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- 「惜しみなく与える教会へ」コリントII 8:1-9
ヨシュア記24:21-24;コリントの信徒への手紙II 8:1-9創立25周年記念礼拝の祈り天地のすべてをお造りになり、いのちの息を吹きいれ、また私たち人間を造り、あなたに向き合いながら生きることをお定めになりました主イエス・キリストの神さま、あなたの聖名を心より賛美いたします。今朝も私たちをここに呼び集めてくださいました。あなたに賛美をささげ、感謝の祭りをささげる群れがこの代々木上原の地に造られております。私どもの教会は25年の歩みを許されてまいりました。それ以前にもこの教会に脈々と受け継がれている信仰を形作った先達もあなたに生かされて参りました。人々がひしめき、建物が立ち並ぶこの都心にあなたは、主イエス・キリストにある群れを形成してくださいました。この歩みのさなかにどんな時にもあなたが共
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- 「神に向かって生きる」ルカ 13:1-9 中村吉基
イザヤ書55:1−9;ルカによる福音書13:1-9聖書の時代を含めて古代の人びとは洋の東西を問わず、病気になること、あるいは災害、事故などを偶然のこととは受け止めないで、神からの「罰」であると信じました。「因果応報」という考え方もここからきています。かつて1980年代にHIV/エイズという病が爆発的に広まり出したころ、アメリカの一部の人びと(いわゆる原理主義的な人びと)はこれをとことん無視しました。なぜ感染者や患者の人びとを社会や教会からも排除したのかと言えば、この病気は同性愛者や不品行な行いをした人びと、あるいはし続けている人びとへの「天罰」「裁き」であると信じてやまなかったからです。このような誤解が、今もなお感染者・患者の方々に対して大きな偏見や差別として根深く残っているのですが、その根
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- 「同じ目線に立って」ルカ6:17−26 2022/02/13 中村吉基
エレミヤ書17:5−10;ルカによる福音書6:17−26礼拝においてルカによる福音書から聴き続けています。ルカの1章で「マリアの賛歌」と呼ばれる記事がありますが、この中でルカはイザヤ書40章3節の引用に加えて「高い者は低くされ、低い者が高められる」(1:48−55)と付加します。ルカ独自の視点といってよいと思います。今日の箇所はその延長線上で、ルカの視点の大切なところを伝えています。今日の箇所の直前になりますが、6章12節以下で主イエスが山に登られました。いったい主は何をしに行ったのでしょうか。その目的の一つは「祈る」ためであったことが記されています。特別なことではなくイエスは日常的に山に登り、祈っておられました。「夜を明かされた」(12節)とあるように夜通し祈ることもしばしばあったことでし
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- 「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基
エレミヤ書23:1-6;ルカによる福音書23:33-43来週から待降節(アドヴェント)に入りますが、待降節は教会の新年と考えますので、今日は差し詰め1年の締めくくりの主日を迎えました。この日、教会では伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が朗読されます。私たちは王制の国に生きてはおりませんから、王様を身近に感じることがないでしょう。しかし、幼い日に聴いたおとぎ話などで何らかの「王様」に対するイメージがあるかもしれません。今日の礼拝の最初の賛美歌で「かんむり(冠)をささげて 主とあがめよ」と歌いましたが、私たちの勝手な王様のイメージを主イエスに押し付けるのは好ましくないことです。よく海外の教会などに行きますと少年の主イエスが冠を被って豪華なマントをまとっている像を見ることがあります(プ
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- 「狼なんか怖くない」ヨハネ10:11-18 中村吉基
エゼキエル書34:1-8;ヨハネによる福音書10:11-18私たち日本人にとっては羊飼いというのはあまり身近なものではありません。また、私たちの普段の生活の場で羊を目にすることもほとんどありません。たまに外国での写真やテレビの映像を通して見る程度です。しかしイエスさまが生活をされたパレスチナでは羊を飼うということはごくごく身近なことでありました。ですから羊飼いと羊の関係に、神と人間をたとえてイエスさまは今日の箇所で人々に教えられたのでしょう。イエスさまが生きたパレスチナとは生活環境やそのスタイル、価値観がまったく違う私たち日本人がイエスさまの言葉の意味を理解するには羊飼いと羊の関係をまず知ることが必要です。羊飼いは羊を大切に育てました。たくさんいる羊の一匹一匹に名前を付けていました。羊飼いが
