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- 光の中を歩む
⇒光の中を歩む 昨年92歳で他界した詩人・栗原貞子さんに生ましめんかなという詩がある。 こわれたビルデイングの地下室の夜だった/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめていっぱいだった/生臭い血の臭い 死臭/汗臭い人いきれ うめきごえ/その中から不思議な声がきこえてきた/赤ん坊が生まれると言うのだ/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 原子爆弾で焼かれた被爆者たちのうめき声と生臭い血の臭い、それに死臭で満ちた真っ暗な地下室。そこで急に産気づいた若い女性。どうしたらいいのだろうと途方に暮れる人々。これこそ正に闇である。 だが、栗原さんの詩は続く。 と『私が産婆で
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- 祝福を受け継ぐために
⇒祝福を受け継ぐためにイザヤ書5,8-17;この手紙は、第1世紀の終わりごろ、小アジア(現・トルコ)の諸教会で回し読みされた回状である。著者はイエス・キリストの使徒ペトロ(1章1節)と名乗っているが、恐らく別の人が何らかの理由でペトロの名を借りて書いたらしい。それはともかく、今日は、この手紙が各地に離散して仮住まいをしているキリスト教徒を励ますために書かれた、という点に注目して考えてみたい。当時、キリスト教徒は、圧倒的に強大なローマ帝国の支配下で暮らす少数者で、さまざまな苦難に遭っていた。皇帝礼拝も要求された。日本の植民地統治下で神社参拝を強要された朝鮮キリスト者の状況がこれに似ているかもしれない。そのような苦難を、私たちはこの手紙の至る所で読み取ることができる。あなたがたを試みるために身に
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- 家族と復活
⇒家族と復活創世記27,30-37;I 私たちの多くが、生活の最も基礎的な部分を、家族とともに過ごします。夫婦・兄弟姉妹・親子の関係は、おそらく人間にとって永遠のテーマです。しかも、家族との生活が決して簡単なものでなく、いろいろな問題の生まれることがあることは、旧約聖書の最初の書物である『創世記』を見ても分かります。 人類最初の夫婦であるアダムとエヴァは、互いに愛しあう存在です。しかし禁令を破ったアダムは、神に問いつめられると、あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました(創世記3,12)と言って、責任をエヴァ(と神)になすりつけたのでした。アダムとエヴァには、息子が二人います。カインとアベルです。そして人類最初の殺人事件は、この二人の兄弟の間で起こっ
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- ガザへ下る道
⇒ガザへ下る道イザヤ書53,6-10;聖霊降臨という出来事の後、信徒たちの群れは急速に成長し、それに伴って種々の具体的な責任が生じた。そこで、初代教会は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」(使徒言行録6章3節)を7人選んでそれに対処させた。今日の所に出て来るフィリポはその内の1人である。7人の筆頭メンバーであったステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでは迫害が起こって信徒たちは各地に難を避けたが、フィリポは一旦サマリヤへ行ったらしい。その後で、26節以下に記されている出来事が起こったのである。最初に、「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)とある。この「ガザ」という地名に注目したい。ガザは、エルサレム
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- 同じ愛を抱く
⇒同じ愛を抱く列王記下4,42-46;『新共同訳』では、フィリピ書2章1節は「あなたがたに、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心が」となっている。幾らかでも・・・があるなら」という言い方は、多くの場合、次のように理解されるのではないか。すなわち、誰でもクリスチャンならば、仲間を励ましたり、愛の心で慰めたり、心で交わったりすることが出来る筈だ。あなた方もそのような美徳を幾らかは持ち合わせているに違いない。だから、この「幾らかの」可能性を活かして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たす」べきだ、という風に。むろん、この理解も間違いではない。だが、佐竹明氏の解釈は少し違う。彼は、例えば「キリストによる励まし」を、私たちの
