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顔は太陽のように輝き

⇒顔は太陽のように輝き村上 伸出エジプト記34,29-33;今日読んだマタイ福音書17章には、山上の変貌と呼ばれる不思議な出来事が記されている。主イエスが3人の弟子を連れて高い山に登ったとき、その姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(2節)というのである。一体、この記事は何を私たちに語りかけているのだろうか。今日のテキストには、この謎を解く鍵になるような言葉がいくつかある。最初の鍵は、イエスがその時、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて(1節)いた、という言葉である。よく知られているように、イエスは大勢の弟子の中から12人の使徒を選んだが、その名簿の真っ先に出てくるのがペトロとヤコブとヨハネだ(10章2節)。ここからも、この3人がイエスの宣教活

私たちの誇り

 預言者エレミヤの言葉。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな(エレミヤ書9章22節)。 知恵ある者とは、生半可な知識をひけらかす小賢しい人のことではない。マルチン・ブーバーはこれを賢者と訳した。本当に聡明で賢い人のことである。次の力ある者も、単なるマッチョではない。ブーバー訳では英雄である。真に勇気ある英雄のことだ。富については、改めて説明する必要もないであろう。 賢明さと英雄的な勇気と富――これらを自らのものとすることは多くの人の願いである。その目標が達成されたとき、人はそういう自分を誇らしく思っても良い筈である。ところがエレミヤは、それらのものを誇るなと言う。それらが誇るに値しない・つまらないものだからではない。むしろ、反対である。誇るに

自分の家に帰りなさい

⇒自分の家に帰りなさいI今日のテキストは、有名なゲラサの悪霊憑きの癒しの物語です。このテキストのあるドイツ語訳を読んで、思わずぎょっとさせられました。三節のはじめこの人は墓場を住まいとしておりという箇所です。私はこれまで、この人は墓石の間をうろうろ歩いたり、傍に植えられた樹のたもとで眠ったりしていたのだろう、と勝手にイメージしていました。しかしそのドイツ語訳には、彼の住居は墓の洞穴の中にあった/Der hatte seine Wohnung in den Grabhoehlenとあります(Die Evangelien. Die Psalmen, Zuercher Bibel, Fassung 1996)。この訳は確かに可能です。すると、このゲラサ人は、墓地として使用された山の洞窟の暗がりの中

弱いときにこそ強い

 この手紙を書いたパウロは、主イエスの生え抜きの弟子ではない。徳川時代に譜代大名と外様大名があったというが、この言い方をもじれば、パウロは外様の弟子である。回心する迄はイエスの弟子たちを迫害する側の代表人物であったし、回心して弟子になったのも、イエスの死後になってからである。そんなこともあって、彼はしばしばいかがわしい人間と見られた。 それに比べてペトロ、ヤコブ、ヨハネを初めとする12人の使徒たちは、イエスがガリラヤで宣教を始めた当初から付き従って苦労を共にした、いわば譜代の側近、生え抜きの弟子である。もっとも、彼らにしてもイエスに対する理解は十分とは言えなかったし、イエスが十字架につけられるときには、皆、彼を見捨てて逃げてしまったから、偉そうなことは言えない。だが、甦った主イエスに出会って

今や、恵みの時

⇒今や、恵みの時 今日の箇所の初めのほう、2節で、パウロはイザヤ書49章8節のわたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けたという言葉を引用している。わたしとは主なる神ヤハウエのことであり、あなたとはイスラエルの民を指す。バビロン捕囚からの解放という歴史的な出来事(紀元前539年)を経験した預言者・第二イザヤは、神の恵み深い歴史介入について語ったのである。 何百年も前の預言者の言葉を援用して自らの信じるところを展開するというやり方は、なにもパウロに限ったことではない。新約聖書の至る所に見られる特徴である。そして、それは、聖書を書いた人々の心の中に、民族の記憶ともいうべきものが脈々と受け継がれていたことを物語っている。 民族の記憶といっても、この国の政治家たちがしばしば語るような、独

