啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(3)香炉に祭壇の火を入れ地に投げつける

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

  第七の封印が開かれた時、約半時間の間天に静寂が起こりました。(啓示8:1)その後、七人のみ使いが七つのラッパを与えられました。(啓示8:2)そして、別のみ使いが黄金の祭壇で多量の香を聖なる者たちの祈りと共に捧げました。(啓示8:3,4)

  そして、その別のみ使いは、黄金の香炉に火を満たして、地に投げつけました。(啓示8:4)今回は、香炉に火を満たして、地に投げつけたという部分について、主に解釈してみます。

(1)昔火と香をのせた火とり皿でアロンが贖罪をした

 この別のみ使いは、香炉に祭壇の火を満たします。そして、それを地に投げつけます。(啓示8:4)香炉を地に投げつけるとは何を意味するのでしょうか。

 この祭壇とは、香炉を用いて捧げるのですから、動物の犠牲を捧げる祭壇ではなく、香の祭壇です。昔、モーセの律法下では、香の祭壇では、火が燃やされていました。香の煙が証の箱の覆いを覆いつくすようするならば,祭司が死ぬことのないようにすることができました。  (レビ16:13)

 香炉を地に投げつけたとは何を意味しているのでしょうか。モーセとアロンの時代に、アロンがイスラエル人のために火取り皿に火と香を入れてイスラエル人の集会の人々のところに持って行って贖罪をしたことがありました。(民数記16:46)

 それが必要になったのは、次のような経緯からです。レビ人の子らとルベン人のダタン、アビラム、オンと一緒になってモーセとアロンの権威に逆らいました。(民数記16:3)レビ人は、エホバに奉仕することは許されていました。(民数記26:58)しかし、香を香の祭壇で捧げることだけは、アロンとアロンの子孫の祭司たちだけに許されていました。(民数記16:40)

 しかし、アロンの子孫でないよそ人がエホバに不敬に振る舞って、香を捧げようとしました。(民数記16:16-18)コラとその家族は、エホバの不興を買い、地が開いて呑み尽くされてしまいました。(民数記16:32)アロンの子孫でないのに香を捧げようとした二百五十人は、エホバの火によって滅ぼされました。(民数記16:35)

 しかし、イスラエルの集会全体はモーセとアロンに対してつぶやき,「あなた方は,エホバの民を死なせたのだ」と不平を述べました。(民数記16:41,42)これは神の憤りを引き起こすことになり,エホバからの神罰の結果として1万4,700人が死にました。(民数記16:49,50)

 それで、アロンはモーセの指示で民のために贖罪をしました。火取り皿に祭壇から火を取り,香を載せ,集会の人々のところに行って,贖罪をしました。(民数記16:46-48)神罰はアロンが民のために贖罪をした後でようやく止まりました。

 昔アロンは火の燃えた香を載せた火とり皿を

ささげて贖罪をした

(3)香炉に火を満たして地に投げつけるとは贖罪の行為

 モーセの時代には、祭司のアロンが、火とり皿に香をのせ火を満たして贖罪をしたわけです。そして、別のみ使いの持っていた黄金の香炉には、香が入っていて、そこに火を満たして地に投げつけました。これは、贖罪の行為なのではないかと思います。(啓示8:4)

 聖霊で油そそがれたクリスチャンがなぜ贖罪をしなければならないのでしょうか。天に半時間静寂が起きたことに示されるように、神の民に対する流血の迫害が起き、神への賛美の声が途絶えてしまいました。つまり、軍の君に対する常供のものが取り去られることになったと考えられます。(ダニエル8:11,12)

 モーセの時代にモーセとアロンに対する反逆が起きた時には、エホバの憤りが生じ、資格がないのに香をささげようとした250人とコラとその家族も命を失いました。また、おそらく疫病と思われますが、神罰がくだり、一万四千人が命を失いました。

 もし、そうであれば、神の民に違犯があったとしても、殉教した人の中には神の律法に忠実な人も含まれていると考えられ、それは、神のみ名に対する不敬ですから、キリスト教の本拠地が攻撃され、常供のものが取り去られたことは神の怒りと憤りを生じさせるでしょう。そのために、地の人が皆命を失ってもおかしくはないでしょう。

 しかし、最後の者のひとりが神に対して贖罪をするので、人々の命が守られることになるのでしょう。もし、贖罪をしなければ、大患難が即座に起きて、地の人は、誰一人生き残らないという結果になるのでしょう。

 しかし、キリストの「なだめの犠牲」については、「わたしたちの[罪]のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります。」とあります。(ヨハネ第一2:2)イエス・キリストは、天的な希望を持つクリスチャンと地的な希望を抱くクリスチャンたちのために贖いの犠牲を捧げられました。イエスは天の大祭司という立場にあります。ヘブライ書の中ではイエスが大祭司の立場にあることが、何度も明言されています。(ヘブライ2:17;3:1;4:14;5:10;7:26,28)