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- 善をもって悪に勝て
⇒善をもって悪に勝て詩編 34,12-15; イスラエルのレバノン攻撃のことで、先週は毎日心を痛めていた。その中で平和聖日を迎える準備のために何冊かの詩集を読んだ。そして、考えた。今の時代に必要なのは、これら詩人たちの鋭い感性ではないか。人を殺すことにすっかり鈍感になってしまった政治家たちや軍人たち、そして、あれほどの戦争の惨禍を忘れてしまったかのように今また戦争への道を走り始めているこの国の人々に、せめてその何十分の一かの感性があったら!と思わずにいられない。 原民喜の『夏の花・心願の国』(今日の週報参照)や、茨木のり子の『鎮魂歌』などにも胸を打たれたが、特に宗左近の長編詩『炎える母』が印象に残った。 宗左近は、その頃はまだ東大に籍を置く26歳の青年であった。空襲で焼け出され、母と一緒
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- 諸国民の預言者
⇒諸国民の預言者; エフェソの信徒への手紙4,25-32 エレミヤは紀元前7世紀の半ばから6世紀の初めにかけて活躍したユダヤの預言者である。今日読むエレミヤ書1章4-10節はエレミヤの召命という所で、ここを注意深く読めば、彼がいかなる預言者であったかということが分かる。先ず、神はエレミヤに語りかける。わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた(5節)。彼が預言者になるということは、神が永遠の昔から定めておられた必然の道であって偶発的な出来事ではない、ということであろう。このような声が実際に天から聞こえてきたわけではないだろうが、人は人生の重要な転機に直面した時、内面に強い促しを感じることがある。パウロが
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- 平和への道
⇒平和への道この美しいいい国には、花もあるし、木もあるし、ちょうちょもいるし、なんでもあります。この国にほしいのは、ただひとつ、平和です。わたしは、それがほんとにほしい。どうして平和にならないの、お母さんにきいても、こたえません。ただ、わたしのあたまをなでるだけ。テロのニュースをきくと、私は不安で、気分が悪くなる。だから、お母さんにきかないではいられません。いつ平和になるのって。わたしは、平和になる日をまっています。わたしは呼んでみます。平和さーん、きて、きてーっ呼んでも呼んでも、平和はなかなかやってきません。バット・ヘンちゃんのご両親は、娘の夢に促されるように、やがてパレスチナとイスラエル双方の遺族の会に参加します。彼女のお母さまは、ヒロシマを訪れておられます。彼女はひとつのシンボルを私た
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- わたしは主、あなたの神
⇒わたしは主、あなたの神;ルカ福音書1,68-79I 現在の日本は、周辺のアジア諸国との間で、ナショナリズムの問題を抱えています。靖国神社の境内には、国のために命をなげうった人に敬意を示すのは国民の責務です。生まれた国を大切にするのは当然でしょうと語る若者がいます。首相の靖国参拝に対して、中国や韓国をはじめとするアジア諸国から抗議と懸念の声があがると、内政に対する不満をごまかすために、反日をはけ口にしているだけ。ありもしない事実をもとに、日本に謝罪をもとめるのはやめて欲しいという反応が返ってきます(朝日新聞2006年8月22日、愛国を歩く・上より)。 私たちは自分たちと民族ないし国家との関係を、神との関係において、どう理解すればよいでしょうか? 有名なモーセの十戒の冒頭部分をとりあげて、イス
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- 自立する人
⇒自立する人イザヤ書42,1-7; 聖霊降臨の出来事があってから間もなくのことである。ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って(1節)行くと、美わしの門の傍に一人の男が運ばれて来るのに出会った。4章22節によれば、この人は40歳を過ぎていたというから、普通なら働き盛りである。だが、生まれながら足の不自由な人であったので、人に頼んで毎日門のそばに置いてもらっていた。神殿の境内に入る人に施しを乞うため(2節)である。午後3時の祈りの時というのは、敬虔なユダヤ教徒たちが大勢この門を通って境内に入って行く時間帯である。しかも、マタイ福音書6章にあるように彼らにとって施しと祈りと断食は信徒の大切な義務とされていたから、その頃そこに座ってさえいれば、かなりの施しが期待できたわけだ。 若い頃の私