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- 「復活への希望」使徒24:10-21 中村吉基
ミカ書7:14-20;使徒言行録24:10-21使徒言行録の21章以下には、パウロが宣教活動のゆえにエルサレムで逮捕されて、ローマに護送される様子が記されます。今日の24章のところは、大祭司アナニアが、自分の側近――側近ということはアナニアにとって有利な証言をしてくれる長老たちと弁護士を伴ってカイサリアに到着しました。アナニアは最高法院の代表でありました。パウロは、総督の合図とともに、丁寧な挨拶をしてから自分の弁明を始めました。11節にはこう記されます。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している
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- 「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基
イザヤ書35:1-10;マタイによる福音書11:2-12今日は待降節の中で「喜びの主日」と呼ばれる日です。クリスマスを10日あまり先に控え、ほのかに喜びが湧いてくるような、そんな一日です。待降節中は紫や紺色を用いて、悔い改めの時として静かに過ごしますが、今日はそれに少し、クリスマスが近づいてきたということからバラ色を用います。先週の礼拝で私たちは「悔い改めよ、天の国は近づいた」との洗礼者ヨハネの言葉に聴きました。ヨハネは荒れ野から民衆に「わたしの後から来る方」として、救い主が来られることを告げ知らせ、神に立ち戻るように促し、救い主をお迎えする準備をするように訴えました。ちょうど今私たちは待降節にあたって、悔い改め、主イエスが来られる準備をしていますが、これはヨハネのメッセージに重なるものです
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- 「主の証し人として」ルカ24:44-53 中村吉基
詩編93;ルカによる福音書24:44-53先週の木曜日は、主イエスが復活から40日経ち、天に上げられた〈昇天日〉でした。キリスト教国では祭日として大々的に祝われるのですが、私たちの国ではそうではありません。そこで主日(日曜日)に移動して祝うこともあります。今日はルカによる福音書から聴いていきたいと思います。私たちは今21世紀に生きておりますが、2000年前にあの遠く離れたイスラエルでイエス・キリストが復活されたことを、なぜ知っているのでしょうか。今日の箇所には「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。すなわちイエス・キリストが神の力によって復活させられたことの「証人」になる、ということです。主イエスの弟子たちは直接、復活された主イエスのみ姿を見ましたけれども、私たちはそれを直接目の
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- 「正義の神は私たちと共に」イザヤ61:1~11 中村吉基
イザヤ書61:1-11;ガラテヤの信徒への手紙6:1-10今日の聖書の箇所で、神さまはご自身を信じるものにそれまで受け続けた不当なことの2倍のものを継がせると約束されていますあなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。(イザヤ61:7)。まず今日の箇所の背景をお話ししましょう。イザヤ書の56~66章は、名前の判らない預言者によるものとされ、通称「第3イザヤ」と呼ばれています。第3イザヤが活動したのは、イスラエルがバビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻り、そしてバビロニア軍によって破壊されていた神殿を再建した時のことでした。 第3イザヤは、推定されるにはバビロン捕囚から帰還した者の一人で、エルサレム神殿が再建される時に預言者として
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- 「感動に突き動かされた教会」 使徒言行録2:1-12 中村吉基
創世記11:1-9,使徒言行録2:1-12今日私たちはペンテコステの礼拝をささげています。ペンテコステというのは一般ではあまり耳慣れない言葉ですが、教会では2000年前にイエス・キリストの十字架での死、復活と昇天の後に残された弟子たちに聖霊が与えられ、それによって力を与えられた弟子たちが、活発にイエス・キリストの教えを宣べ伝えていったきっかけとなった日として、いわば「教会の誕生日」としてクリスマス、イースターと並んで大切にされている祭日です。ペンテコステという言葉はギリシア語で「第50番目」を意味する言葉です。ユダヤ教の最大の祭りである「過ぎ越しの祭り」から数えて50日目なので「五旬祭」とも呼ばれます。今日の使徒言行録の冒頭に「五旬祭の日が来て……」とあるのはそのためです。教会暦ではイースタ
