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- 「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基
申命記18:15-22;マタイによる福音書5:38-48「言い訳」の上手な人がいます。ずっと以前のことですが、ある方からお詫び状をいただきました。しかし、そこには「お詫び」の言葉はひと言も書いていないように、私には思えたのです。最初から最後まで、全て言い訳で塗り固めたような文面で、到底、心の底から詫びているとは思えない内容でした。もちろん、そういう私も言い訳や言い逃れをこれまでしたことがないわけではありません。言い訳というのは使う側には便利であり、反対に、使われる側にとっては怖いものです。たとえば相手から失礼なことをされたときに「あなたのことを思ってついやってしまった」と、上手な言い訳をされてしまうと、本来であれば失礼なことをされた相手なのに、むしろ自分に親身になってくれているかのような、錯
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- 「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基
イザヤ書52:7-10;ヨハネによる福音書1:1-14初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。ふと疑問に思うかもしれません。私たちが「ことば」という文字を漢字で書く際には「言」という字に「葉」と2文字で書くはずです。しかしここでは違います。「言」という字、一文字になっています。これは私たちが普段使っている「言葉」とは違うものであることを意味しています。また同時にしかし、これは「ことば」と表現されなければならないものであるという意味の両方が込められているのです。この「言」は原文では「ロゴス」という言葉です。初めて聴いた方がいるかもしれませんが、英語で神学のことを「セオロジー」と言います。生物学のことを「バイオロジー」、社会学を「ソシオロジー」とお
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- 「後悔のその先に」ヨハネ11:17-27 中村吉基
ネヘミヤ記2:1-18;ヨハネによる福音書11:17-27マルタとマリアの話は聖書にたびたび出てきますので、皆さんもご存じでしょう。エルサレム近郊にあるベタニアという小さな村に、マルタとマリアという姉妹が住んでいました。ルカ福音書の10章には、主イエスの一行がこの姉妹の家に立ち寄ったことが記されてあります。イエスご一行の世話のために忙しく働く姉のマルタと主イエスのそばを片時も離れずに熱心に話に耳を傾けていたマリアのエピソードです。また、ヨハネ福音書にはファリサイ派のシモンという人の家に主イエスが食事に招かれ、ある女性が突然その家に入ってきて、居合わせた人々の非難の目を気にもしないで、イエスの足元にひれ伏し、涙を流して自分の髪の毛でイエスの足を拭いたことが記されてありますが、この女性こそマリア
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- 「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基
イザヤ書9:1-5;マタイによる福音書26:47-52東日本大震災が起こった年でしたから2011年の夏の頃のことでした。私の手元に一枚のはがきが届きました。当時被災地の仮設住宅に住む友人からのものでした。あの3.11の日に浜辺に近いところにあった友人の家は津波によって一階の部分が流され、その時もお母様と一緒に仮設住宅での生活を余儀なくされているのです。けれども私はそのはがきを最後まで読んで驚いてしまったのです。そこにはこう書かれてありました。「『どんな不幸を吸ってもはくいきは感謝でありますように』というのが今の僕の信条であります」。岡山県でハンセン病の方々のお世話を長年された河野進牧師の詩の一節でした。はがきを送ってくれた友人はクリスチャンではありません。それが誰の創った詩なのかも知らず、た
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- 「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基
アモス書6:1a,4-7;ルカによる福音書16:19-3119世紀のフランスの画家・ミレーの作品に『落穂拾い』というものがあります。落穂拾いというのは、穀物を収穫したあとに、または収穫に加えるために、田畑に散らばる穂を拾い集めること。実はこの作品は、貧しい農民を描いたというだけのだけの作品ではありません。旧約聖書「レビ記」の19章や23章には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」という律法があります。また「申命記」24章には「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」とあります。この慣習がキリスト教国でも
