「すぐに従った」マタイ4:18-25 中村吉基

エゼキエル書2:1-3:4;マタイによる福音書4:18-25

エゼキエル書2:1-3:4;マタイによる福音書4:18-25

私たちはいったい何のためにこの世に生まれ、生きているのでしょうか。 そしていったい私たちはどこへ向かっているのでしょうか。また一生の間に何を成し遂げていくでしょうか。 

皆さんはこのようなことをお思いになったことはあるでしょうか。私たちは偶然に存在しているわけではなく、神のご計画の中に一人ひとりの人生が組み込まれているのです。誰か一人欠けるならばその計画は実現しないほど緻密に皆さん一人ひとりが神に必要とされています。そして神が願っておられることを私たちのうちに実現させてくださるのです。エフェソの信徒への手紙1章11節にパウロはこう書いています。

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。

今日、私たちが聴きましたマタイによる福音書の前の段落には、クリスマスの時によく読まれるイザヤ書9章1節の引用がされています。「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4:16)。救い主イエス・キリストはこの時、ガリラヤに来て住まわれるようになりましたが、そのガリラヤの民衆=ローマ帝国の重税に苦しみ、貧困に喘いでいた人たちです=にとってはまさに希望の光そのものでありました。そして主イエスは「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』(17)と言って、宣べ伝え始められた」と記されていますようにいよいよ神の国の到来を告げ始められました。

さて、今日はイザヤが告げたイエス・キリストという「大きな光」を見て、自分自身の人生に「光が射し込んだ」経験をして、すぐさま人生を賭けて主イエスに従っていった4人の漁師の行動に特に学びたいと願っています。今日の箇所の中では18節から22節に区切られているとても短い箇所です。ここに2組の兄弟が登場します。まず18節に、のちにペトロと呼ばれるようになったシモンとアンデレの兄弟、そして21節にはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが出てきます。この2組の兄弟への主イエスの接し方は同じであると言ってよいでしょう。ここで共通することがあります。18節から読んでみましょう。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、後にペトロと呼ばれることになったシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

少し先の21節にはこうあります。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

主イエスのこの2組の兄弟に対する接し方は、「御覧になって、お呼びになる」というものでした。主イエスはガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレ、またゼベダイの子ヤコブとヨハネを「御覧に」なっていました。そしてそこを静かに通り過ぎることも出来たはずです。しかし、彼らにお近づきになって、お言葉をかけられました。それが「わたしについて来なさい」という言葉でした。

そしてこれに応えた4人の漁師たちの行動も一致しています。それは「すぐに従った」のです。シモンとアンデレは20節「二人はすぐに網を捨てて従った」。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも22節「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。“網を捨てる”とか“舟を残す”という言葉は、それまでしていた仕事を捨てたということです。そして「残して」というより、原文のニュアンスは「父親を棄てて」とあるのですが、家を出て、家族も故郷に残して主イエスに従った人たちでした。

では、私たちが同じような状況に立たされたならばどうするでしょうか。
きっと、
「どこに行くのか」
「何をするのか」
「なぜ自分たちが従わなければならないのか」
あるいは
「○○をしてくれるならば、ついていってもよい」
というように条件をつけるかもしれません。

しかし、この4人の漁師は一切質問をすることもなければ、説明を求めることもありませんでした。ましてや条件をつけるなどということもありませんでした。ためらったり、弱音を吐くこともありませんでした。

ではいったい、主イエスは来られたその時、何が起こったのでしょうか。4人はその時、主イエスを通して「神」を見たのです。4人が神に会おうとしてどこかに行ったのではありません。神の側から彼らに近づいて来られました。シモンたちは主イエスのことをすでにどこかで、あるいは噂で知っていたか、知らなかったかということはここから読み取ることは出来ません。

けれども、彼らが主イエスを一目見ようと近づいていったのではなく、主イエスが近づいて来られた。これは神の愛、神のみ姿をよく表しています。私たちの神はどこか大きな神殿に拝みに行かねば会うことができないとか、高い山の頂上まで登って初めて拝むことが出来うる神ではありません。常に私たちと共にいてくださり、私たちの側に立ってくださる神――その神にシモンたち4人の漁師は出会うことができたのです。

