I
教会の暦では、今日の主日は顕現後最終主日です。顕現祭は、キリストが諸国民の前に現われたことを祝う祭りです。歴史的に見れば、異邦人伝道が本格的に行われたのは復活節の後です。ですから異邦人へのキリストの顕現とは、復活のキリストの命が啓示されることを意味します。他方で来週の日曜日から、受難節前の三週間が始まります。私たちは今日、顕現と受難の間にいるわけです。では、キリストの輝きの現われは、彼の受難あるいはこの世界における苦難と、どのような関係にあるのでしょうか。パウロを手がかりに、ご一緒に考えてみましょう。
II
パウロにとってキリストの顕現とは何だったのでしょうか。今日のテキストの最初の部分で、彼は次のように述べます(6節)。
最初の闇から光が輝き出よは、いうまでもなく神が世界を創造する言葉、光あれ(創世記1,3)を受けています。キリストの顕現は、世界を創造した神の行為と同じ本質のできごとです。この光は、創世記によれば、太陽や月の光などの具体的な発光体とは異なり、いわば原初的な光です。太陽や月は第4日に創造されていますから(創世記1,14以下)。パウロは、キリストの顕現を、まったく新しい世界の始まりと理解しています。
ところで、この文章の全体は、ギリシア語原文で読んでもたいへん分かりにくいのです。あえて直訳すると、こんな感じです。なぜなら神は〈闇から光が照るであろう〉と言う者であり、その神が私たちの心の中で、イエス・キリストの顔における神の栄光の知識の輝きに向けて照らしたからである。ひとつのありうる読み方として、以下のような理解が可能です。すなわち神は私たちの心を照らし、その結果ある認識が、すなわち復活者であるイエス・キリストの顔が神の栄光を映し出しているという認識が閃きわたった。闇に閉ざされた私たちの心の中で、キリストの輝く顔が浮かび上がり、それが神の栄光(輝き)を映すものであることが理解された、というわけです。
こうしたキリストの顕現理解は、おそらくパウロの個人的な体験に遡ります。使徒言行録が、ダマスコ途上でのパウロの回心体験について報告しており(使徒言行録9章)、そこでパウロは天から顕現するキリストに出会いました。
この箇所のパウロの発言には、光の言語があふれています。神が闇の世界に光を呼び覚ます。キリストの顔は、その原初的な光の反射板です。そしてそのことを理解したこと、その知識ないし認識もまた光を放ちます。
古代のユダヤ教において栄光とは、神の属性の一つであると同時に、ときに神と同じ本質をもちながらも神から区別された天的な存在でした。それは神の似姿とも呼ばれました。復活節後の原始キリスト教に、キリストは天における神の似姿である栄光に他ならないとする信仰が生まれたと思われます。直前の文脈でパウロが、神の似姿であるキリストの栄光について語るのも(4章4節)、そのためです。
III
では、そのような知識とパウロ自身は、互いにどのような関係にあるでしょうか。彼はこういいます(7節)。
彼が宝と呼ぶのは、キリストが神の栄光、神の似姿であるという知識のこと、つまり福音のことです。他方で陶器の器とは、パウロを含めた壊れやすい人間を意味します。この発言は二つの点で興味深いものがあります。一つは、貴重品はふつう金庫のような壊れにくい入れ物の中にしまいますが、ここではその逆が言われています。もう一つは、そうした入れ物の壊れやすさが、きわめて積極的に評価されていることです。すなわち人間の弱さは、その人が担っている力のあふれが神から来ることが、誰の目にも明らかになるためだというのです。
これはたいへんに解放的な言葉です。人はもはや自分の存在価値を、自分の努力や力量によって証明する必要がありません。その強迫観念から自由に生きることができます。欠けの多い人間でありつつ、それでもよいことを思い煩いなしに探求することができるのですから。
ですからパウロは、彼の宣教活動の実際を次のように描写します。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(8節)。前半は土の器としての宣教者の実存を、そして後半は宝の満ちあふれる力のなせるわざを示しています。
本田哲郎神父は、この箇所をこう訳しておられます。わたしたちはどんなに弾圧されてもへこたれず、追い詰められても途方に暮れず、迫害されても自分を投げず、打ち捨てられても滅びてしまうことはありません。つまり前半は自分たちが他人からの悪意や暴力にさらされること、後半はそれでも自分たちは持ちこたえているというわけです。印象的な翻訳です。