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- カインの末裔
⇒カインの末裔;ルカ 3,7-14 カインとアベルの物語は文学者の創作欲を刺激するとみえて、いくつかの作品がこれに基づいて書かれた。有島武郎の『カインの末裔』もその一つである。 この小説は、1918年(大正7年)に発表された。北海道の貧しい小作農の苦しみを描いたものだ。有島はキリスト教徒で、自分は父から相続した広大な土地を所有しているから働かなくても安楽に暮らせる。だが、額に汗して働く農民は一生貧乏から抜け出せない。この現実に、罪を感じていた。だから、創世記のこの物語を読んで、カインは土を耕す者となった(2節)という所に心を惹かれたのかもしれない。また、神はカインとその献げ物には目を留められなかった(同)とある。農民の報われない辛さを、有島はここに見出したのであろう。さらに、土を耕しても、土
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- キリストの日に備えて
⇒キリストの日に備えてホセア書 10,12; この礼拝は、今日の午後から多摩センターで行われる教会カンファレンスの開会礼拝を兼ねている。それ故、それに出席できない方々も、こういう形でカンファレンスに参加していることになる。 さて、今年のカンファレンスの総合テーマは、この世に生きて働く教会、副題は現代の諸問題と代々木上原教会の未来である。これをさらに平和・環境・子どもの未来という三つの具体的な問題に絞り、グループに別れて話し合うことになっている。そこで、話し合いに十分な時間を確保するために、教会だより56号に掲載された発題内容を予め各自が読んでくることにした。参加できない方も、これを読んで問題意識を共有して頂ければ嬉しい。 私自身も、これらの発題を読んでいろいろ教えられた。 先ず、平和の問題に
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- 平和と安全
⇒平和と安全憎しみのあるところに 愛をいさかいのあるところに ゆるしを分裂のあるところに 一致を疑いのあるところに 信仰を誤りのあるところに 真理を絶望のあるところに 希望を闇に 光を悲しみのあるところに よろこびをもたらすものとしてください信仰愛希望という言葉は、ゆるし一致真理光よろこびといった言葉とともに、わたしを あなたの平和の道具として お使いくださいという祈りの中に現れます。これは、憎しみいさかい分裂疑い誤り絶望のあるところ、つまり闇にとらわれた世界の現実に、クリエイティヴな仕方で関わってゆくことを求める祈りです。Vこうしたパウロの姿勢は、おめでたい理想主義に過ぎないのでしょうか。いいえ、創造的な生き方こそ現実的であると考えてよい根拠について、最後にパウロはこう述べます。神は、わた
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- 神がお造りになったもの
⇒神がお造りになったもの だが、新約聖書の時代には、食は別の意味で問題にされていた。たとえば、ユダヤ教徒やイスラム教徒の間では――これは今日に至るまで変わらないが――宗教的な教えに従って豚肉は禁忌(タブー)だった。他にもいくつか食べることを禁じられた物がある。初代のキリスト教会はこのタブーからは概ね自由になっていたが、それでも、食の問題がなかったわけではない。たとえば、偶像を祀った神殿が市内各所にあり、そこではいろいろな動物が犠牲として捧げられる。祭儀が済んだ後、その肉は払い下げられて市場に出回る。その肉を、偶像崇拝を斥けるキリスト教徒が買って食べることは許されるだろうか? 偶像に供えられた肉を食べてもいいものだろうか? これは当時のクリスチャンにとっては意外に大きな問題だったらしい。食べる
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- 働きに報いて下さる神
⇒働きに報いて下さる神;ローマの信徒への手紙 10,5-13 と、の間には、時代背景や思想内容に関して明らかな違いがある。そこで、1-39章を第一イザヤと呼び、40-55章を第二イザヤと呼んで区別するのが通例となっている。そして、今日の説教テキストであるイザヤ書49章は、第二イザヤの言葉である。 第二イザヤは、紀元前6世紀に活動した預言者であった。539年にペルシャのキュロス王はバビロニアを滅ぼし、ユダヤの捕囚民を解放したが、その頃のことである。だから、第二イザヤは慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる(40章1節)という言葉で始まる。苦役の時はいまや満ち、彼女の咎は償われた(2節)。解放を経験した人でなければ語れない、喜ばしく力強い言葉だ。このような美しい言葉を、彼は多く語った