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- 「あなたは誰ですか?」ヨハネ10:27-30 中村吉基
詩編23;ヨハネによる福音書10:27-30「お前はそれでもクリスチャンか?」以前のことになりますが、私は度々(ノンクリスチャンの)両親からと言われたことがありました。また、高校時代の英語の授業で、「だからああいう人を口先だけのクリスチャンと言うのだ」という構文がたまたま私のところに順番が回って来て訳すことになりました。当時すでに洗礼を受けておりましたし、クラスメートも教師も私が教会に行っているのを知っておりましたので、少々ばつが悪かったものです。洗礼を受けて何十年も経つのに、私は未だにこう言われることがあります。ある時は家族の中から、またある時は友人から、キリスト者(クリスチャン)の人は誰でもこういう経験を持っておられるかもしれません。しかし、それが自分の持つ人間的な弱さだったり、人格的な
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- 「すぐに従った」マタイ4:18-25 中村吉基
エゼキエル書2:1-3:4;マタイによる福音書4:18-25私たちはいったい何のためにこの世に生まれ、生きているのでしょうか。 そしていったい私たちはどこへ向かっているのでしょうか。また一生の間に何を成し遂げていくでしょうか。 皆さんはこのようなことをお思いになったことはあるでしょうか。私たちは偶然に存在しているわけではなく、神のご計画の中に一人ひとりの人生が組み込まれているのです。誰か一人欠けるならばその計画は実現しないほど緻密に皆さん一人ひとりが神に必要とされています。そして神が願っておられることを私たちのうちに実現させてくださるのです。エフェソの信徒への手紙1章11節にパウロはこう書いています。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定
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- 「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基
出エジプト記17:3-7;マタイによる福音書4:1-11今朝の礼拝への招きの言葉(招詞)は、ヨエル書2章12-13節でした。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。神は今朝私たちにこのように呼びかけておられます。先週14日の「灰の水曜日」も今年も受難節(レント)に入りました。3月31日のイースターの前日まで日曜日を除いて40日の信仰の旅をしていきます。灰の水曜日にはここで礼拝をして受難節の扉を開きました。昨年の棕梠(シュロ)の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて創世記2:7にあるように神によって人間は「土の塵(ちり)」から創造されたことを思い起こし一人一人にお祈
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- 「いのちの糧」ローマ14:10-23 中村吉基
列王記上17:8-16;ローマの信徒への手紙14:10-23ローマの信徒への手紙14章の前半でパウロは、信仰上食べてはならないとされる食物のことや、大切にする日のことで「人を裁いてはならない」と手紙に書き記しました。「隣人を受け入れなさい」と神が人間を受け入れてくださったのと同じように接しなさいというのです。すぐに相手の良し悪しを判断するのではなく、互いに敬意を持つことを勧めているといえます。旧約聖書の律法には「食物規定」があります。そこには「汚れた食べ物」のことが記されています。豚とからくだ、猛禽類や甲殻類などは汚れている動物なので、食べてはならないと定められていたのです。ヘブライ民族は、それを神が定められた戒律として、何千年にもわたり守り継いで来たのです。食べ物だけではありません。日取り
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- 「もう一度、やり直せる」コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19 中村吉基
コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19ある人が洗礼を受けてクリスチャンになったときに「これからは自分の性格を変えなければならない」と思いました。それはなぜかと言いますと、日本では「敬虔な」クリスチャンとよくいうからです。そしてこの人は敬虔なクリスチャンのイメージは控えめで物静かだと思っていたからです。ところがご本人は活発で、少々騒々しい人でした。しかしある時、変えるべきは自分の振る舞いだけではないことに気が付きました。神さまが用意してくださったご計画に従って、自分のこれから歩むべき道を軌道修正するということ、そして希望をもって将来に向けて歩むことだと示されたのです。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(17節)。新しくなれ
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- 「『自分』からの解放」ルカ16:1-13 中村吉基
アモス書8:4-7;ルカによる福音書16:1-13今日の箇所、「不正な管理人」のたとえ話は、主イエスのなさったたとえ話の中でも、特段理解しにくいものだと言われています。この話を理解していくためのキーポイントは1節の最初「弟子たちに」語られたものであることを念頭に置くことです。主イエスの弟子たちは、すべてを捨てて従ってきていましたが、そのためどことなく自慢げな、誇らしげなところがありました。しかし、主イエスの眼から見れば、この弟子たちには、何かが物足りない、何かが抜け落ちている、そのような気持ちでおられたのです。その一つは、危機意識が欠けている。いわば危機管理の欠如でしょうか。とは言っても設備やハード面のことではなくて、弟子たちの人間性そのものが、主イエスにそう問われていました。主イエスはこの
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- 「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基
出エジプト記15:1-11;ヨハネによる福音書20:19-31復活の「事実」は信仰者の「眼」で、信仰のフィルターを通して見る以外に方法はありません。信仰は神秘に属することです。分厚い神学書を1冊読んでも、高名な学者のお話しを聞いたからといって分かることではありません。聖書の中には主イエスの復活以外にもいくつかの人間のいのちが神の力によって甦らされたエピソードがあります。その一つが、ヨハネによる福音書11章に描かれているラザロの物語です。亡くなって死体が墓に安置されて4日も経っていました。当然、人々は死体が腐敗しているだろうと思ったわけですが、主イエスはラザロを生き返らせます。これは復活というよりは「蘇生」といったほうがよいかもしれません。なぜそういうのかといいますと、今私たちが聴きました同じ
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- 「文字と霊」IIコリント3:3-18 廣石望
出エジプト記34:29-35; コリントの信徒への手紙II3:3-18I この箇所でパウロは、自分たちは心に書き込まれた新しい、霊的な契約の奉仕者であり、それは古い、石に書き込まれた文字的な契約とは質的に異なると言います。 「古いvs新しい」の対比は、容易に「ユダヤ教vsキリスト教」の対比を連想させます。西欧のキリスト教には、自分たちはユダヤ教より優れているという差別意識がついてまわります。とりわけ現在のガザ戦争に関連して、世界中で親アラブ、そして反イスラエルの論調が高まっています。先日スイスでは、チュニジア系のスイス国籍の少年が、町で正統派ユダヤ人男性をナイフで刺して重症を負わせるという事件がありました。どうやら過激派ハマスが望んだとおりに、ことが進んでいるように感じます。 あるいは「古い
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- 「キリストのいのちに触れる」ルカ24:1-12 中村吉基
イザヤ書65:17-25;ルカによる福音書24:1-12皆さん、イースターおめでとうございます。イエス・キリストがエルサレムに入城され、その出来事から間も無く、敵対者たちの手に渡され、十字架で殺害されたのが金曜日のことでした。しかし、今日のルカによる福音書の記事によれば、日曜日の朝早く女性たちが主イエスの葬られていた墓を訪ねると、輝く衣を着た2人の人が女性たちに「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げたというのです。今日、私たちはこのよみがえられたイエス・キリストをこの場所にお迎えしながら、主イエスを死からよみがえらせた神の力に共にあずかりたいと願います。週の初めの日(日曜日)の朝早く、主イエスに従っていた女性たちは、前もって準備していた香料を手にもって、主イエスの亡骸を収め
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- 「神による中断」マタイ11:25-30 山口和憲
詩編34:16-23;マタイによる福音書11:25-30今週は音声のみ掲載します。

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
