜通し祈ることもしばしばあったことでしょう。

主イエスはまた、この山上で12人を選び使徒とされたとも記されてあります(13節)。モーセの物語にもありますように、旧約の時代から山というのは「神が居られる聖なるところ」と考えられていました。詩編の詩人は121編で山から神の助けがもたらされると歌いました。普段人々が生活する山の麓(平地)よりも、神々しい場所、山は天に向けてそびえ立っています。けれども主イエスはずっと山の上におられたわけではなく、彼の舞台は山を下ったところにあるのです。山上でふんぞりかえって人々が神を拝みに来るのを待っていたわけではありません。主イエスご自身が山から下りていかれる。そして彼の目線を人々の目線に合わせていく。そのようなところから今日のエピソードが描かれていきます。

イエスが聖なる、静寂な山を降りられたところには何があったでしょう。17節以下をごらんください。「平らな所にお立ちにな」られるとあらゆる所から主の助けを必要とする群衆が集まり、ひしめいていました。ユダヤの全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために……汚れた霊に悩まされた人々も……群衆は皆、何とかして、イエスに触れようとした。人の声など全く聞こえない山とは正反対の場所、それが「イエスの場」でした。ワイワイガヤガヤ……何重にも民衆の声は聞こえてきます。神から世に遣わされた「場」それが今日の箇所の舞台である「平地」でした。

今日の箇所は皆さんお気づきの通り、マタイによる福音書の5章に記されている、いわゆる「山上の説教」とは対峙して「平地の説教」「山麓の説教」などと呼ばれるところです。読み比べてみるとかなりマタイによる福音書とは趣が異なります。20節から49節までイエスの説教が続きますが、今日はその最初の部分です。「貧しい人は幸いである」。これは原文のとおりに訳せば、

「幸い、貧しい人々、なぜならあなたのものだから、神の国は」

となります。

主イエスは山の麓の「今、ここで」神の国の福音を聴いている弟子たち、人々の目線に合わせて救いの言葉を語りかけています。いやそれは同じ目線というよりは「下から目線」だったと言う方が正しいかもしれません。なぜなら20節に「イエスは目を上げ」とあるからです。当時は先生が座り、弟子たちが周りを取り囲んで立ったままそれを聞くという日常のスタイルがあったようです。
ルカが大切に記したのはこうした主イエスの息遣いといいますか、主の態度に関する描写です。そしてイエスの言葉の中に「今、ここ」にいる、現実に生きる人々に向けて、生きる原動力となるメッセージです。
「今、飢えている人々は幸い」
「今、泣いている人々は幸い」
「今、満腹している人々は不幸」
「今、笑っている人々は不幸」

なぜ、貧しい人々や、飢えている人々、泣いている人々が「幸い」なのでしょうか。私達には大きな疑問です。冒頭にご紹介した「マリアの賛歌」の一節もそうです。

主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低いものを高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。(1:51−53)

私であれば「イエスさま、ちょっと待ってください」と口を挟みそうになります。「でもこの社会の現実は、権力のある者がますます高められ、身分の低いものがもっと低くされ、飢えた人は飢え続け、富める者は満腹しているではありませんか」と。

しかし主イエスは宣言するのです。
「神の国はあなたがたのもの」だと。

神の国ではみんなが主人公。神の国では切り捨てられることがない。黙殺されることがない。この時主イエスの言葉を聴いていた人は、確かに貧しい人々でした、赤貧といってよい人たちでした(「乞食」と訳している聖書もあるほどです)。確かに飢えている人々でした。そして確かに泣きつづけている人々でした。しかし確かなことは神の国はこの人たちのものであるということでした。神は人々をもれなく救いに来てくださる。決してあなたがたを見捨ててはいない、見放してもいない。だから幸いなのだと。この人達は「満たされるようになる」「笑うようになる」と主は約束されるのです。

22節をごらんください。

人々に憎まれる時、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである。

これは弟子たちの行く末を表しています。イエスの弟子だということでさまざまな迫害を受ける彼らも、今ここにいる「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」と同じように社会の片隅に追いやられているのだと。しかし(23節です)、「その日、(神の国が到来する日)喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と宣言してくださいます。だから「幸い」なのだと主は言われるのです。

「貧しい人々」というのは主イエスの目の前にいた経済的に恵まれない人々のことだけを指すのではありません。1月23日の礼拝で共に聴きましたルカ4章には「貧しい人に福音を告げ知らせる」とありました。ここでの「貧しい人」というのは「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」などなど、今さまざまな状況で苦しんでいる人のことなのです。

私たちもまた貧しい者のひとりだといえるのではないでしょうか。今、病気で苦しんでる……今、人間関係のもつれで苦しんでいる。今、忙しさから押しつぶされそうになっている。不安が絶え間なく襲ってくるなどこの「貧しい人」の中に私たちもいるのではないかと思うのです。

ルカはここで最初に4つの幸いについて語りますが、このあと24節以下のところで、さらに4つの「不幸」について言及します。私たちは豊かにされたときに、警戒しなければならないことがあります。それは有頂天になるあまり、神を忘れるということです。それだけではありません。自分のすぐ近くで苦しんでいる「貧しい人」たちのことを忘れるということです。私たちは順風満帆な時、神に感謝をしなくなるのです。神が居られなくても大丈夫なのだと「平気になる」のです。私たちの中から神を消し去ってしまう誘惑に絶えずさらされているのです。

山谷地区で長年、日雇労働者や路上生活者のために働いて来られた山友会のルボ・ジャン先生のテレビ番組を先日見ました。1945年カナダで生まれた先生は宣教師として1972年に来日され、医師としても活動を続けて来られました。あるクリスマスの夜、教会のミサに出かけた先生は、教会から出てくると、路上に教会からの炊き出しを待っている大勢の労働者や路上生活者が寒い中並んでいるのを見て、愕然としたそうです。自分達は暖かな教会の中にいるのに、寒さをこらえながらそこで生きている人々を見て、自分は教会にとどまる宣教ではなく、人々の中に入っていこうと決意されたそうです。

今日の福音で「貧しい人は幸い」と主イエスが言われたときに、その貧しい人の中に自分が含まれていると思われた方はここにいったいどれだけの方がいるでしょうか。もしかすると、そこから自分を除外して聖書の言葉を聴いていた私たちがいたかもしれません。しかし、今日イエスは皆さんに語りかけておられます。貧しい者の一人に自分自身がいることに気づき、幼子のように主の言葉に耳を傾ける時、その言葉は私たちにとって「掟」ではなく、「福音(よい知らせ)」に変えられていくのです。

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