「イエスに聴き従う」マタイ17:1-13 中村吉基

出エジプト24:3-11;マタイによる福音書17:1-13

出エジプト24:3-11;マタイによる福音書17:1-13

明日、私たちの上に何が起こるのかはわかりません。私たちの人生はしばし、旅のようにたとえられます。綿密に計画された旅ではなく、運命を天にまかせたような、そんな旅です。この旅の途中では実際に予期しないことが起こり、そのようなことが起こるごとに、私たちは自分の歩みを計画変更しなくてはならないことがありますし、そのまま進んでいくこともあります。それによってその後の人生は大きく変わってくることもあります。皆さんには時々、辛いこと、避けたいこともあるでしょう。では、私たちはいったい自分の人生において何を選択の基準にしたらよいでしょうか。

今日の福音は〈主の変容(変貌)〉の出来事を描いています。そして私たちが自分の一度限りの人生において誰に聞き従うべきなのか、ということを教えています。またそこで与えられる道には何が待ち受けているのかを教えます。

ここに入る前に先週私たちはマタイによる福音書の16章を礼拝で読みました。主イエスの一番弟子のペトロが、主のことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。実は先週の礼拝では取り上げなかったのですが、それに続く16:21のところから、それに続いて主イエスご自身が、もうすぐご自分が人々から苦しみを受け、エルサレムで殺されて三日目に復活をするという弟子たちにはじめて打ち明けています。主イエス自身がその口を通して十字架につけられ殺されて、そして甦られることをはじめてお語りになったのでした。その記事あとに今日の箇所の出来事に移ります。17章の1節以下からに聴いています。

主イエスは弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、山に登りました。この3人は主イエスがあの最後の晩餐のあとで、ゲツセマネの園に祈りに行ったときに主イエスの傍らに呼ばれた3人でもありました。十字架を目前にして避けることのできない苦しみにおののきながら、神のみこころに従って生きようと決断する主イエスのもとにいたこの3人でした。

1節「 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」。ここを読む限りでは3人の弟子を選んで山へ登ったように読めますが、この「だけ」という言葉は「3人の弟子とイエスの4人だけで」と読める言葉です。主イエスはしばしば世の中から退いて、山に行かれて祈っておられました。福音書のほかの箇所を見ると「ひとりだけ」で祈っておられた。それは人々から離れていたことも意味するでしょうけれども、「~だけ」という言葉の奥には神の御許に近づくと読むことが出来るのではないでしょうか。

山に登られた主イエスは3人が見ている前で光り輝くお姿に変えられました。古来より山は神が顕れる場と考えられていました。実際にモーセが一人シナイ山に登り、そこで神から十戒を授けられました。そして顔や衣が光り輝く姿というのは、旧約聖書の中にもよく出てきますが、神聖な、偉大なものが顕されるシンボルとして、また白い服というのは殉教を表しているとされています。主イエスの十字架の出来事を暗示しているかのようです。

何とも不思議な出来事です。主イエスのご生涯にはいろいろと不思議な出来事が起きています。またさまざまな奇跡を起こしておられます。それだけではありません。主イエスがお語りになった言葉にも不思議なものがあります。今日の主イエスの変容の箇所はその中でももっとも不思議であり、神秘的な出来事がここには記されています。これはファンタジーではない。弟子たちは夢やイリュージョンを見たのではないか? また主イエスがご復活なさった後の出来事を、まだ十字架にお架かりになる前の出来事としてここに入れたのではないか。とにかくこの出来事を私たちに納得がいくようにしようとする人達がいます。

しかし、ここに語られていることの真意は分からなかったとしても、聖書の中にこのエピソードが含まれていることには何らかの意味があるのでしょう。そのことをまったく無視することは出来ないのです。この出来事は主イエスが神と共に、弟子たちの前ではっきりとご自身を示された出来事でありました。

2節のところに「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」。とあります。旧約聖書の詩編、新約聖書のヨハネの黙示録などでは「太陽」はいきいきとしたいのちに満ち溢れる神をあらわすシンボルとして用いられています。変容される主イエスを通して主イエスの中に神が生きていらっしゃることをあらわしています。白い衣もそうです。こんな出来事を目の前にしたならば私たちは自分のけがれを思わせられるのではないかと思うのです。