不思議な神の業

⇒不思議な神の業I聖書は、神と歩んだ人間たちの物語に溢れています。神との出会いは、喜びに満ちたものばかりではありません。そこには悲しみもあります。晴れやかさも苦々しさも、忠実さも裏切りも、呪いも祝福も、神への叫び、神への挑戦、そして神の前での敗北もあります。現代日本に生きる私たちとは、時代も世界観もずいぶん違います。それでも聖書がいろいろな人に読まれる理由のひとつは、そこに描かれたさまざまな〈生のかたち〉が、たいへん魅力的だからでしょう。今日とりあげるぶどう園と農夫のたとえも、イエス・キリストを間にはさんで、人間と神とのドラマチックな出会いを描くテキストのひとつです。ぶどう園は、神に祝福された存在としてのイスラエルのシンボルです。ぶどうは溢れる実りと祝福のイメージです。ぶどうの木の下に座ると

十字架への道

⇒ 十字架への道 私たちの主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなた方一同と共にありますように。I 敬愛する皆さん、キリストにあって愛する兄弟姉妹。 私は遠い国から皆さんのこの教会にやって参りました。今日、こうしてご一緒できることを大変幸せに思い、また、この礼拝で説教できることを喜んでいます。 ドイツでは日本のことを「太陽の昇る国」と言います。西ヨーロッパで日が沈んで一日が終わる頃、こちらではもう日が昇って人々の目を覚ましています。19世紀のイギリスの讃美歌に歌われているように、「新しい時間が輝かしく始まって」いるわけです。これは、ジョン・エラートンの"The Day Thou gavest, Lord, is ended" (1870)という歌で、多くのドイツの教会でよ

生きるにも死ぬにも

⇒生きるにも死ぬにも先週、鈴木良衛さんが天に召された。今年に入ってから立て続けに二人の兄弟を送って、流石に淋しい思いをしている。しかし、この二人は高齢でもあったし(原田敬造さんは86歳、鈴木良衛さんは83歳)、召されるまでの数年間は病気で入退院を繰り返していたから、ある程度覚悟はできていた。何度か病床を訪ねて祈ることもできたし、二人と一緒に迫ってくる死を自然のこととして受け入れることもできたと思う。そういうこともあって、今日は死の問題について語りたい。生命あるものはいつか必ず死ぬ。それは一つの自然現象である。だが、自然に逆らうような仕方で訪れる死というものもある。幼子の死。これほど辛く、悲しいことはない。思いがけなく訪れる突然の死。これも胸を騒がせる。先日ドイツに行った折、20年ぶりに何人か

青銅の蛇

⇒青銅の蛇 イスラエル民族は、モーセの指導の下にエジプトから脱出し、40年間荒れ野を漂泊した末にやっとカナン地方に近づいた。今日の説教テキスト(民数記21章4節以下)には、その頃起こった一つの出来事が記されている。 聖書巻末の地図2によって出エジプトの道をたどると、シナイ半島をアカバ湾沿いに北上したイスラエル民族は、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回(4節)した後、死海の南から大きく東側を回る道を通ってカナンに接近した。その頃、人々は長い砂漠の旅に疲れ果てていたためか、神とモーセに逆らって(5節)不平を言った。それも、蔭でそっと洩らした、という程度ではない。面と向かって大声で詰問したのである。なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な

主なる神の助け

⇒主なる神の助け 伝承によれば、主イエスが生涯最後の数日を過ごすためにエルサレムに入られたのは今日である。群衆は、「ホサナ(=私たちに救いを)。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ11章9節)と叫んで彼を歓迎した。ヨハネによると、彼らはその時、「なつめやしの枝」(12章13節) を持っていたという。なつめやしと「棕櫚」は、厳密には同じではないが、感じが似ているからだろう。この日は後にPalm Sunday(棕櫚の日曜日)と呼ばれるようになった。この日から主イエスの苦難が始まる。そして、金曜日に彼は十字架上で絶命されたのであった。 さて、今日の説教テキストに指定されているのは、だ。このことには大変深い意味がある。それが「主の僕の歌」の一つだからである。 「主の僕の歌」とは、イ

