クリスチャン業界には摩訶不思議な「独身の賜物」という言葉が存在します。一体どういう意味なのでしょうか?
先週、「ネタ切れ」と書いたところ、早速アイディアをいただいた。「独身の賜物」について書いてくれとの要望だった。クリスチャン業界になじみのない方は、おそらく初めて聞いた言葉だろうが、クリスチャンの間では「独身の賜物」という摩訶不思議な言葉がある。どういう意味なのだろう。これは、イエスと使徒パウロが言った言葉に由来する。まずは、それぞれを見てみよう。
弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」
(マタイの福音書 19章3~12節)
これはイエスの言葉である。イエスは「母の胎から独身者として生まれた人たちがいる」と言った。また、「人から独身者にさせられた人たち」もいるし、「天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいる」とした。
使徒パウロはこの言葉を受けて、このように勧めている。
私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
(コリント人への手紙第一 7章7節)
パウロは、「すべての人が私のように独身であることを願う」「しかし、一人ひとりが賜物(神から受けた才能)があるので、人それぞれの生き方」があるとした。これについては、パウロがどのような主張をしている中での発言なのか、文脈を見るのが非常に重要だが、詳しくは後述する。
以上のイエスとパウロの言葉を由来として、クリスチャンの世界には「独身の賜物」という言葉が存在する。例えば、教会で適齢期を過ぎても結婚しない人がいると「『独身の賜物』があるかもしれないね」とか言うわけである。または、適齢期が来ても結婚できないと、「私には『独身の賜物』が与えられているのかもしれない」などと考えたりする。このように、「独身の賜物」という言葉の裏には、「はじめから独身と定められた運命にいる人」といったニュアンスが含まれている。
しかし、一度立ち止まって考えてみたい。クリスチャン業界で言うような、いわゆる「独身の賜物」というものは、本当に存在するのだろうか。今回は、イエスとパウロの言葉の真意は何だったのか。そもそも神が結婚を創造したのではないか。聖書の言葉の適切な適用はどんなものか、考えてみたい。
これから先を読む前に注意してほしいが、この記事は「結婚」という、人によってはとてもデリケートなテーマを扱う。この記事を読んで「傷つく」人も、もしかするといるかもしれない。私は私なりに「配慮」して記事を書くが、配慮しすぎて適切な記事が書けないのも問題であるから、率直に書いている部分もある。なので、ここから先を読む場合は、そういった「率直」な内容がある点をふまえて読んでいただきたい。
また、この記事を読んで、事実関係に間違いがあればご指摘はつつしんで受けるが、読んで上で「傷つきました!」「誰かが(誰だよ)傷つく可能性があります!」という批判は批判にすらなっていないのでお断りしたい。これは「様々ある中のひとつの意見」だという当たり前の事実が分かる方だけ、これから先を読むことをオススメする。たとえ心が痛くても、事実や真実には目を向けるべきだと、私は思う。
さて、イエスの言葉の真意は何だったのか。一にも二にも、聖書は旧約聖書の前提と、文脈を見た上で理解する姿勢が大切である。まずはもう少し広げてイエスの言葉を見てみよう。
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」
イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」
弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」
(マタイの福音書 19章3~12節)
これは、パリサイ派とイエスの「離婚・再婚」議論の中で出た言葉である。パリサイ派は「離婚は律法にかなっているか」とイエスに質問した。これはイエスのあげ足をとるためであった。パリサイ派の理解では、離婚は「合法」であった。それは聖書の申命記の言葉に由来する。
人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。
(申命記 24章1~4節)
