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「左側ではなく、右側に」ヨハネ21:1-14 中村吉基

イザヤ書61:1-3;ヨハネによる福音書21:1-14今日の箇所で主イエスは突然にこう言いました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。ペトロたちにとって見れば、この見知らぬ男がやってきて唐突にこんなことを言われては、驚かないわけはありません。ペトロたちは元々漁師です。それに対して主イエスは素人です。ガリラヤ湖のことも、風の状態も、魚の習性もペトロたちには重々良く判っていたはずなのです。しかし、そのような漁師たちに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とはいったいどういうことなのでしょうか。びっくり仰天しながら、でもそういうのであるならば、網を降ろしてみましょうとするのでした。先週からの続きの物語です。「その後」というのは、復活された主イエスが弟子のトマスにお会

「人生は困難ではない」ヨハネ9:1-12 中村吉基

列王記下6:8-17;ヨハネによる福音書9:1-12私たちはいつも「言い訳」をすることによって、心をスッと楽にしているところがないでしょうか。「親が悪い」「友達が悪い」「会社が悪い」「パートナーが悪い」「世の中が悪い」と言って、そして最後には、だから「自分は〝悪くない〟」として満足している自分がいるのではないでしょうか。しかしそのようなことで心が晴れるのはたった一瞬のことでしょう。自分がダメだと思っていることを運命のせいにしても、他人のせいにしても私たちの人生はまったく変わらないからです。例えば、「政治家が悪い」「社会の風潮が悪い」と批判「だけ」していてもこの世の中は全く変わらないのです。本当に社会を変えたいのであれば、自ら政治家になるとか、大きな努力を必要とします。「親のせいでこんな性格に

「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

コヘレトの言葉12:1;ヨハネによる福音書15:12~14「お金は貯めるものではありません。使うものです」親にこう言われて育った子どもたちがいました。でもこれに続く言葉がありました。「お金は貯めるものではありません。使うものです。世のため、人のために」それから子どもたちはお小遣いをもらう度に「お金は貯めるものではありません。使うものです。世のため、人のために」と声を揃えて言いました。この子どもたちはそれを教えた親の「世のため、人のために」という姿勢が伝わって、何をするにしてもまず世のため人のためにと考えるおとなへと成長していきました。この話は実話で、かつて茨城県で牧師をされていたF牧師の言葉です。この家庭の3番目の子どもは女の子で「るつ記」さんと言いました。旧約聖書の「ルツ記」から取られたお

「永遠の命を得るために」ヨハネ6:41-59 中村吉基

箴言9:1-11:ヨハネによる福音書6:41-59「わたしは天から降って来たパンである」と今日の箇所で主イエスは言われています。私たちクリスチャンは主イエスを信じて歩みを起こした者たちです。主イエスが今、皆さんの目の前に立って「わたしは命のパンである」「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言われたならばそれを素直に受け入れる心の準備があるでしょうか。出エジプト記にはモーセがエジプトで奴隷になっていたヘブライ人たちを導き出した時、食べるものや飲むものがなく、不平を漏らしていました。けれども神様はモーセを通して民が水を飲めるようにして、天からマナという食物を振らせてくださいました。これはこの箇所の49節のところにも記されてありますが、今、主イエスの目の前にいるユダヤ人たちは、主にパン

「キリストは私たちのただ中に」マタイ1:18-23 中村吉基

イザヤ書7:10-14;マタイによる福音書1:18-23皆さん、2024年のクリスマスおめでとうございます。以前、イスラエルを旅した折に、イエスさまがお育ちになったナザレの街を訪ねました。現在はアラブ人とユダヤ人が共存しながら暮らしている街なのですが、この街の中心部には「受胎告知教会」という大聖堂が建っています。イスラエルの三大聖堂の一つ(あとの2つはベツレヘムの聖誕教会とエルサレムの聖墳墓教会)でとても立派な造りの大聖堂でした。この教会はマリアを記念して献げられた教会ですが、その横に今日の箇所に出てくるイエスさまの養父となられたヨセフを記念した教会がありました。受胎告知教会のほうは類を見ない壮麗な建築でしたが、ヨセフ教会のほうは質素でよく見かけるカトリックのゴシック様式の教会で大きさもずい