命を与える霊

⇒命を与える霊I 親愛なる会衆の皆さん、イースターおめでとうございます。 イエス・キリストの復活の出来事は、キリスト教信仰と宣教の出発点です。そして福音の内実そのものです。では、どのような意味で、キリストの復活は人間にとって、そしてこの世界にとって今日も大切なものであり続けているのでしょうか。そのことを私たちの生の経験から出発しつつ、聖書との対話を通して何度もくりかえし言い表すこと、少なくともそれを試みること--それは、キリスト者として生きる私たちの内的な原動力です。また教会にとって、変わることのない課題だろうと思います。 パウロは、『コリントの信徒への手紙一』15章で、彼なりの仕方でそのことを試みています。さきほどお読みした段落で問題になっているのは、キリストの復活そのものではありません。

なぜ怖がるのか

⇒なぜ怖がるのかこの物語は、私にとって、新約聖書の中でもっとも魅力的な物語のひとつです。一見するとそれは、ひとつの美しい奇跡物語のように響きます。ほとんど童話のようです。複数の福音書記者によって、それぞれに特徴的な仕方で物語られていて、私たちはそこに今でも何か新しいものを発見します。思いますに、3つのレヴェルを区別することができるでしょう。しかしまずは物語そのものを見てみましょう。ガリラヤ湖を訪れたことのある方ならば、夕暮れ時の素晴らしい雰囲気を思い出していただけるでしょう。夕暮れの柔らかな光と変化に富んだ色彩、湖面には何艘か小船が浮かんでいます。沈み行く太陽が湖の上に光を放っています。 そこにイエスが弟子たちとやって来ます。イエスは病人を癒してきたところです。イエスは――マルコの物語によれ

見えないものに目を注ぐ

⇒見えないものに目を注ぐ 西欧の教会は中世以来、受難節から聖霊降臨祭に至るまでの、つまり、イースター前後のすべての日曜日に、甚だ含蓄に富むラテン語の名前をつけた。復活祭後に限って紹介すると、復活後第1主日はQuasimodogeniti(生まれたばかりのように)、第2主日はMiserikordias Domini(主の憐み)、そして、今日の第3主日はJubilate(喜びの叫びを上げよ)である。この後は、Kantate(歌え)、Rogate(祈れ)、Exaudi(聞きたまえ)と続いて、それから聖霊降臨祭が来る。 これらの名は、いずれもその日の礼拝の最初に読まれた聖句からつけられた。生まれたばかりのようにという名は、1ペトロ2章2節、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い

土台が揺れ動く

⇒土台が揺れ動く パウロは第二次宣教旅行中、紀元50年頃のことだが、数日間フィリピに滞在した。使徒言行録によると、この町は「マケドニア州第1区の都市で、ローマの植民都市」(16章12節)だったというから、かなり重要な町である。ここで、何人かの婦人たちがパウロの話を聞いて洗礼を受けた。先ず上々の滑り出しと言うべきだろう。だが、パウロは弟子のシラスと一緒に投獄されてしまう。事情はこうである――。 彼らは「祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」(16節)。「占いの霊」は、元のギリシャ語では、ピュトンの霊である。ピュトンとは、ギリシャ神話の神アポロンに殺された大蛇の名であった。アポロンは賢く美しい神で、特にデルフォイの神殿で神託(神の御告げ)を語ったといわれ、その神託は古

言葉の権威

⇒言葉の権威(1)わかりにくい話 今日は、主イエスが百人隊長の僕をいやされた物語を読んでいただきました。この物語は一度読んだだけではなかなかわかりにくい話ではないでしょうか。みなさんの中には、聖書はよく読んでいるつもりだけれども、この話はちょっと難しいという方もおられるかも知れません。 百人隊長は、こう言っています。わたしも権威のもとにある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば、来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします(9節)。 これだけを読むと、私たちは、この百人隊長を何と権威主義的な人間なのかと思うかも知れません。自分の権威をふりかざして、自分の命令通りに部下が動くことを偉そうに、自慢しているように見えます。