これは、一義的には「離縁した妻が既に他の男と再婚し、その後離婚している場合であっても再び再婚はできない」という規定である。直接的に離婚を認めた記述ではない。聖書の「結婚」の価値観は「ふたりがひとつの存在となる」というものであるので、離婚した後に他の男に嫁いだ女は、他の男とひとつとなっているので、取り戻せない。それは不倫と同じである。それがモーセの言葉の意味であった。
しかし、パリサイ派は「この記述は離婚が前提となっている。だからモーセは離婚を許容したのだ」と解釈していた。無茶苦茶な気がするが、これが当時の価値観であった。しかし、この無茶苦茶な論法に疑問の声が上がるのは当然なので、おそらくパリサイ派の間でも議論の分かれるポイントであったのだろう。だからこそ、意見の分かれる難しい議論をイエスにふっかけたのである。
当然イエスは、神の創造の本来の意味を語り、ハッキリと離婚した後に再婚する者は不倫と同じであると断言した。離婚・再婚については以前、詳しく記事を書いたので参照いただきたい。
当時の価値観としてもっと驚くべきは、その議論の後の弟子たちの反応である。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しない方がマシ」。これが弟子たちの言葉だった。
当時の価値観では、女性はいわば「男性の所有物」であった。律法の解釈では「離婚はOK」だった上に、どうやら正式に離婚を決められるのは男性だけだったようである。当時の男性にとって妻は所有物でしかなく、気に入らなくなったら簡単に「ポイ捨て」できてしまっていたのである。例えば、料理が下手だとか、裁縫で失敗したとか、容姿が気に入らなくなったとか、そんな理由であっても簡単に離縁、そして再婚できてしまっていたのである。現代で言えば、コロコロ彼女を変える男みたいなものである。
そんな彼らからすれば、「再婚は不倫と同じ」と断言したイエスの言葉は衝撃だっただろう。だからこそ、「それなら結婚しない方がマシ」とイエスに訴えたのであった。
前置きが長くなったが、この弟子たちの言葉を受けて、イエスは「独身者」について語り始める。この際、「独身者」という言葉が何を指すのか調べる必要がある。ギリシャ語を見てみよう。
<聖書のギリシャ語>
「独身者」= ユノーコス
「独身者」という翻訳は、実は正確ではない。この部分のギリシャ語は「ユノーコス」で、直訳すれば「去勢された者」という意味になる。「ユノーコス」は本来「寝床を守る者」という意味であり、転じて「去勢された者=宦官(かんがん)」という意味になった。
宦官とは、宮廷で仕える召使いのことで、王妃を襲ったりしないように去勢されていた。家畜を去勢するのと同じで、人間を去勢して召使いにしていたのである。現代では許されないような残虐な制度だと、私は思う。不思議なことに、思春期以前に去勢すると男性は性欲を失う(らしい)。
多くは、戦争によって捕虜となった奴隷だったり、犯罪者が罰として去勢されて奴隷となったりしたケースだったと想像される。ユダヤ人たちは「去勢された者」は汚れた者とみなし、集会には加えなかった。このような記述がある。
睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。
(申命記 23章1節)
そんな「去勢された者=宦官」という言葉を用いて、イエスは弟子たちに話しているのである。「独身者」と「去勢された者」は明らかにニュアンスが違う。「独身者」という翻訳は、「去勢された者」よりも広い意味になってしまう。もちろん宦官はもれなく独身だったわけだが、独身者がみな去勢された者ではない。まるで、「すべての日本人は人間である」から「日本人」という言葉を「人間」と読み替えているようなものである。
よく考えてほしい。「去勢された者」に通常女性は含まれないが、「独身者」には女性は含まれてしまう。意味が変わってしまっているのである(卵巣除去は一応去勢ではあるが、通常は男性の陰茎を切り取る行為を「去勢」と呼ぶため)。「すべての日本人は人間である」という文章は成立するが、「すべての人間は日本人である」という言葉は成立しない。あくまで「独身者」という大きな枠の中に、「去勢された者」が入っているだけである。大きな範囲を指す言葉と、その中の小さな範囲を指す言葉はイコールではない。
だから「ユノーコス」を「独身者」と訳す翻訳は、明らかな間違いだと、私は考える。ちなみに英語はもれなく「ユニック」(Eunichs、男性名詞。もちろんユノーコスが由来)という「去勢された者、宦官」という言葉になっている。日本語の聖書の翻訳は、おかしくなってしまっているのである。