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- 「ぶどう酒に変わった水」 ヨハネ2:1-11 廣石望
イザヤ書25:6-10 ; ヨハネによる福音書2:1-11I カナの婚礼でのぶどう酒の奇跡は、ヨハネ福音書で、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」(11節)とコメントされています。教会暦では、1月6日のエピファニー(公現日、顕現日)に続く、ちょうど今の時期にこの箇所が読まれることが多いです。 この物語は、ギリシアのぶどう酒の神ディオニュシオス(あるいはバッカス)の神話ないし祭儀との関係が深いことが知られています。本日の礼拝では、この奇跡物語を手がかりに、異文化との関係をどうとらえるべきかについて、ごいっしょに考えてみましょう。II 日本のキリスト教は、社会の中であまりに少数派であるためか、日本の伝統的な宗教文化から距離をとることで、個性を保とうとするこ
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- 「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基
創世記18:1-10前半;ルカによる福音書10:38~42あるキリスト教の雑誌に、ジャマイカの女性が、電話のことについて書いておられました。ジャマイカは、中央アメリカのカリブ海に浮かぶ島国です。経済が困難な国の一つですが、日本と同じで携帯電話が普及しています。この国でも家庭の固定電話をやめて、携帯だけの契約に切り替える人が多いのだそうです。そこに書かれていたことですが、ある日曜日の礼拝で説教者は、固定電話と携帯電話を引き合いに出して、ほとんど多くの人たちは「固定クリスチャン」だと言いました。「固定クリスチャン」とは自分の近い範囲でしか十分信仰に生きていけないというのです。反対に「携帯クリスチャン」は一緒にどこにでも行き、他の人と繋がるための機能がついていて、それを仕事場や学校や買い物などに持
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- 「神のために力を合わせる」コリントI3:1-9 中村吉基
詩編133;コリントの信徒への手紙I3章1〜9節今日私たちは使徒パウロがコリント教会に向けて書き送った手紙に聴いています。彼はこう言いました。「あなたがたには霊の人に対するように語ることができず」(1)「霊の人」とは聖霊によって新しく生まれ変わった人を指しています。それだけではありません。聖霊に導かれて、生き生きと信仰生活を送っている人のことです。さまざまなクリスチャンの人たちと会話をするときによく耳にする言葉があります。「私はまだよちよち歩きのクリスチャンだ」。「信仰について何にも知らない不勉強な者です」。そのかたは謙遜に仰っているかもしれません。でもそんなことを言わないでほしいと思います。聖霊によって新しく生まれ変わった信仰者でいてほしい。逆に言えば、新しく生まれ変わらないクリスチャンが
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- 「苦難は幸い? 」ルカ4:1-13 中村吉基
ヨブ記 1:1-22ルカによる福音書 4:1-13先週の灰の水曜日から受難節に入りました。灰の水曜日からイースター前日まで40日間。計算の得意な人は少しおかしいことに気がつくでしょう。今年の灰の水曜日は3月2日、イースターは4月17日です。前日まで46日間あります。6日余るわけです。実は受難節(レント)の日の数え方は6回の「日曜日を除く40日。主イエスは日曜日にお甦りになりました。ですから私たちは日曜日を「主の日」と呼んで、毎週イエスの復活を祝います。特に受難節は、主イエスが十字架の死に至る道行きを憶え、その苦難を偲びつつ、悔い改めながら過ごす期間です。さて、最近では携帯電話・スマホなどを家に忘れてくると不安になる人がいるようです。いつも友達とつながっていないと落ち着かないという人もおります
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- 「オネシモーー役に立つ者へ」フィレモン1~25 中村吉基
申命記30:15-20; フィレモンへの手紙1-25「フィレモンへの手紙」は、たったの25節からなる手紙です。「たった」と言いましたけれども、私たちが普段書く手紙もこのような長さかもしれません。パウロの手紙で今残っているものの中で唯一個人に宛てた手紙です。短い手紙です。ここに書かれている内容は、かつて問題を起こした奴隷のオネシモをどうしたら良いかということについて書かれています。きわめて個人的な問題について記されていますが、その背景にはキリスト者が教会のメンバーとしてどのように行動して行ったら良いかという視点で記されてあります。フィレモンという人はパウロの宣教のパートナーでもあり、「家の教会」の主宰者であったようです。その教会に属する人たちが、パウロのしたためたこの手紙が朗読されるのを聴くと