「人生を導く神の光」中村吉基

イザヤ書7:10-14;マタイによる福音書1:18-23先週はご一緒にクリスマスの礼拝を捧げました。教会の暦ではクリスマスの期節が続いています。今日私たちは1月6日の主の公現の日に先立って、救い主イエスが世界の主として公に現れたその出来事の福音に聴いています。今日の箇所では東の方で不思議な星を見た占星術の学者たちが、救い主に出会うために旅を続けたことが記されています。この学者たちというのはいったい何人で旅をしていたかはわかりません。しかし、救い主に出会ったその時…11節に記されてありますが…黄金、乳香、没薬という3つの贈り物をしたことから、よくクリスマス絵本などには「3人の博士たち」として描かれています。またこれはヨーロッパなどに残る絵画などに見られますが、3人の王様の姿として描かれています

「わたしがあなたと共にいる」エレミヤ1:4-8 中村吉基

エレミヤ書1:4-10;ローマの信徒への手紙12:1-8エレミヤは紀元前640年ごろに南ユダ王国ベニヤミンのアナトトにある祭司の家に生まれ、ヨシヤ王、ヨアキム王、ゼデキヤ王の時代に活躍した預言者です。彼は感受性が非常に豊かで涙もろく、「涙の預言者」とも呼ばれるほどです。今日私たちが聴いた箇所は、まだエレミヤが年若い少年期から青年期にかけて神さまの呼びかけを受ける場面です。エレミヤが預言者として神さまの選び(召命)を受けるこの場面は、神さまとエレミヤが対話をしながら場面が進んでいきます。神さまの言葉は圧倒的な力を持ってエレミヤに臨んできました。その神さまはエレミヤが母の胎に造られる以前から知り、そこから生まれ出る以前に聖別していたと語ります。そして、その職務は預言者、それも諸国民の預言者である

「共に喜び、共に泣く教会」ローマ12:9-18 中村吉基

レビ記19:9-10,23:22,申命記24:19;ローマの信徒への手紙12:9-18先週私たちの教会では教会総会を開かれ、2025年度の宣教方針案が可決されました。宣教方針には毎年「年間聖句」が掲げられていますが、今年度の聖句として私たちに与えられた聖書の言葉は、ローマの信徒への手紙12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というものです。ローマの信徒への手紙はパウロが第1章から第11章までに「福音とは何か」ということについて述べておりますが、この第12章からはその福音を享けて「福音にふさわしいキリスト者の生き方とは何か」ということに内容が転じています。私たちは2000年前に書かれたこの勧めを、今日私たちの教会に語られた神の言葉としてこれを読みたいと願います(注:ローマの信

「あなたは私の愛する子」マタイ3:13-17 中村吉基

サムエル上16:1-13a;マタイによる福音書3:13-172025年が明けて2回目の主の日です。今日は主イエスが洗礼をお受けになったことを記念する日です。主イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのですが、これは主イエスの誕生からおおよそ30年を経てからの出来事でした。今日からしばらく公現後という期節に入りますが、主イエスが世界の救い主としてお生まれになったことを記念する1月6日の公現日でした。私たちは一足早く12月29日の礼拝で東方の学者たちが幼子に対面した物語をマタイによる福音書から聴きました。今日の主イエスの洗礼の物語はそれとは無関係ではありません。「神の子」としてのイエス・キリストの公生活の始まりがこの洗礼の出来事にあるからです。いわば主イエスが公に活動を開始した日のこ

「価値と使命を映し出す場所」ヨハネ9:1-7 佐原光児

詩編118:22-25;ヨハネによる福音書9:1-7今日の箇所は目の見えない人とイエスの出会いの物語です。イエスと出会って見えるようになった奇跡物語になりますが、わたしはここに人の生き方や視点に関わる重要なことが示されていると考えています。まず確認しておきたいことは、イエスが生きていた時代、特定の病気や障がいは何か悪いことをした神の罰だと考えられていたことです。この場面で弟子たちの「この人の目が見えないのは本人が悪いのですか。それとも両親ですか」という問いは、当時、当たり前であった価値観を反映しています。しかしイエスの返答は当時の考えとは全く異なるものでした。人が抱える障がいは本人や両親のせいではないと明確に否定した上で、この人の経験の中から、これまでの苦境の中から神の業が現れると宣言したの

