「最後まで」ヨハネ15:9-21  中村吉基

ミカ書4:1-5;ヨハネによる福音書15:9-21  

ミカ書4:1-5;ヨハネによる福音書15:9-21  

今からちょうど60年前の1962年、私たちの日本キリスト教団の総会において西中国教区(広島、島根、山口県)から「平和聖日」の制定について提案されました。それを受けて、「毎年8月第1日曜日を平和聖日とする」と教団は決定し、翌63年の8月より実施されました。今日私たちは平和聖日の礼拝を捧げています。ちなみに西中国教区には世界最初の被爆地であるヒロシマが含まれています。教団に連なる全国1700の諸教会は第2次大戦中の戦争協力への反省と近隣諸国へ与えた被害、また広島・長崎の被爆をおぼえ、今朝の礼拝を捧げています。平和の問題は今日だけ、8月だけに考えればよいということではありません。私たちは常に「平和を作り出す者」としての行動が求められています。そのような中で今日は平和について祈り、それぞれの志を新たにする日です。 

今日の箇所は主イエスが最後の晩餐の時に、弟子たちに自分の思いを、心を込めて真剣に話した「告別説教」と呼ばれているメッセージです。主イエスはここで弟子たちをもはや僕(しもべ)とは呼ばず、「友」と呼ぶと言われました。主イエスは今日も私たちを「友」と呼んでくださり、私たちを愛しておられます。 

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)。これを聞くと主イエスが生前ガリラヤにおいて、きっと泥だらけになりながら旅をして、貧しい農民に、あるいは病気の人に、差別されていた人に「神の国とはこんなところだよ」と目を見開いて真剣に語っていた表情を思い浮かべます。それは今、この現代においても続けられています。主イエスの「親友」とされた私たちが、自分の身体と心の中に生き続けている主イエスを宣べ伝えていくのです。また私たちは助けを必要としている人に主イエスの救いのみ言葉を伝えるのです。気弱になっている人に主イエスの慰めの言葉を届けることができます。そして友にも恵まれない孤独な人に主イエスの暖かいみ言葉を、皆さんの中に生きている今も復活の主が語ってくださいます。 

主イエスの愛は2000年の歴史を超えて現代の私たちのところに届けられたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。私たちが主イエスを選んだのではない、主イエスが私たちを選んでくださった。なぜ、最後に主イエスは最後の晩餐の部屋でこのみ言葉を語られたのでしょうか? 弟子たちの中には、「いやいや、私が主イエスを選んで従ってきたんだ」そう思っている人がいたかもしれません。弟子の一人ペトロはこう言います。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)。ペトロの言葉の背後には自分からイエスを選び、従っているのだ、という思いが表れています。 

私たちも、あるいは教会に来る人たちにも同じ思いがあるかもしれません。自分で教会に通うことを決めて、そして自分が従っている、という思いです。しかし、このことを逆の見方で見てみるとそれを辞めたいと思うときにはいつでも、簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいます。本物の信仰は、私たちのいのちの造り主である神に委ねる信仰です。神に対して絶対的な信頼を寄せるのですから、いつでも簡単に棄て去るのとは相反するものです。自己中心の思いです。そうではなくて「わたしがあなたがたを選んだ」と言うのは私が中心とか、私が選んで信じているという思いを180度変えて、神を中心にして、そして信じている私も、神の選びによるのだという考え方に転換しなさいということです。本物の信仰は、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかってきます。自分が選んだのではなく、主イエスのほうで自分を選んでくださったという考え方に転換しなさい、ということを主イエスは弟子たちにも私たちにも求めているのです。主イエスは宣言しておられます。「わたしがあなたがたを選んだ」。私たちが自信に満ちているときも、弱り果てている時もいつでも主イエスが「わたしがあなたを選んだのだから大丈夫」って言ってくださるのです。 

今日の礼拝で、お一人の方が洗礼を受けて神の子とされます。この方が、あるいは皆さんが教会に来られたのは、「たまたま偶然」ではないのです。ある人はキリスト者の家に生まれた。ある人は友達が教会に行っていて誘われた。ある人は入学した学校がキリスト教の学校だったとか、さまざまな「きっかけ」があります。そうして教会に導かれ、聖書との出会いがあったのですが、でも私たちの周りを見てみれば、キリスト教とは何の関係もなく生きている人もたくさんいます。この私が教会に導かれている、他の人がまだ知らないイエス・キリストに出会っている。これはたまたま起こったことではなく、神がわざわざ「あなた」という一人を選ばれたのです。選ばれたことに誇りを持っていいのです。この選びは英語で言うとCallingです。神は私たちを「呼び出された」のです。このCallingには大切なことが含まれています。それは言葉の意味は「使命」とか「職業・仕事」という意味がありますが、神に選ばれた者として新しくされたこれからの人生に私は何をしていくのか、何を神と隣人とに捧げていくのかということです。 

