平和と安全

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

平和と安全

憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑いのあるところに 信仰を
誤りのあるところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに よろこびを
もたらすものとしてください

信仰愛希望という言葉は、ゆるし一致真理光よろこびといった言葉とともに、わたしを あなたの平和の道具として お使いくださいという祈りの中に現れます。これは、憎しみいさかい分裂疑い誤り絶望のあるところ、つまり闇にとらわれた世界の現実に、クリエイティヴな仕方で関わってゆくことを求める祈りです。

V

こうしたパウロの姿勢は、おめでたい理想主義に過ぎないのでしょうか。いいえ、創造的な生き方こそ現実的であると考えてよい根拠について、最後にパウロはこう述べます。

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。(9-10節)

怒りとは本来神の怒り、つまり最後の審判における呪いの判決を意味します。他方で、怒りは私たちの中にもあります。とりわけ自分よりは弱いはずの人々が自らの権利を主張するとき、あるいは社会から保護を受けたとき、こうした人々に対して、天井知らずの権利を主張する奴らは許せない。オレたちだって必死にがんばってるんだと、社会の中で大きな怒りが噴き上がるのです。怒りのほこ先は、例えば外国籍の人々、女性たち、シングルマザーであったり、同性愛者たち、障がい者、ホームレス、あるいは生活保護や介護保険の受給者たちであったりします。背後にあるのは、大きく流動化した社会における、自らの身の安全に対する不安です。

そのことを思うとき、神は、わたしたちを怒りに定められたのではないという発言は、いっそう含蓄に富んでいます。私たちは神の怒りの裁きに渡されているわけでもなければ、他者に対して怒りで反応すべく定められているわけでもない。むしろ神から罪赦されて、この世界に向かって信仰と愛そして希望(8節)で応えるよう招かれています。

主イエス・キリストによる救いとは、私の身の安全を案ずるが故の不安や、他者に対する怒りからの救済でもあるに違いありません。そのことが納得できて初めて、私たちは目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになることができるようになるのだと思います。

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Emmanuel

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