しみやしわや一点の汚れもなく輝く神の〈いのち〉を目の前にするのです。それは弟子たちや、また私たちが住むこの世界とは程遠いものと感じてしまうのではないでしょうか。この世界は汚れ、疲れ果て、感染症が蔓延し、人は老いて力尽きていき、そして私たちもいつ死ぬか分からない……そんな世界です。

毎日食べていくために働き、そこでも人間関係やら煩わしいことが山積しています。私たちはこの社会のなかで心が擦り切れてしまっています。輝きに満ちた神の世界からは程遠い、諦めと忍耐に要求されるような世界です。

ペトロは主イエスにこんな提案をするのでした。4節のところです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を建てましょう」。ペトロはそこにいつまでもとどまっていたい……そんな気持ちであったのではないでしょうか。しかし、人間の思いと神のみこころは違います。心地の良い快適な場所(ここでは山の上)にいつまでも私たちがとどまるのではなく、苦悩と汚れのなかに満ちた現実の世界に下りてって、人々の中で神から与えられたいのちを生きなさいと言われるのです。

実はこの主イエスの変貌の出来事は、先ほども少し触れましたがモーセがシナイ山で神から十戒を授かる出来事によく似ているのです。出エジプト記の24章や34章をお読みになるとわかるのですが、神がモーセに呼びかけられたのは「6日の後」の7日目のことでした(出24:16)。そしてそれはシナイ「山」の上で起こったことでした(出24や34章に多数)。主イエスが弟子たちを選ばれて連れて行かれたようにモーセも兄のアロンをはじめ限られた人たちと山に登っています(出24:1)。その時、モーセの顔の肌が光を放っていたと書かれています(出34:29以下)。ここにも「雲が出てきます」(出24や34章に多数)。また「雲の中から声」(出24:16)が聞こえました。そしてその光景を見ていた者たちが「恐れて近づけなかった」ということが記されてあります(出34:29-30)。ユダヤ教、旧約聖書の中でも忘れてはならない出来事は、ヘブライ人の先祖たちがエジプトの奴隷からか意味によって解放されたということです。実は今日の箇所、主の変貌の出来事は、この十戒が授けられた際の出来事に重なり合う大きな出来事として福音書に記されていると言ってよいと思います。

さて今日の箇所の前の16章末尾のところで主イエスは弟子たちに、ご自分がエルサレムで苦しみを受けて殺されて、3日目に復活されることを打ち明けておられました。この山の上での変容の出来事の6日前のことでした。そして弟子たちにも自分の十字架を背負って従ってくるようにとお命じになられました。十字架を背負うというのは人々がひしめき合うこの世界で苦しみもすべて引き受けて生きなさいということなのです。そしてその苦難を先頭に立って引き受けられたのが主イエスの十字架でした。

ヘブライ人への手紙4章15節以下にこのような言葉があります。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。

私たちと同様に主イエスは苦しみを引き受けてくださったのです。私たちが苦しいときにも主イエスが一緒に苦しんでくださるのです。

主イエスが十字架での死を弟子たちに打ち明けたとき、弟子たちにとってみれば相当なショックであっただろうと推察します。不安とこれから主イエスと自分たちにはどんな出来事が待ち受けているだろうかと思うごとに身震いしていたことでしょう。そんな弟子たちに主イエスは自分が苦しみを受けて死ぬけれども、そのあとには復活をされて神から栄光をお受けになる姿をあらかじめ見せてくださったのが今日の福音の出来事でした。3人の弟子たちは雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた」とあります(5節)。皆さん、この言葉覚えているでしょうか? 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったときもこの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という同じ言葉を聴いておられます。神はここでもう一度この言葉を私たちに聞かせて、イエスはわたしの子、あなたがたに与える友であり、あなたがたに仕えて、また愛して、力を与えてくださる主である。このイエスに聴き従いなさい、と言っておられるのです。

私たちは人生の旅に迷ったとき、方向転換をしなくてはならないとき、立ち上がって旅を続けられないとき、受難の道を歩まれた主イエスに聴き従っていくように招かれています。私たちの人生の方向を示してくれるのは神の、主イエスのみことばです。それに聞き従うということは順風満帆なことだけではないでしょう。私たちの人生の旅にはさまざまな苦しみ、困難や試練や犠牲があります。しかしそこを通っていく先には神の永遠の祝福、永遠のいのちに向かう道です。このレントの期節、十字架を耐え忍ばれた主イエスを絶えず思い起こしながら日々を過ごしましょう。

主は皆さんにこう言われます。

「起きなさい、恐れることはない」。

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