「ユノーコス」の意味、そして文脈を見れば、イエスの言葉はこのように捉えられるのではないだろうか(※基本的に、結婚関係以外の性交渉は罪という前提に立っている)
<イエスの言葉の個人的解釈>
「再婚が不倫と同じなら、結婚しない方がマシ? はっ(笑)言ったね? でも、それは、『言うは易く行うは難し』だよ。ハッキリ言うけど、結婚しないで独身のままでいられる人は少ないんだ。神が独身のままでいられるようにした人だけが、独身でいられるんだ。生まれつき去勢された人は独身でいても性欲は抑えられるかもしれない。不運な事故でイチモツを失ったり、犯罪者として去勢されたり、戦争で捕虜になって去勢された人も、独身のままでも性欲は爆発しないかもしれない。そして、神に仕えるために自発的に去勢する人もいるかもしれない(いるのか?! イエスの皮肉か?)。君たちが、性欲を抑えて一生独身でいられるなら、そうしてごらんなさいよ!(というイエスの皮肉?)。でもね、それは誰にでもできるわけじゃない。独身のままでいるのは、難しいことなんだよ。だから神が造った結婚という関係を大切にしなさい。女性は所有物じゃない。大切なパートナーなんだよ」
私には、イエスの言葉はこう聞こえる。イエスは、女性を所有物のように扱い、気に入らなくなったら「ポイ捨て」していたユダヤ人たちに、「違うでしょ。神は男女がひとつになるために結婚を創造したんだよ」と教えたのではないか。「結婚しない方がマシ」と虚勢をはる弟子たちに、「何が結婚しない方がマシだよ。バカか。お前たちは性欲抑えられるのか。虚勢はやめなさい。だったら神のために去勢してみろ」と一括したのではないか。
だから、イエスの言葉をもって「生まれつき独身でいる運命の人もいる。それが『独身の賜物』だ。適齢期なのに結婚できないのは、『独身の賜物』があるからだ」などと言うのは、明らかな間違いであると、私は思う。
では、パウロの真意は何だったのか、見てみよう。パウロの言葉を再掲する。
私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
(コリント人への手紙第一 7章7節)
これもまた、文脈を見る必要がある。やや長いが、もっと広い範囲を見てみよう。
さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。
すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
(中略)
未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。
(コリント人への手紙第一 7章1~28節)
あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。
妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。
(コリント人への手紙第一 7章32~40節)
パウロは大胆にも「夫も妻も自分のからだについて権利は持っていないのだから、お互いに義務を果たせ」「相手を拒んではならない」と言っている。つまり、「セックスレスはよろしくない」と勧めているのである。男も女もそれぞれ結婚し、セックスしなさい。それがパウロの「譲歩」としての意見であった。
では、「譲歩」ではない「理想」は何だったのか。それが、先の「すべての人が私のように独身であること」であった。しかし、その後すぐに「しかし、人それぞれの生き方がある」と補足している。これはあくまでも「パウロの理想論」であり、「結婚するな」という神の命令ではないと、パウロはわざわざ何度も強調している。例えば再婚については「命じるのは私ではなく主(神)です」と強調した後で、未婚の人たちの処遇については「主の命令を受けてはいないが、(個人的な)意見を述べる」とわざわざ区別している。
パウロは、むしろ「自制できないなら結婚しなさい」「情欲に燃えるより、結婚するほうがよい」と勧めている。性欲を抑えられずに、独身でいながらオナニー漬けになるよりも、結婚してセックスした方がいいとパウロは言っているのである(そこまでは言っていないか笑)。
ここで、先のイエスの言葉を思い出す。「性欲を抑えられる奴なんて基本的にはいない」というのが私の意見である。「俺はそんなことない」なんて虚勢をはるのはよそう。チンチンを切ってしまったら、そりゃ性欲はなくなるかもしれない。現代の日本に宦官はいないが、例えば性的なトラウマを抱えていて、性行為自体を望まない人もいるかもしれない。けれども、それはごく一部の特殊なケースであって、ほとんどの人がセックスしたいし、そうやって人類は増え広がってきた。それが神の創造のデザインなのである。性欲を抑えるなんて、基本的には不可能なのである。もっと人間、謙虚になった方がいい。