今日の物語は、マルコによる福音書1章にもほぼ同じような形でマタイよりも先に記され、ルカによる福音書5章には少し違う観点で書かれています。ルカ福音書は、マルコやマタイの形を少し膨らませたというか、詳述しているような記事ですけれども、そこではシモンたちが夜通し漁をしたけれどもついに一匹も魚を獲ることができなかった、というエピソードが記されています。彼らプロの漁師にとってこんなに「手痛い」ことはなかったはずです。落胆し、おまけに疲れ果てて網の手入れをしている時に主イエスは現われました。そしてシモンの舟を借り、湖の上から岸にいる人たちにお話しをされました。このカファルナウムのあたりというのはなだらかなすり鉢状になった丘が続いています。当時はマイクもスピーカーもない時代だったわけですが、湖のほうから話しかけられるとよく声が響き渡ったのでしょう。そしてそれから主イエスはシモンたちにもう一度漁に出ることを提案します。シモンたちプロの漁師とちがって主イエスは漁に関しては素人です。きっと彼らにとっては半信半疑か、半ば言われるがままで、再び網を降ろしてみたところ、その網が破れるほどに大漁に恵まれたというのです。

そして主イエスは彼らに「人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは従った、といずれの福音書も告げています。3つの福音書がいずれも特筆しているということは最も読者に伝えたい言葉であり、大切な主イエスの言葉でもあります。

「人間をとる漁師」という表現を私たちが耳にするときにグロテスクな、あるいな奇異な印象を受けないでしょうか。しかしこれはシモンたちがこれまでしてきた「魚を捕る漁師」とは本質的に違うのです。「魚を捕る漁師」は魚を食べるために捕ります。またそれを提供して代価を得るために捕るのですが、一方で「人間をとる漁師」は、人間を食べるために、あるいは自分たちの糧を得るために売り渡すのでもないのです。主イエスの福音、それは人間に永遠の命を得させるために、イエス自身を与えて、人間を生かすためにとるのです。それによって得た人を誰かに売り渡すのではなく、死からいのちへと買い戻すためにとるのです。

シモンたちは一匹も魚を獲ることが出来なかったどん底の気持ちから、再び試みて、大漁を得たのです。主イエスにはきっと何か神の力が宿っているに違いない、このお方に従うならば、自分たちももう一度喜びをもって何かが出来るに違いない。そのように確信したことでしょう。それで彼らは「すぐに従った」のです。シモン、後のペトロたちは主イエスの最初の弟子となりました。

このイエスというお方に賭けてみよう! イエスとともにもう一度自分の人生をやり直してみよう! とシモンたちはいきいきと新しい歩みを始めました。

この話を皆さんの人生に当てはめて少し考えてみることにします。もしかしたら、今、主イエスが来られる前のシモンたちのようにあきらめや絶望のなかに過ごしている人はいないでしょうか。

この中に「先週、一生懸命やったのに、何にも結果が出せなかった」と落ち込んでいる人はいないでしょうか。心がふさぎこみ、頑なになり、「これ以上やっても先は見えている」ともう動き出すこともしない自分ではないでしょうか。しかしシモンたちは違っていました。主イエスに言われ舟を出してもう一度漁をしてみました。このお方に従っていけば何かが変わるに違いない、からこそ「すぐに従った」のです。ここから彼らが決して自分の人生を諦めてはいなかったことを窺い知ることができます。

主イエスはいつも私たちの生活の場、皆さんのお家や職場や学校にご自身から近づいて来られます。主イエスは皆さんのことを「御覧になって、お招きくださっている」のです。しかし、私たちはさまざまな理由をつけて、さまざまな口実を挙げて、主イエスの呼びかけを遮ってしまっているのではないでしょうか。主イエスは皆さんのところに今日も来られています。

私たちは
「時間がない」
「忙しい」
「待っていることができない」
「考えられない」・・・・・・などなど
「また、あとで」と主に返答していないでしょうか。
そうしてせっかくの主イエスの呼びかけを後回しにしてしまっているのではないでしょうか。

今日の箇所から

「すぐに従った」

このシモンたちの行動に倣いたいものです。

私が毎日聖書を読むときに黙想に使っている書物の中にこのようなエピソードが出ていました。

自分の経営する養鶏場で100羽のニワトリとともに2羽のガチョウの雛が育っていったそうです。この2羽のガチョウは自分たちをニワトリだと思っていたかもしれなかったのでした。ある時、この2羽を池に放したところ最初は喜んで泳いでいたものの、かたわらに聞こえるニワトリの声が気になり、ほどなくニワトリの小屋に帰ろうとしました。何度この2羽を池に戻しても馴れ親しんだニワトリの社会に戻ってしまうのでした。この黙想では私たちも新しい世界に、あるいは新しい道に踏み出そうとしてもすぐに後ろを振り向いてしまうことを指摘していました。しかし、神は豊かな喜びの中に、私たちがいきいきと歩むことの出来る道を備えておられるのです。

主は今、皆さんを御覧になって、招いておられます。

「わたしについてきなさい」。

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