16節の続きに目を向けて見ましょう。 

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 

ここで2つのことが言われています。1つは私たちが人生の旅に出かけて行った時、私たちの生活の場で私たちがすること(主イエスの愛を伝えること)が実を結ぶ。そしてその実が残されていく、2つ目は主イエスの名によって願うことが何でも与えられるということです。何度も申しますが、これは最後の晩餐で弟子たちに語られたことでした。つまりもうすぐ主イエスは十字架につけられて殺されるけれども、主イエスの愛に留まり続ける人は決して破綻することはない。そして神がその人を選ばれるのは、その人を通して、さらに他の人々に救いを伝えようとしているのです。その中で大切なことを主イエスは言っておられます。 

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。 

私たち一人ひとりの中に「互いに愛し合いなさい」という主イエスの教えが実現するときに復活の主イエスは私たちの中で生き続けてくださるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。破壊することではありません。殺すことでもありません。その人をその人として「生かす」のが主イエスの教えてくださった神の愛なのです。 

静岡草深教会の牧師を長く務め、教団総会議長でもあった、故・辻宣道(つじ・のぶみち 1930-1994)先生は第2次世界大戦中にホーリネス教会の弾圧で牧師であった父親を亡くされました。ホーリネス教会の方々は第2次世界大戦中に天皇が本当の神なのではなくて、イエスこそ主である。と告白してやまなかったために時の政府によって弾圧された経験を持っています。当時、牧師は逮捕、教会は解散、戦争に協力していった同じ教団内の教会からは「あの人達はキリスト教ではない」と見捨てられた人たちでした。 

当時、中学2年だった宣道少年は、父親が刑務所に入れられてから家族が食うや食わずの生活を送っていたとき、母親に言われて教会の役員だった人のところにカボチャを分けてもらいに行くと、 

「お宅に分けてやるカボチャはないねえ」 

との言葉が返ってきたそうです。この人は以前、伝道集会ともなると真っ先に証しなどを買って出る人で、みんなの尊敬を集めている人でもありました。このことは先生が信仰を持つ際に長く大きな「つまづき」となっていたそうです。先生は「人間いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。……カボチャの人物のように調子のいいときだけ熱心というひとが多かったのではないか」と後に書いておられます(『教会生活の処方箋』)。宣道少年の下にはまだ幼い弟たちがいました。それは、それは切実な祈りであったでしょう。この日の元役員の人の心ない言葉を聞いてどれだけどん底に落とされたでしょうか。 

私はこの話は何十回説教で引用したかわかりません。それは私たちもカボチャの役員のようになってしまう日が来ないとは言えないからです。平和な世界に生きることはどれだけ大切なことでしょうか。 

今日の箇所の最後18節以下のところには、「迫害」について語られています。本来ならば27節までがひとまとまりになっておりますが、本日は21節まで聴きました。19節には「あなたがたは世に属していない」と記されています。けれども私たちは世に生きています。世に生きているけれども世に属してはいないとは一体どういうことでしょうか。キリスト教の信仰を持ち続けていくということは並大抵のことではないということです。日本ではキリスト者の数が人口比0.8パーセントと言われています。「珍しい存在」としてのキリスト者。ゆえに私たちは世の人から奇異な目で見られ、疎まれることすらあるのです。今、一見平和な国に生きているかのような私たちです。けれども辻宣道先生の御一家のように、明日何が起こるか私たちにはわかりません。神だけが知っておられます。私たちは世に生きながら、キリストを自分の救い主と信じ、神に属して生きる者なのです。しかしたった一人で信仰を貫いていくことは至難の業です。不可能と言ってもよいのです。そのために教会があるのです。洗礼を受けて教会の一員になるのです。教会が自分の魂の家になるのです。そして教会にいる仲間たちと一緒に信仰を育んでいくのです。それが私たちの「最後まで」光の中を、神が与えてくださった永遠のいのちの道を歩んでいくのです。 

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