では、なぜパウロは「独身でいるように」と勧めたのだろうか。2つのポイントがある。
ひとつ目のポイントは、「差し迫っている危機のゆえ」という言葉である。当時、イエスを信じる人々は、激しい迫害の下にあった。中には捕らえられ、むち打たれ、死刑になる者たちもいた。そのような激しい迫害の中にあって、結婚して守る家族ができるよりも、独身でいた方が「身軽」である。
また、パウロは、いわゆる「世の終わり」が人間的な尺度でもっと早く来るだろうと予測していたように見受けられる。イエスも預言しているように、いわゆる「世の終わり」には激しい苦難がある。信者がその「患難」を体験するかしないかは諸説あるが、深入りは避ける。とどのつまり、そのような苦しい時代を結婚して通るよりも、独身の方が簡単だと、パウロは言いたいのである。
しかし、繰り返すがこれはパウロの「オススメ」であって、命令ではない。だからパウロも何度も「結婚は罪ではない」「結婚は良いことだ」と何度も強調しているのである。
2つ目のポイントは、独身の方が「主(神)に仕えやすい」からである。もちろんパウロが言うように、「結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるか心を配るが、未婚の女は主のことに心を配る」(男女で比較されているのが興味深い)という側面がある。パウロは、既婚者と未婚者を対比し、未婚者の方が主に奉仕できると言っている。主にひたすら仕えるために、未婚の者は未婚のままでいた方が良いと、パウロは主張しているのである。
しかし、大先輩パウロに意見するのも恐縮だが、これは100%その限りではないと、私は思う。人によっては、結婚してパートナーとチームになった方が主に奉仕できるケースは、いくらでもある。もちろん「身軽」ではなくなるだろう。しかし、夫婦が「ひとつ」となり、良いチームとして神のための働きをするのは可能である。そして、チームになった方がより神に仕えられる人は、実は大勢いると、私は考える。もちろん大先輩パウロもそれは分かっていて、だからこそ結婚は良いものだと何度も強調しているのだと思う。
これは私の個人的観測に過ぎないが、パウロ自身、こんなことを言っておいて、人一倍結婚にこだわりがあったようだ。もしかすると、パウロは一度結婚した経験があるのではないか。パウロは、「サンヘドリン」という地方評議会のメンバーであったとされているが、歴史的にはサンヘドリンのメンバーになるには、既婚者の男性という条件があったので、パウロは少なくとも一度は結婚していたのではないかと考えられる。
個人的にはそれ以上に、パウロによるセックスレスの記述などがあまりにも生々しいので、とてもパウロが「童貞」だとは思えない。また、「ケパ(ペテロ)のように妻を連れて歩く権利がないのか!」という感情的な記述(コリント人への手紙9章5節)からも、パウロの結婚に対する渇望、しかし現実にならない葛藤が見て取れる。
先に引用したコリント人への手紙7章40節を見ても、パウロは配偶者と死別した者の再婚について論じる流れで、「主にある(信者同士という意味か)再婚はしてもよい。そのままでいられるなら、その方が幸いだ。私も、神の御霊をいただいていると思う」と述べている。「私も」という言葉から、パウロも同じく「配偶者と死別し、それ以降は独身でいた」と考えるのが自然であろう。しかし、これは推測の域を出ない。
パウロのあまりの結婚へのこだわりと、それでもなお独身を貫いた姿勢から、「パウロは実は同性愛者で、結婚したが女性を性的に愛せないと気がついたのではないか。それで死別か離縁か分からないが、独身の道を選び、以後独身を貫いたのでは・・・」と推測する人々もいる。私個人としては、その可能性は否定できない面白い説だなという程度にとどめている。
まとめると、パウロの「オススメ」は以下である。
1:苦難の時代においては、独身の方が「身軽」である(パウロの個人的意見)
2:独身の方が神にひたすら仕えることができる(パウロの個人的意見)
3:しかし、自制できないなら結婚した方がよい。結婚はよいものである
