朽ちない冠を得るために

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朽ちない冠を得るために

ダニエル書9,15-19;

 今年は、北京オリンピックの年である。夏の開会を心待ちにしている人も多いことだろう。スポーツには何かしら人の心を打つものがあるから、私も好きで、テレビでよく見る。パウロもスポーツには関心を持っていたらしい。今日の箇所でも、ランニングとボクシングを話題にしている。

 そもそも、ギリシャはオリンピック発祥の地だけあって、いろいろなスポーツ大会が盛んだった。コリントの町でも、有名なイストミア大競技祭というのが一年おきに開かれていたというから、もしかしたらパウロにもそれを見るチャンスがあったかもしれない。少なくとも、その噂ぐらいは耳に入っていたであろう。

 古代オリンピックは、既に300年以上も前に途絶えたままであった。紀元前776年に始まったこの一大イヴェントは4年に一度開かれ、そこでは走ったり・投げたり・跳躍したりといった基礎的身体能力だけでなく、詩や音楽などの文化的な能力まで競ったと聞く。それが400年も続いたのである。この民族の記憶が、コリントのギリシャ人たちの中にも残っていなかった筈はない。今日の所でパウロがスポーツを例にとって語りかけた背景には、そういうこともあったであろう。

 さて、24節に競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさいと言われている。ごく分かり易い教えである。優勝の栄誉に輝くのは一人だけだ。その栄光のゴールを目指して、出場する選手たちは懸命に走る。その姿勢から私たちも大切なことを学ぶべきだ、というのである。

 その学ぶべき大切なこととは何か? パウロは端的に競技をする人は皆、すべてに節制します(25節)と言う。競技は、実際にスタートする前からもう始まっているのである。どれだけ厳しく自己抑制できたか、どれだけ怠け心や甘えを抑えて練習を積み、自分の肉体と精神を鍛え上げて来たか。それで勝負は8割がた決まる。節制して最高のコンディションを整えた者だけが勝利するのである。

 それまでの節制が実って一番でゴールを駆け抜けたとき、熱狂した大観衆の拍手喝采が湧き起こる。鳴り止まぬ拍手の中で表彰台に上り、月桂樹の葉で編んだ冠をかぶせられる。現代では、金メダルだ。それは晴れがましく、誇らしい瞬間である。故郷に凱旋すれば、今度は村の人々の賞賛が待っている。国民栄誉章といった別の栄誉も付け加わる。これらはすべて、素晴らしいことに違いない。

 だが、月桂冠がやがて干からび・しぼみ・朽ちて行くように、勝利者としての栄誉も過去のものとして忘れられる日が来るであろう。このことを、選手は恐らく他の誰よりもよく知っているのである。筋肉も気力も年とともに衰えて行く。輝くほど若かった日に極めた最高の位も、一生続くわけではない。栄光はやがて消える。競技で優勝するということは、朽ちる冠に過ぎない。

 このことを選手たちは知らないわけではない。それでもなお、彼らは節制し、勝利を得るために努力する。このことは我々に対する教訓だ、とパウロは言っているのである。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです(25節後半)。

 では、朽ちない冠とは何だろうか?

 同じようにスポーツを引き合いに出して語った箇所に、がある。14節を引用したい。神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る。ここで、パウロは朽ちない冠をと言い換えている。私たちが人生の目標として目指す賞である。要するに神様のご褒美ということではないか。

 神は、私たちの人生の一部、あるいは最良の一時期だけではなく、そのすべてをお見通しである。その神が、私たちを御前に呼び出して、お前はいろいろ失敗もしたが、人生をよく生きたとほめて下さる。朽ちない冠とはこのことに違いない。

 私は先週、愛知県の西尾教会で奉仕する機会を与えられたが、かつての仲間の多くと再会できて本当に嬉しかった。杉本牧師のことは、今日の週報にも紹介しておいたから繰り返さない。その他にも多くの印象に残る人がいた。96歳になる今も毎週教会学校の教師として子どもたちに教えている人、忠実な教会員として活動の原動力となっている人、それを陰で支えている人、ガンを克服して積極的に生きている人、いくつかの挫折経験にもめげずにそれを生かしている人、自宅の隣に障害者・高齢者・子供たちのための集いの場を作った人、等々。この人たちは、月桂冠や金メダルといったこの世の栄誉は全く求めていない。自分にできることを、黙々と人のために実践しながら謙虚に生きている。だが、私は信じる。やがて彼らは、神の前で、あなたはよく生きたとほめられるだろう。朽ちない冠を得るとは、そういうことだ。そして、この冠を得るためにこそ、私たちは節制しなければならないのである。

 その節制の仕方について、パウロは、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしない(26節)と言っている。例えば、マラソンの選手はゴールまでの42.195kmを前以てよく調べるという。どこに、どのような起伏があるか。何度か試しに走ってみる。走力をつけるのも大事なことだが、やみくもに走るだけでは、勝利は覚束ない。ボクシングの場合も同様だ。相手をよく見もせずに、やたらに拳を振り回しても無駄である。目標をはっきり見定める。それが決まったら、自分の体を打ちたたいて服従させる(27節)。これが肝心なのだ。



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