IV
結局パウロにとって、キリストを宣教しながら生きるとは、どういうことだったのでしょうか? 彼はこう言います(10-11節)。
イエスの殺害を体で担うとか、彼のゆえに死に引き渡されるという発言は、さきに苦しめられる途方に暮れる虐げられる打ち倒されるとあったことに重なります。彼は宣教者としての苦難を、キリストの苦難と重ね合わせて理解しています。しかしこれらのことはすべて、そのことを通してイエスの命もまた現われるためであると彼は言います。イエスの死(あるいは殺害)の影響圏内で生きるとき、その破壊的な作用は自分たちにとっても目に見えるものとなる。しかしそのような中にあって、へこたれず途方に暮れず自分を投げず滅びてしまわないことの中に、イエスの復活の命もまた明らかになるのです(新共同訳は、なぜかこの~もまたを訳出しません)。
さらにパウロは、そのような仕方で自分には死が働くとしても、それによってコリント教会の人々に命が働くのであれば、それでよいと述べます(12節)。少しでも自分が損をすることを極端に恐れている現代の私たちから見て、なんとも潔い発言です。ただ心配なのは、コリントの信徒たちもパウロと同じような困難に陥る可能性があることです。それは私たち自身にも当てはまります。私たちはどうしましょう?
V
キリストの栄光の顕現は、彼の受難あるいはこの世界における苦難とどのような関係にあるのか、と最初に問いました。今はこう考えることができると思います。すなわち私たちがこの世界における暴力や差別、あるいは抑圧を拒否することで、さまざまな不利益を蒙ることになったとしても、希望を捨てない限り、へこたれない限り、そこにイエスの命もまた明らかになるチャンスがあると。
イエスの命というときの命は命のクォリティーのこと、命の生き生きとした本質のことです。永遠の命というときの命も同じです。イエスの復活を通して、そのような命の働きを力で押しとどめることはできない、ということが明らかにされました。
VI
最近、マーク・カーランスキーという人が書いた『非暴力――武器を持たない闘士たち』という本を読みました(小林朋則訳、ランダムハウス講談社、2007年)。そこに、アフガニスタンからインドに抜ける要衝地であるカイバル峠を中心とする地域に対するイギリスの長年にわたる軍事的支配と、それに非暴力で抵抗した現地のパシュトゥーン人たちについて、次のようなエピソードが紹介されています(230頁以下)。
イギリスの支配にしぶとく抵抗し続けたパシュトゥーン人は、1930年代、ガンディーの非暴力運動に合流しました。部族の指導者アブドゥール・ガッファール・ハーン(1890-1988年)は神の僕たち(フダイ・ヒドマトガラン)という軍隊を組織します。これは暴力と復讐を捨て、抑圧者を許し、質素な生活を送るという三つの誓いを入隊の条件とする非暴力の軍隊なのだそうです。ハーンはイスラム教徒ですが、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が共存できる独立国家インドを非暴力によって建設しようとする点で、ガンディーと固い絆で結ばれていました。イギリス側は、パシュトゥーン人を挑発して非暴力の誓いをやぶらせようとします。ハーンはやがて逮捕されますが、住民は次々にこの軍隊に加わりました。
獄中のハーンは、看守からもしガンディーと出会わなかったら何をしているかと尋ねられて、大きな両手で目の前の鉄格子を握り、格子の隙間を広げて見せたとあります。彼はこう言っているそうです、聖なる預言者ムハンマドは、この世に現われて私たちにこう説いた。イスラム教徒とは、言葉でも行動でも絶対に人を傷つけず、神の創られた人間の幸福と利益のために働く者のことだ。この彼は約30年間、獄中にいたとのことです。
この人物の有限な人生において、私たちは、イエスの復活の命もまた明らかになったと言ってよいのではないでしょうか。イエスの命の現われは、キリスト教会の占有物ではないのです。イエスの命は、世界中のいろんなところで実際に証言されているのだと思います。私たち自身も、その命の証人でありたいと願います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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