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- 信仰と行為
⇒信仰と行為イザヤ書 1,11-17; 『ヤコブの手紙』は紀元1世紀の終わりか2世紀の初め頃に、パレスチナ以外の各地に離散して暮らすキリスト者に宛てて書かれた手紙と言われている。1世紀の終わり頃だとすれば、イエスの十字架と復活というあの大きな出来事から60年か70年ぐらい経った時期である。多くの人々の心の中には、主イエスの記憶はまだ生き生きと息づいていたに違いない。私たちの経験に照らしてみてもそう思える。記憶には個人差があるから一概には言えないが、私と同じ年配の方々にとって、たとえば61年前の敗戦の記憶はまだ鮮明に残っているのではないだろうか。 ヤコブは今日の箇所で、教会の中でイエスの記憶がまだ薄れてはいない筈なのに早くもある傾向が現れたことを憂えている。1節で主イエス・キリストを信じながら
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- 野の花、空の鳥
⇒野の花、空の鳥 今日の音楽礼拝のテーマは収穫感謝である。しかし、この主題は、大都会で生きる私たちには実感が薄いかもしれない。お百姓さんのように土を耕し・種を蒔き・天候に一喜一憂しながら収穫を待つ、というような暮らしとは通常は無縁だからだ。せいぜいスーパーに買い物に行って新米が出たと言っては喜び、新鮮な旬の野菜を見つけては上機嫌になるくらいだ。松茸を見るのも嬉しいが、今年は北朝鮮からの輸入が禁止されたために高値だという。尤も、いつもの年でも滅多には買えないが。梨・林檎・ぶどう・柿・栗などの果物も、今、美しい。自然に感謝の心が湧いてくる。人類が森の木の実を集め・狩猟をして生活していた頃から、収穫感謝はどこでも行われていた秋の重要な儀式であった。アイヌの人々は、この習慣を今に伝えている。もう少し
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- 自分は神など恐れない
⇒自分は神など恐れないIいつの世にも、不義や不正はあります。最近では、ある県知事が、会社社長の弟とグルになって、県の公共工事にからんで建設業者から多額の賄賂を受けとってきたことが発覚しました。全国の400あまりの高等学校では、大学進学の実績を上げるために、卒業には必要だが受験には不要な科目を、あたかも履修したかのように見せかけた成績証明書を偽造してきたそうです。不義や不正を疑われた者には、釈明が要求されます。もっとも、きちんと釈明して謝罪することは容易ではありません。民間企業のさまざまな偽装事件の記者会見を見ると、世間をお騒がせして遺憾に思いますに始まり、知りませんでしたお答えできません私たちの方こそ被害者ですに終わるものが少なくありません。本当に謝罪しているのか、それとも言い訳、隠蔽、責任
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- 天に積む富
⇒天に積む富イザヤ書65,17-19;最初に、週報の裏面に印刷した名簿について説明しておきたい。これは基本的には、1997年に上原教会とみくに伝道所とが合同して代々木上原教会になってから天に召された教会員(及びそれに準ずる方々)の名簿である。合同前のことも忘れるわけには行かないが、上原教会のほうは赤岩先生の下で戦前も長く活動してきたので、全部のお名前を書くことは難しい。そこで、現在の私たちと特に関係の深い方々のお名前に限らせて頂いた。加藤愛子さん(1995年没)から上がそれである。合同前のみくに伝道所の二人のメンバーも、ここに入る(黒川弘さんと田宮信子さん)。黒川輝さんから下が、両教会合同後に召された方々である。なお、名簿の最後に、教会員ではない福岡洋介さんのお名前がある。この方は陶山先生の
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- 平和の計画
⇒平和の計画;ヘブライ 11,13-16 初めに、エレミヤ書29章の時代背景について簡単に述べておこう。 紀元前597年に新バビロニア帝国の王ネブカドネツァルは、ユダ王国の都エルサレムを攻めて占領した。列王記下24章10-17節によれば、バビロン軍は神殿や王宮の宝物を根こそぎ略奪し、ヨヤキン王を捕らえて、その母親や王妃たち、家臣・高官・有力者たちと共にバビロンに連行した。軍人7000人、職人と鍛冶1000人、勇敢な戦士の全員も捕囚となった。これが1回目のバビロン捕囚である。 預言者エレミヤは、この時エルサレムに残った。同じく残留した人々の中には、ハナンヤという預言者の煽動に乗ってゼデキヤ王を担ぎ、反バビロン運動を起こしたグループがあった。彼らは捕囚となったある人々と連繋してバビロンへの反逆を

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