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- 「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基
エレミヤ書14:7–10;ルカによる福音書18:9–14皆さんが聖書を読んでいて、「ああ、自分に似ているなあ」と思った登場人物が出てきたことがあるでしょうか? 私は10代の頃、主イエスの弟子のペトロに親近感を持っていました。彼は熱血漢ですが、最後には主を「知らない」という人間的な弱さを持ち得ている。高校生だった私は「ああ、ボクにもあるある、こんなところが……」。あまり人には言えないような自分の欠点も聖書を読めばここにも私のようなこんな人がいるんだ。そう思って「ホッ」としたものです。皆さんにもそんなことがなかったでしょうか。弟子たちのような実在の人物であろうと、また主イエスのたとえ話に出てくるような架空の人物であっても、聖書の登場人物はすべて自分だと思って読まれると、より神のメッセージが迫って
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- 「イエスのように愛そう」ヨハネ13:31-35 中村吉基
詩編148;ヨハネによる福音書13:31-35「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)今朝は主イエスがいわゆる最後の晩餐の席上でお話になったメッセージから共に聴きました。このメッセージは「別れの言葉」でもありますし、「遺言」でもあります。皆さんの中で、もうすでに遺言を書いておられる方があるかもしれません。もし私たちが、今遺言を書かなければならないとしたら、どのようなことを書くでしょうか? きっと遺される人に伝えておかなければならない、大事なことを伝えるのではないでしょうか。主イエスもそうでした。主イエスの公生活はたった3年ともいわれますが、そんなに長くない期間でした。その中でご自身が人びとに伝えたかっ
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- 「良くなりたいか」ヨハネ5:1−18 中村吉基
ヨブ記23:1−10;ヨハネによる福音書5:1−18日本基督教団の定めた「主日聖書日課」から毎週の礼拝において聖書の言葉に聴いています。毎週の礼拝にはテーマが付けられていまして、今日のところは「いやすキリスト」。一瞬「イエス・キリスト」をもじったギャグではないかと思いましたが、ヨハネによる福音書5章1−18節には病人の癒しの問題と、安息日の問題が記されています。今日は特に礼拝テーマにしたがって前半の主イエスによるいやしの記事に聴いてみたいと思います。今日の箇所の登場人物(名前は判りません)は38年もの間、病気で苦しんでいたエルサレムの人の話です。この病人はベトザタ(恵みの家)と呼ばれる池のかたわらに横たわっていたのです。この池は祭りの参加者たちが羊の門をくぐり、身を清めて神殿に入っていったも
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- 「仕え合う者になるために」マタイ20:20-28 中村吉基
創世記25:29-34;マタイによる福音書20:20-28先週は寒い日が続きましたが、ようやく春らしい日々になりました。新年度最初の礼拝をご一緒に捧げる恵みに感謝します。春は入学シーズンでもあり、また新しい仕事に就いた方々もいらっしゃいます。この教会が属する東京教区西南支区でも何人もの牧師たちが新しい任地に赴いて行きましたし、また新たにこの支区にお迎えする牧師たちも今日最初の礼拝を捧げておられることと思います。牧師や伝道師が着任しますと、しかるべき時に就任式が行われます。たいていは教区の議長などが司式されますが、東京教区は200を超える教会・伝道所がありますので、5つの支区に別れて支区長が教区議長の代行をして就任式を執り行っています。この就任式の中で、(牧師の務めというのは)「神に仕え、人に
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- 「いのちのバトン」詩編23:1-6 中村吉基
詩編23:1-6;テサロニケの信徒への手紙I4:13-14皆さんが今、ここに存在していることは「当たり前」のことではありません。むしろ「奇跡」だと言うべきでしょう。皆さんはこの世界の中で両親が出会っていのちを得られました。その両親は祖父母が出会って、そして皆さんのご先祖たちも奇跡的に出会って、奇跡的に新しいいのちを授かったのです。かつて石川県金沢の公立小学校のクラスで1年をかけて「命のリレー」という授業を続けられた金森俊朗先生という方がおられました。子どもたちが丁寧に時間をかけて自分やきょうだいが生まれた時のこと、両親や祖父母の生まれた時のことを調べて発表するのだそうです。お母さんがたいへんな病気の中で自分を産んでくれたとか、祖父が生まれた時にはすでにその父親(その子どもの曽祖父)は戦争で亡
