「主の証し人として」ルカ24:44-53 中村吉基

詩編93;ルカによる福音書24:44-53

詩編93;ルカによる福音書24:44-53

先週の木曜日は、主イエスが復活から40日経ち、天に上げられた〈昇天日〉でした。キリスト教国では祭日として大々的に祝われるのですが、私たちの国ではそうではありません。そこで主日(日曜日)に移動して祝うこともあります。今日はルカによる福音書から聴いていきたいと思います。

私たちは今21世紀に生きておりますが、2000年前にあの遠く離れたイスラエルでイエス・キリストが復活されたことを、なぜ知っているのでしょうか。今日の箇所には「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。すなわちイエス・キリストが神の力によって復活させられたことの「証人」になる、ということです。主イエスの弟子たちは直接、復活された主イエスのみ姿を見ましたけれども、私たちはそれを直接目の当たりにしてキリスト者になったのではありません。

復活の主イエスに出会った弟子たちから始まり、「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が2000年の時を経て、教会を通じて、皆さん一人ひとりに伝えられたのです。2000年間ずっと主イエスのお命じになった言葉を大切にして弟子たちから人々へ、人々からそのまた主イエスの教えを知らない人々へ伝えられていったのです。こうして福音の言葉は地域を越え、国を越え、海を越えて私たちのもとに届けられたのです。弟子たちが主イエスの証人としてエルサレムだけで働いていたなら、私たちのもとには福音は届かなかったかもしれません。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)と記されてあるように弟子たちは一人でも多くの人に主イエスの教えを伝えようとしたからこそ、今日、この日本にいる私たちのところまで福音が届けられてきたのです。

現代は海外に容易に行くことができる時代ですから、旅をしたりするとあらゆるところに教会が建てられていることを目の当たりにすると思います。世界中に福音が伝えられています。日本のあちこちに教会が建てられているのも、この上原の地に私たちの教会があるのもすべて、2000年前のあの主イエスが復活されたことの「証人」になったのがそもそもすべてのスタートラインなのです。「あらゆる国の人々に」というところが大事です。すべての人といつも主イエスは一緒にいてくださると言うのです。

「この人はいいけど、あの人はダメ」なんていうこともないのです。皆がイエス・キリストに繋がり、元気なときも辛いときも……いつも一緒にいてくださる。これが福音の素晴らしさです。もし主イエスに繋がっていなかったら、私たちはこうならないでしょうか? 「自分の好きな人だけ、気が合う人だけ、話を聴いてくれる人だけ」が主イエスのもとに集まろう、などということになるのではないでしょうか。その醜い私たちの心を清めて、人間が本来持っている美しい心に変えてくださるのが聖霊の働きです。私たちはもっと聖霊に願わなくてはなりませんし、もっともっと聖霊の働きを感じなければなりません。

そしてパウロはこう言っています。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主』であるとは言えないのです」(1コリント12:3)

今年のイースターを祝ってからこの40日あまり、礼拝でルカやヨハネの福音書に聴いてきました。それによれば復活させられた主イエスが、エルサレムに集まっていた弟子たちに現れたことを記しています。主イエスは弟子たちに手と足の傷を見せました。弟子たちの方はなかなか主イエスが復活させられたことを信じられませんでした。けれども主イエスはご自分が復活されたことを弟子たちにわかってもらおうとしました。そして主イエスは弟子たちの見ている前で焼いた魚をお召し上がりになったのです。弟子たちはこの時まだ、主イエスを「亡霊」だと思っていたんですね。おそらく生前、主イエスが弟子たちと一緒に食事をとられたのと同じ仕草、食べ方であったのでしょう。それを見てイエスご自身がまことに活きた身体をもって復活させられたのだと示されたわけです。

思えばあの金曜日に主イエスが十字架で死なれたことで、弟子たちはどんなに落胆したでしょうか。イエスというお方を信じて、従ってきて、主イエスがすべてであった人たちに、主イエスの死によってもたらされた大きな悲しみ、大きな喪失感、そして大きくぽっかり開いてしまった心の穴。もう立ち上がれなくなるほどの絶望、この先どのように生きていって良いのかわからないほどの混乱。そんな時、主イエスは約束どおり、復活されました。主イエスの側から自分たちに会いに来てくれたのです。今も、これからも主イエスが共に居てくださることを弟子たちはどれだけ喜んだでしょうか。悲しみのどん底に落とされていた人が喜びの頂点に達したのでした。

この時からの弟子たちの変わりようはルカ福音書の続編である「使徒言行録」においても明らかです。たとえばあの一時は主イエスを「知らない」と言ったペトロは公然と主イエスのことを宣べ伝え始めます。「使徒言行録」の2章、3章などにはイエスを十字架につけた祭司やサドカイ派の人々を前に堂々とメッセージを語っているところが記録されています。2000年前、最初はたったの11人の弟子たちからのスタートでした。しかし、この人たちはそこでおじけづいたり、留まったりしないで主イエスのお言葉の通りに「すべての人」に福音を伝えたのです。こうして皆で力を合わせて「復活の証人」となったことで信者に加えられる人々が増えて行きました。こうして復活の主イエスとの出会いがもう死にそうになっていた、力を失っていた弟子たちに再び活力を与えたのです。「主イエスは神です!」そしてこの神は今も活きておられると、この言葉は2000年の歴史を貫いてきたのです。ある人は伝道者になりました。ある人は音楽や美術で主イエスを表現しました。文学で主イエスを伝えた人がいました。そして多くの人たちは自分の仕事や普段の生活の中で主イエスを伝えました。こうして世界に福音が伝えられていきました。

そして主イエスは今この時も、私たちを世界中に遣わされようとしておられます。私たちにはいったい何ができるのでしょうか。

私たちは毎日、人とのかかわりにおいて生活しています。家庭で、職場で、教会で、人とかかわっています。誰かと一緒に何かをしたりします。中にはどうしても合わない人もいるでしょうし、また悩みをかかえて困っていてどうしようにもない人もその中にいるかもしれません。私たちはそういう人の立場になって考えたり、声をかけたり、話を聞いたり、一緒に悩んでみるということがあるでしょうか。人は不思議なもので誰かに悩みを打ち明けるだけですっきりすることがあります。私たちは自分がすっきりすることだけに明け暮れていないでしょうか。

また私たちは外国で災害が起き、あるいは国内でも遠いところの人々のことを聞いても、私たちには何もできない、と思ってはいないでしょうか。しかし、その人たちやその国や地域を憶えて祈ることはできるはずです。平和を祈ることは私たちにできるはずです。私たちは悪が行われること、また正しくないことに対して反対することも必要です。私たちの声や力は小さいかもしれません。しかし主イエスの弟子たちであっても11人から始めたのです。そこに爆発的な聖霊の力が与えられました! そういう私たちに主イエスは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われます。何かを広げるということはまず、私たちの重い腰を上げなければ何も始まりません。

先ほども申しましたように私たちは主イエスに間接的に出会った者たちです。しかし、イエスに出会えるチャンスがあります。それはこの礼拝においてです。イエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を今ここで聴いているからです。そして神のことばやパンと杯を通して活けるイエス・キリストに出会って、私たち一人一人がキリストに結ばれる時、それが<礼拝>です。こうしてわたしたちも「あなたがたはこれらのことの証人となる」とキリストに祝福をされ、この世での生活に派遣されていくのです。主イエスは救い主です。私たちは主イエスの証人として今ここから立ち上がりましょう!

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