「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

イザヤ書11:1-10;マタイによる福音書3:1-12アドヴェント・クランツの2本目のろうそくに光が灯りました。今朝私たちは待降節の第2主日を迎えました。この第2主日は「平和」の日曜日です。平和を考え、祈る1日に、あるいは今日1日は、せめて平和に過ごせるようにしたいものです。今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されます。しかしそれはヨハネに注目するためではありません。私たちはヨハネが指差した救い主に見つめるのです。11節のところで「わたしの後から来る方」とヨハネが語っていますが、ヨハネが示したお方に私たちも心を合わせて今日の礼拝を捧げましょう。実はこの記事はルカ福音書にも見られるものです。しかし、ルカとマタイを読み比べてみるとそこにはそれぞれの福音書を記した人の思いが見られるのです。

「最後まで」ヨハネ15:9-21  中村吉基

ミカ書4:1-5;ヨハネによる福音書15:9-21  今からちょうど60年前の1962年、私たちの日本キリスト教団の総会において西中国教区(広島、島根、山口県)から「平和聖日」の制定について提案されました。それを受けて、「毎年8月第1日曜日を平和聖日とする」と教団は決定し、翌63年の8月より実施されました。今日私たちは平和聖日の礼拝を捧げています。ちなみに西中国教区には世界最初の被爆地であるヒロシマが含まれています。教団に連なる全国1700の諸教会は第2次大戦中の戦争協力への反省と近隣諸国へ与えた被害、また広島・長崎の被爆をおぼえ、今朝の礼拝を捧げています。平和の問題は今日だけ、8月だけに考えればよいということではありません。私たちは常に「平和を作り出す者」としての行動が

「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

出エジプト記34:4-9;ヨハネによる福音書8:1-11私の出身地、石川県に今は広域合併をして白山(はくさん)市と呼ばれているところがあります。この街の一部は以前には松任(まっとう)と呼ばれていたところですが、ここに暁烏敏(あけがらす・はや )という真宗大谷派の僧侶がおられました。1877(明10)年生まれで1954(昭29)年に亡くなっておられます。数え切れない本を著して、浄土真宗の、あるいは仏教の教学に貢献された方です。金沢大学図書館には彼を記念した文庫があります。私は暁烏のお名前を初めて聴いたのは高校生の時、教会の牧師からでした。地元の教会の牧師までに知られている名説教師のお坊さんであったとのことです。この暁烏がある日のこと、親鸞(しんらん 1173-1262)の有名な言葉「善人なおも

「神の働かれる『余地』」ヨハネ2:1-11 2022/01/16 中村吉基

イザヤ書 62:1-5;ヨハネによる福音書 2:1-11今日私たちに届けられましたヨハネによる福音書2章の記事は主イエスの公生活における最初の奇跡が行われた時のこととして知られています。ガリラヤのカナというところで婚礼があり、その場で主イエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。主イエスだけではなく、主イエスの母マリアも、弟子たちもその披露宴に招かれていたことが記されています。宴たけなわになったころ、準備されていたぶどう酒が飲み尽くされてなくなりかけていました。せっかくの披露宴のぶどう酒がなくなってしまっては、おめでたい席の途上で、結婚した2人を祝うパーティーの場が白けてしまうかもしれませんでした。パーティーのお手伝いをしていた母マリアは主イエスに神の子としての力を顕して、この窮地を切り抜

「あなたは誰ですか」ヨハネ10:27-30 中村吉基

歴代誌下7:11-16;ヨハネによる福音書10:27-30今日もヨハネによる福音書から聴きましょう。27節から28節にかけて、こう記されています。わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼ら(人間)を知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。私たちのことを動物の「羊」にたとえるのは合点がいかないと思われる方もいるのではないでしょうか。しかし先々週も先週も申し上げたように、イエスさまのお話の仕方というのはとても現実に即した仕方でなされていました。ガリラヤという田園地帯で羊飼いと羊の関係は誰にでもよくわかる話でした。羊というのはたいへん依存的な動物なのだそうです。視野が狭く、自分の鼻先しか目に入