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- 「顔をどこに向けるのか」ルカ9:51-62 中村吉基
列王記上19:15-16,19-21;ルカによる福音書9:51-62日本の教会はよく「内向き」であると言われます。教会の社会活動・奉仕より、聖書や信仰の勉強のほうが好きということでしょうか。たしかに信仰者としての足腰を鍛えるために学ぶことは必要ですが、私たちの日本の教会は、今緊迫した社会情勢に置かれている国でもなければ、政府によって信仰への迫害がなされている国の教会でもありません。そういう意味ではひじょうにのんびりしているところがあるかもしれません。教会での話題を顧みると、年間行事のことであるとか、奉仕者のことであるとか、決してそれらが不必要な話題ではないにしても、「内向き」であると言われても仕方のないところもあります。私たちは洗礼を受けて、キリスト者となり、教会に所属しています。もう少し簡
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- 「起きなさい」使徒9:36-43 中村吉基
ホセア書14:2-8;使徒言行録9:36-43今日の箇所はこのような書き出しから始められます。ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた(36)ヤッファは港町で現在のイスラエルの政治・経済の中心であるテルアビブの南に位置します。そこにタビタという女性がいました。「タビタ」はイエスさまが使われたアラム語で、ギリシア語では「ドルカス」といいました。ここに記されているように「かもしか」という意味です。そしてタビタについての評判が記されています。「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」。タビタはいろいろな人々の手助けをするだけではなく、経済的にも物心両面で支えていたようです。なかなかできることではありませ
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- 「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22 中村吉基
ヨナ書4:1-11;エフェソの信徒への手紙2:11-22※今日の音声は一部不具合があります、原稿で補いながらお聞きになってください。今日の箇所はエフェソ教会での話ですが、ここでは問題が深刻化していたようです。何が問題だったのかといいますと、最初はユダヤ人のクリスチャンばかりであったところが、キリスト教信仰が次第に広まって行くと、いわゆる外国人ここでは「異邦人」が教会に加わってくるようになりました。しかし、両者はなかなかうまくいきません。同じイエスに従って歩みを起こしている人たちには変わりありませんが、おそらく考え方やこれまでの慣習などが「キリストにおいて一つになる」ということを阻害していたと思われます。冒頭の11節からのところにはこのように記されてあります。だから、心に留めておきなさい。あな
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- 「主はあなたがたと共に」ヨハネ20:19-29 中村吉基
詩編118:14-29;ヨハネによる福音書20:19-29先週は主イエスのご復活を共に喜び、祝いました。復活の「事実」は信仰者の「眼」で、信仰のフィルターを通して見る以外に方法はありません。信仰というものは神秘に属するものです。分厚い神学書を1冊読んでも、あるいは高名な学者のお話しを聞いたからといって、分かったような気になる人が時々おりますが、本来はそのようなことで分かることではありません。聖書の中には、主イエスの復活の記事以外にも人間のいのちが神の力によって甦らされたエピソードがいくつもあります。その一つが、ヨハネによる福音書11章に描かれているラザロの物語です。亡くなって死体が墓に安置されて4日も経っていました。当然、人々は死体が腐敗しているだろうと思ったわけですが、神の力によって主イエ
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- 「ゆるしと愛への招き」ルカ15:11-32 中村吉基
ヨシュア記5:9-12;ルカによる福音書15:11-32https://yoyoue.jpn.org/wp2/wp-content/uploads/2022/03/20220327Preach.mp3今、私たちは受難節(レント)の旅を続けています。主日礼拝ではここ数週間「悔い改め」(私たちが神の側に向きを直す)をテーマにお話をしています。今日は、私たちの生き方や人生について考えてみたいと思うのです。私たちの人生は山あり谷ありです。今日の箇所は、「放蕩息子のたとえ」として、よく知られています。このルカによる福音書だけに見られる主イエスのたとえ話です。本来はこの箇所をじっくり読めば、礼拝で「説教」をすることなど必要ないかもしれません。ここに出てくるのは父親と二人の兄弟です。「放蕩息子」とはこのう

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