ほとんどの人は性欲がある。多かれ少なかれ、ある。ほとんどの人が「自制できない」し、「情欲に燃える」のである。だとすれば、パウロの言葉から「独身の賜物」がまるで多くの人にあるように解釈するのは、少しズレていると、私は感じる。ほとんどの人が3番の「結婚した方が良い」という言葉に当てはまるのではないだろうか。そう私は思う。
しかし、断っておきたいが、これは何も「結婚できない人はおかしい」と言いたいのではない。むしろ結婚せずに独身を保ち、ひたすら神に仕える人を、私は尊敬する。ただ、これは、あくまでも「性欲」との現実的な向き合い方についての意見である。性欲を抑えられないなら、結婚して夫婦の間でのセックスを楽しみなさい。結婚は良いものである。それがイエスの言葉であり、パウロの真意であると、私は思う。私は性欲が我慢できないので、結婚したいと思う。
そう、結婚は神が創造した「良いもの」である。聖書の一番初めの書物、「創世記」にはこう書いてある。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」。
(中略)
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
(創世記 1章27節~31節)
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
(創世記 2章24節)
男と女が結ばれ、ふたりは一体となる。それが神の創造であった。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」。それが神の計画であった。そして、「それは非常に良かった」のである。ヘブライ語の「良い」は「トーブ」といい、日本語の「良い」よりもさらに「とてつもなく素晴らしい」というニュアンスのある言葉である(例えば、「神は素晴らしい」という表現も、「神はトーブ」という。英語でいうと” God is good” )。
この男女の関係、結婚という関係、セックスという関係は、神の創造である。神の素晴らしい創造である。それは「非常に良かった」のである。
それを、イエスやパウロの言葉を曲解し、まるで「結婚は汚らわしいもの」のように扱う人たちがいる。「結婚は人生の墓場」だという嘘が、蔓延している。カトリックなどは、聖職者は独身でなければいけないなどと、聖書が教えてもいない嘘を強制している。むしろ、聖書にはこう書いてある。
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。
(テモテへの手紙第一 4章1~4節)
これは、他でもないパウロ大先輩の手紙である。この言葉から、パウロには「結婚を禁じる意図」は全くなかったと分かる。むしろ「結婚を禁じる行為」は、「良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善」だとバッサリ切っている。それは「悪霊の教えに心を奪われている」のである。
つまり、カトリックのように(※言っておくが、カトリックの「人」を批判するつもりはない。「制度」を批判しているのである)、制度的に、一律に聖職者に独身を強制するような制度は明らかに聖書の記述に反している。結婚を牧師が禁じたり、「あなたは『独身の賜物』があるから、結婚はやめなさい」などと牧師や牧師の妻が信者に強制する、頭のおかしいプロテスタントの教会もある。そのような人々は、神が創造した結婚の素晴らしさを全く分かっていない。全くのデタラメ。嘘である。
むしろ旧約聖書の律法には、妻を大切にするよう、このような規定すらある。
人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。
(申命記 24章5節)
何度も言うが、結婚は神の素晴らしい創造である。「独身の賜物」という言葉で、間違った解釈を押し付けてくるような人々に、惑わされないようにしようではないか。
結びに、私もパウロ大先輩に倣って、僭越ながら個人的な「オススメ」を書きたい。
まず、結婚したいなら結婚したらいいと思う。「結婚したい」と思ったり、「結婚」を考えている時点で、いわゆる「独身の賜物」はないと私は思う。もっと端的に言うならば、性欲があるなら「独身の賜物」などない。結婚した方が良い。私はそう考える。
性欲は神が人間に与えた良いものである。ただ、それを男女の結婚という特別な関係の中で享受するかが大事である。性欲が抑えられないなら、結婚した方が良い。それがシンプルな聖書の教えだと思う。