「イエスに聴き従う」マタイ17:1-13 中村吉基

出エジプト24:3-11;マタイによる福音書17:1-13明日、私たちの上に何が起こるのかはわかりません。私たちの人生はしばし、旅のようにたとえられます。綿密に計画された旅ではなく、運命を天にまかせたような、そんな旅です。この旅の途中では実際に予期しないことが起こり、そのようなことが起こるごとに、私たちは自分の歩みを計画変更しなくてはならないことがありますし、そのまま進んでいくこともあります。それによってその後の人生は大きく変わってくることもあります。皆さんには時々、辛いこと、避けたいこともあるでしょう。では、私たちはいったい自分の人生において何を選択の基準にしたらよいでしょうか。今日の福音は〈主の変容(変貌)〉の出来事を描いています。そして私たちが自分の一度限りの人生において誰に聞き従うべ

「その日、その時を知る神」マタイ24:36-44 中村吉基

イザヤ書2:1-5;マタイによる福音書24:36-44今日から待降節(アドヴェント)に入ります。教会は新年を迎えました。4週間余りの間、イエス・キリストの降誕を記念するクリスマスの日を待ち望み、また終末の時、この地上に再び来られるキリストを待ち望む期節です。アドヴェント・クランツに4本のろうそくを毎週一本ずつ点していきます。クリスマスが一番近い日曜日に4本目が点ります。ろうそくの色は夜明けの色、紺や紫を使います。もともと紫の色は昔の王族や貴族が服飾などに用いる色でした。この色は王であるキリストの高貴な色を表すと共にキリスト教会では「悔い改め」の色でもあります。私たちの日々の行いを省みながら、私たちの弱さや過ちをゆるされてクリスマスの日を迎えるための備えの期間がアドヴェントです。ちなみに待降節

「あなたはわたしの愛する子」マルコ1:9-11 徳田信

エゼキエル書36:25-28;マルコによる福音書1:9-11そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。先日、電車に乗っていると、隣に、赤ちゃんを抱いたお父さんが乗ってきました。お父さんは気づいていないようでしたが、その子は手足をバタバタさせていて、何度もその足が私に当たりました。その時、なんとも言えない喜びがあふれました。そこには、何の恐れもありません。お父ちゃんに抱かれている安心、そして、その安心が、この世界そのものへの安心につながっているのだと感じました。私たちは大人になるに

「復活への希望」ヨハネ20:1−9 中村吉基

イザヤ書55:1-11;ヨハネによる福音書20:1-9皆さん、イースターおめでとうございます。何もかも投げ打って主イエスに従っていた弟子たちは、主イエスこそが、神がこの世界に与えてくださった救い主であると信じ、イスラエルの王になることを期待してやみませんでしたから、エルサレムで2日前の金曜日に起こった出来事、すなわちイエスの殺害を到底受け容れることはできませんでしたし、大きなショックでもありました。十字架刑という当時、最も極刑にある者が受ける死刑執行の方法で、自分たちの救い主が殺されていくとは思いもよらないことでした。 いったい今まで何を信じて生きてきたのだろう・・・・・・。弟子たち一人ひとりがそう思ったことでしょう。ある者はそれまでしていた仕事を捨て、ある者は家族を故郷においてこの首都エル

「癒し手となる力の授与 」マタイ10:1~4 陶山義雄

サムエル記上3:10~21マタイによる福音書10:1~4前回は主イエスの働きをマタイ記者が3つに要約した所を見て参りました。それは、主の働きを1.教えとして、2.福音を宣べ伝えることとして、そして3.病を癒す働きとして9章までを総括した所でした。英語で言えば、Teaching, Preaching , Healingとなります。これら3つの働きは英語によると、とても簡明で、覚え易く聞こえます。これよりその働きが弟子たちに受け継がれようとしています。マタイ記者は先に記されたマルコ福音書の「12弟子の選定と派遣」の物語を伝承から受け取りながら、その前置きとして、本日のテキスト・冒頭の10章1節を置いています。それは、イエスによる3つの働きの中でも、「癒しの勤め」を頂点に掲げ、その働きを弟子たちに

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Emmanuel

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