「神に向かって生きる」ルカ 13:1-9 中村吉基

イザヤ書55:1−9;ルカによる福音書13:1-9

イザヤ書55:1−9;ルカによる福音書13:1-9

聖書の時代を含めて古代の人びとは洋の東西を問わず、病気になること、あるいは災害、事故などを偶然のこととは受け止めないで、神からの「罰」であると信じました。「因果応報」という考え方もここからきています。

かつて1980年代にHIV/エイズという病が爆発的に広まり出したころ、アメリカの一部の人びと(いわゆる原理主義的な人びと)はこれをとことん無視しました。なぜ感染者や患者の人びとを社会や教会からも排除したのかと言えば、この病気は同性愛者や不品行な行いをした人びと、あるいはし続けている人びとへの「天罰」「裁き」であると信じてやまなかったからです。

このような誤解が、今もなお感染者・患者の方々に対して大きな偏見や差別として根深く残っているのですが、その根底にはやはり因果応報的な考えがあることを否めません。しかし、これをアメリカというひとつの国、ひとつの地域の出来事として片付けることもできません。なぜなら当時、私たちの教団の中にも同様のことを言っている人がいたからです。私たちはいつも自分を省みながら、自分が間違った方向に行っていたとすれば、その向きを直す必要があります。私たちはいつも自分ではなく、相手が変わることをひそかに望んでいるかもしれません。自分の誤りには気づかずに、相手の誤りばかりを指摘するのです。

ある時主イエスは言いました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。(ルカ6:41-42)

 今日の聖書の箇所では、ローマ総督ピラトがガリラヤの人びとを殺した。またシロアムの塔が倒れて18人が死んだと……。主イエスのところに何人かのユダヤ人が来て、報告する場面から始まります。何やらニュースのヘッドラインのような出来事が描かれています。それは私たちも普段の生活の中で見ることのできるものです。殺人、不幸な事故による死者、火事が起こる、飲酒運転の車が児童の列に突っ込むなど、思いもかけなかった不幸が襲い掛かります。それは現代も、また主イエスの時代も変わりありませんでした。

「神はいったいどこにいるのか」「なぜ善良な人びとがこんな目に遭わなければならないのか」私たちは呆然とその意味を考えたりすることはないでしょうか。ある人はこう言います。「先祖の祟りがあった」「前世の因縁が悪いことをもたらした」「運命だから仕方がない」そして「この人が何か悪いことをした天罰だ」と考えるのです。そしてその不幸な出来事を契機に、立ち直ることができずに一生を送る人もいます。

しかし、こうした考えは私たちの信仰にはありません。主イエスはシロアムの塔の下敷きになって死んでしまった人たちの事故は、決して天罰ではない、ときっぱりと否定するのです。「運命だから・・・」「仕方がない・・・あきらめよう」とか、「天罰」という考え方はイエス・キリストの教えにはありません。なぜならすべては神の愛に包まれているからです。

 主イエスがこの現代社会をご覧になったら、どのように思われるのでしょうか。そしてどのような語りかけがあるのでしょうか。決して誰かが病気になったことを天罰などとは言わないどころか、きっぱりと否定されるでしょう。天罰、因縁、祟り・・・・・・考えてみればこのようなことをいう人びとは、反対側に立ってみると、不幸な事故や事件に遭遇しない人は「正しい者」である、という考えに立っているといえます。

しかし決してそんなことはありません。私たちは自分の目の中にある「丸太」には気づかずに、相手の目の中の「おがくず」ばかりに気をとられてしまうような存在です。そうではなく、しっかりと自分自身を糾明し、悔い改めなければなりません。今、私たちは受難節(レント)の旅を続けています。特にこの受難節に私たちは自分自身の内面において、また他者とのかかわりにおいて、神の光に照らし出されて省みなければなりません。

洗礼を受けていさえすれば「天国行き」のチケットを手にしたのではありません。私たちは、弱く、小さな存在です。あらゆる誘惑にさらされ続けています。その中でいつも神の方向を向いて歩む姿勢をもっていなければなりません。それが「悔い改め」の意味です。

けれども、私たちのうちに不幸になることを歓迎する人がいるでしょうか。できればそれを避けたいと願っていることは事実でしょう。ユダヤ人たちは、不幸=天罰、神の裁きと考えていました。それはすべて神に背いた結果だと信じ込んでいました。主イエスは人びとに「神は愛である」と説きながら凝り固まった教条的な考え方から解放しようとされたのです。

私たちの世界では苦しみのない場所などひとつもありません。苦しみのないのは主イエスに示された「神の国」だけです。私たちは運命に翻弄される生き方ではなく、ありのままにいかに生きていくかということが問われています。神は苦しみの中で、「もしあなただったらどうこの苦しみに応えていくのか」と私たち一人ひとりの生き方を試されているのです。3節のところで主イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。共倒れしてダメになってしまうよ、と言って悔い改めを強調しているのは、私たちの生き方を深く憐れまれて言っているのです。悔い改めとは神に背を向けて生きてきた生き方に終止符を打ち、神のほうに方向転換をして生きることです。私たちは「悔い改め」と聞くと、何か道徳的な、倫理的なことを糺すというようなイメージを持ってしまいがちですが、そうではないのです。

特定の人たちを断罪して、自分たちは安全圏にいるような錯覚を持っている人びとは主イエスの時代にもいたようです。相手の目の中のおがくずばかりを気にして、呑気なことに自分の目の中の丸太には気づかない人びとに私たちはなってはなりません。

主イエスは次にぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえを語りました。ぶどう園の主人はいちじくの木が植えてから3年経っても実を結ばないので、これ以上土地を遊ばせておくには及ばないから、いちじくの木を切ってしまいなさい、と園丁に命じます。しかし、園丁はさらに1年だけ待ってくれるように主人に願いました。8節の後半から「肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」。この園丁の心は、神のみ心と同じなのですね。もう一度チャンスをください、と言うのです。

主イエスは十字架の死に至るまで、一人でも多くの人間が救われるように、必死に行動しました。この園丁に主イエスが重なって見えてこないでしょうか。私たちが神の光に向かって、まことの神を知って、神の方向に向かって共に生きていくことが出来るように主イエスは期待し、神は今日も忍耐強く私たちがそこに来るのを待っておられるのです。

今日の箇所は受難節を過ごす私たちに向けて語られています。今までの自らの生き方を謙虚に省みて神の方向に、神の愛に立ち返るように主イエスは呼びかけられます。一人ひとりが悔い改めの実を結ぶように、神は今も期待を込めて待っておられるのです。

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