適齢期になっても結婚しない・できない人がいる。そういう人は、教会で聞いたことのある「独身の賜物」という言葉が頭にチラつくのではないだろうか。「私は、もしかすると『独身の賜物』があるのではないか」、そう考えるのではないだろうか。それは、言い換えれば「私は結婚できない運命なんだわ」となる。そういった「運命論」に対して、私は明確に「NO」と言いたい。結婚したいのに運命的に結婚してはダメなどということがあって良いだろうか。「もうあなたは結婚できない運命です」などと、信仰の友に向かって言っていいだろうか。それでも相手がいないんですという人たちもいる。言いにくいが、それは選り好みしてるだけなのではないだろうか・・・(私も以前そう言い続けていた・・・)。
むしろ「独身の賜物」という発想は、人生を振り返った際に、「ああ、私は『独身の賜物』を頂いていたのだ」と解釈する、慰めのためのものでもあるのではないか。「みこころ」と同じようなものではないか。私にはそう思える。
断っておくが、「独身の賜物」というものは、私は個人的には存在すると思う。激レアさんだが、たまに性欲が全くなかったり(去勢してないのに!)する人もいる。また結婚に対する憧れや渇望がなかったり、セックスしたいと思わない人がいる(個人的にはマジで信じられない! けど実在する)。激レアだが、存在するのである。そういう方々を、私は尊敬するし、パウロが言うように独身である方が「身軽」であり、「ひたすら神に仕える」ことが可能である。
しかし、そのような激レアさんではないのに、「私には『独身の賜物』がある」と思い込み、性欲があるのに、結婚したい願望があるのに、子供が欲しいのに、結婚しないと決めつけて(または決めつけられて)しまう人の人生は、辛いものになる。私は、教会や牧師が独身を強制するようなことは、あってはならないと考える。もしそのような教えが教会でなされているようなら、即刻縁を切ったほうが良いと、私は思う(その教会と縁を切るという意味であり、イエスと縁を切ってはダメ、絶対。あと他のクリスチャンにはいい人もいるからクリスチャンと縁を切るのもオススメはしない)。
結婚は良いものである。少しでも結婚したいと思ったり、セックスしたいと思ったり、性欲があると思うなら、「独身の賜物」はないと、私は思う。だったら、堂々と結婚するために動いたらいいと思う。自分を磨き、相手がいそうなコミュニティに飛び込み、コミュニケーションを学び、気になる相手を思いやってアプローチする。そういった行動をとればいいと思う。何もせずに、何も起こらないから「独身の賜物」と考えるのは安直である。「独身の賜物」を受け取らなきゃいけないのだろうか、などと不安に思う時点で、それは「独身の賜物」ではないから、安心したらいいと、私は思う。すぐに「『独身の賜物』があるかもしれない」と諭される場合は、ただのインチキなので気にしない方がいい。
自分の容姿や境遇、経済力や経歴、コミュニケーション力に悩む人もいると思う。正直いる思う。私もそうだ。26歳まで一度も交際相手ができなかった。コンプレックスだった。そんな私も、一ヶ月後に結婚する。人生、どうなるか誰も分からない。出会って数ヶ月で結婚した知人もいる。結婚したいのであれば、まずは神に祈り求め、行動したらいいのではないだろうか。
親や親族が結婚相手を見つけてきた時代とは違い、現代の日本は自由恋愛が主流となってしまい、結婚に至るまでに努力が必要になっているのは事実だと思う。晩婚化が進み、適齢期に結婚しないのが社会的に「普通」になっているのもまた事実だと思う。しかし、そういった社会的要因は「独身の賜物」とは関係ないと、私は思う。結婚したいのであれば、そのために行動する。「独身の賜物」があるかないか考えて迷うよりも、まずは自分を磨く。神に祈る。そして行動する。それが、私のオススメである。
ただ、一言付け加えれば、重い障害があったり、難病に苦しんでいたり、また様々な理由で異性に性的関心を持たない・持てない人もいる。そういった人々に対して、私は「結婚の賜物」があるとは言い切れない。しかし一方で、「絶対結婚できますよ」なんて無責任なことも言えない。結局言い切れないのがこの問題の歯がゆさであり、デリケートさであり、議論を難しくしているのだ。正直に言えば、私はそういったケースにどう対応していいか分からない。まだ青二才なのである。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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