 祭司級のクリスチャンはイエス・キリストの仕事を補佐します。ペテロは、「彼のもとに来て,自らもまた生ける石となって聖なる祭司職のための霊的な家に築き上げられてゆくのです。」と述べており、天的な希望を持つイエスの弟子たちが生きている間祭司職をになうことを述べています。(ペテロ第一2:4,5)それで、天的な希望を持つクリスチャンは、そのキリストの贖いの犠牲が適用されるために、神と人々の間の仲介をして、神をなだめる仕事をするようです。

 ですから、香炉に祭壇の火を満たして、地に投げつけるという「別のみ使い」の行為は、地のための贖罪の行為であるようです。(民数記8:19;15:28;16:46)ですから、この「別のみ使い」は、聖霊で油そそがれたクリスチャン、昔のアロンの祭司で予表されていた祭司級のクリスチャンです。

 そして、火と香をいれたものを地に投げつけることによって、昔アロンがしたように、地の人々のために神をなだめているものと思われます。ですから、別のみ使いは、キリストの贖いの犠牲に基づいて全世界の罪と聖霊で油そそがれたクリスチャンの罪の許しを求める祈りを捧げるのでしょう。

(4)イエスとイエスの弟子たちは大患難がすぐに起きないように努力を払う

 さらに、全世界の人々に、神の律法に違反しないように教える必要があります。一世紀に、イエスは、当時のイスラエル人を教える努力をさらに一層払うので、当時のイスラエルをすぐに滅ぼしてしまわないようにエホバ神に頼まれたことがありました。(ルカ13:6-9)それでイエスは一世紀の大患難がすぐに到来しないように、とどめる働きをしました。イエスが話されたたとえ話は次の通りです。

 ある人がぶどう園に一本のいちじくの木を持っていました。それで,それに実があるかと見に来ましたが,一つも見つかりませんでした。そこで、その人はぶどうの栽培人に、「これを切り倒してしまいなさい 」と言いました。土地が無駄になっていると考えたのです。

 ぶどう栽培人は、「それを今年もそのままにしてやってください。いずれ周りを掘って肥やしをやりますから。それでこれから先,実を生み出すようでしたら[よろしいですし],そうでなければ,切り倒してしまって結構です」と言いました。(ルカ13:6-9)

 それで、イエスを初め、当時の聖霊で油そそがれたクリスチャンの奉仕者は、いわば果樹の栽培人でした。果樹に肥やしをやる仕事をしています。地の人々に神の律法を教える仕事をして神の僕を育てる仕事をします。(マタイ28:19,20)

イエスや聖霊で聖霊で油そそがれたクリスチャンはいわば果樹に肥やしをやってクリスチャンを育てる仕事をする

 

 ぶどう園の所有者は、いちじくの木を切り倒そうと思いましたが、イエスのたとえ話のぶどう栽培人はそれをなだめました。それで、イエスに見倣うクリスチャンの奉仕者は、大患難をとどめる働きをします。エホバ神をなだめることによって、大患難の日の到来が遅くなるようにしているのです。そして、もし、神のみ言葉を教えられた人々が実を結ぶクリスチャンになれば、その人は救われます。大患難の時に命が守られます。

 それで、神の律法の違反があり、神の律法を教える神の民の殉教が起きているのであれば、エホバ神が即座に地の人々を滅ぼし絶やしても当然ですが、別のみ使いの贖罪の行為のために、地の人々の命が奪われることが容赦されます。おそらく、大患難の到来が延びるのではないかと思います。もし、このみ使いがそのような贖罪をしなければ、地の人々は、即座にみな命を奪われてしまったでしょう。

 それで、これから七人のみ使いがラッパを吹くことによって、人々は、神の憤りを受けて命が奪われないように守られます。七人のみ使いは、地の人々が死なないようにエホバ神の見方を知らせます。いわば、人々に肥やしをやる業を行なうのでしょう。

七人のみ使いは神の見方を発表していわば人々に肥やしをやって人々が生き延びるように助ける

 

 イエスも、聖霊で油そそがれたクリスチャンが人々の命を守る働きをすることを次のように述べました。「実際、その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。」(マタイ24:22)

 それで、今はどのようにそのようにされるかは十分には理解されていませんが、選ばれた者たちのゆえに、大患難の期間が短くなり、肉なる者がすべて命を失う事態が回避されるとイエスは、説明されました。

 今回は、香炉に火を満たして地に投げつけたという部分について初めて解釈してみました。(啓示8:4)初めての解釈は、いくらか自信がないので、この部分はまた再考してみます。 

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