神の似姿

⇒神の似姿I先週の木曜日、25日は昇天日でした。イエス・キリストは復活した後、40日間弟子たちに顕現した後で天に昇った、と使徒言行録にあります(使徒1,6-11)。そのため、今日の日曜日は昇天後主日と呼ばれています。キリストが天に昇ったとは、もちろん古代的な表現です。現代人である私たちは、もはや古代人のように、文字通り天の彼方に神の玉座があり、その右にキリストが座しているとは考えません。キリスト探索の宇宙ロケットを打ち上げる人はいません。では、キリストの昇天とは、私たちにとって何を意味するでしょうか。それはひとつには、キリストがもはや、私たちと同じような仕方で地上に存在しているわけでないことを意味します。墓の中にキリストを探そうとした女性たちに、天使はあの方は復活なさって、ここにはおられない

イエスが息を吹きかける

⇒イエスが息を吹きかける 今日の箇所の直前には、イエスが復活された日の弟子たちの精神状況が書いてある。思いがけぬことが起こって、彼らは混乱していたのだろう。夕方、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(19節)。いわば引きこもりだ。そこへイエスが現れ、あなたがたに平和があるように(19節、21節)と二度繰り返して言われた。神の平和(シャローム)が既に来ている。恐れるな、という励ましである。そして、彼らに息を吹きかけられた。これはどういうことだろうか? 創世記の創造物語を思い出して頂きたい。主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(2章7節)とある。人間は土の塵で形づくられ、神によって命の息を吹き入れられた存在だ、というのだ。

聖霊の証印

⇒聖霊の証印 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました(3節)とある。この箇所は、神をたたえる賛歌である。 そして、4節以下に神をたたえる理由が挙げられている。1.天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・キリストにおいてお選びになりました(4節)。2.「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(7節)。3.神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました(8-9節)。4.キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって・・・約束されたものの相続者

天と地を満たす神

⇒天と地を満たす神 私たちの世界は先行きどうなるのだろうか? 現代世界は、どの面から見ても混迷の度を深めるばかりだ。このような時代にこそ、預言者が必要である。今日は、紀元前7世紀の預言者エレミヤから、預言者的精神について学びたい。 イスラエル王国は紀元前922年に南北に分裂し、北王国イスラエルが紀元前722年にアッシリヤ帝国の侵略によって滅亡し、南王国ユダも紀元前587年、新バビロニア帝国によって滅ぼされ、主だった人々はバビロンに拉致されて、約半世紀の間、異郷での苦しい生活を強いられた。名高いバビロン捕囚である。エレミヤが神の召命を受けて預言者となったのは、このような先行き不透明な混迷の時代であった。 その頃、人々の不安に乗じて預言者を自称する人々が多く現れた。大抵は職業的預言者で、占いを語

時間と自由

⇒時間と自由I私たちは皆、時間の中で生きています。諺に時は金なりといいます。時間のあるうちに今なすべきことをなせ、という意味なのでしょう。あぁ、もう少しだけ時間があればもうちょっと早く始めておけばよかったと思うことはしょっちゅうです。しかし、本当に今なすべきことが何であるかを知ることは、そんなに簡単なことではありません。なすべきことはあまりに沢山あります。時は金なりという諺は、じつは逆なのではないかと思うこともあります。つまり金は時なり。お金で時間を買うことができるという理解です。実際、レジャー産業の発達した私たちの社会では、休暇やリゾートに始まり、留学やコンサート、はてはエステに至るまで、お金があれば、いろいろな素敵な時間が手に入るように見えます。でも、そのためには、今は我慢してお金を貯め

The Cross Pendant

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He will be sent to your Side.
Emmanuel

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