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主の名によって

⇒「主の名によって」廣石 望詩編24編; I 先ほど朗読したマタイ福音書の箇所は、本日、降誕節第1主日のために『ローズンゲン』が指定している箇所です。しかしイエスのエルサレム入城の場面は、福音書では受難物語の冒頭にあり、むしろ受難週にふさわしい箇所のようにも思えます。なぜ、この箇所が選ばれているのでしょうか。おそらくそれは〈到来〉というモチーフが共通しているからです。キリストのこの世界への到来と、イエスのエルサレムへの到来は、どちらも「主の名」によって来られる方の到来です。「主の名によって」イエスが来るとは、どういう意味なのかを考えてみましょう。 II 「主の名」つまり神の名によって来る者は誰でも、高くて大きな要求を掲げます。その人は、実現されるべき聖なる約束について語るでしょう。ではイエ

ともにいる神

⇒「ともにいる神」 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」。テキスト(新約):マタイによる福音書1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におら

このマリアから

⇒「このマリアから」廣石 望イザヤ書7,10-17; I キリスト教は、イエス・キリストにおいて私たちの神が現れ、今もともに歩んでくださると信じます。日々の経験を通してそのことを実感することなしに、キリスト教信仰は存続できません。では、そのイエス・キリストとは何者なのでしょうか。 古代の世界では、ある人が何者であるかは家系によって決まる、子どもの正体は親が何者であるかによって決まる、という考え方がありました。現代でも家柄や両親の社会的な認知が、その家庭に生まれた子どもの自己理解や周囲の受けとめ方に影響することはあると思います。 他方で子どもの人権に関して、私たちの国も批准している国連「子どもの権利条約」(第2条)は、出自によって子どもを差別してはならないと定めています。 しかし日本では、例

人間を照らす光

⇒「人間を照らす光」 神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。テキスト(新約):ヨハネによる福音書3,16-21 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるの

東方の星

⇒「東方の星」廣石 望マタイによる福音書2章1-12節I12月24日はキリスト教の暦で「聖夜」と呼ばれ、今夜、世界中の教会でイエス・キリストの降誕が祝われます。他方、私たちの国のクリスマスは、親しい人のあいだでプレゼントを交換したり、パーティを開いたりするお祭りです。内容的には、キリスト教信仰とあまり関係がありません。ヨーロッパではこの時期に多くの人が故郷に帰省し、ちょうど日本のお正月のように家族でお祝いをするため街中は閑散としていますが、日本の繁華街はとても賑やかですね。とくに今夜のレストランやホテルは、きっと予約でいっぱいです。子どもたちの中には、クリスマスはサンタクロースのお祭りだと思っている人がいるかもしれません。聖夜に教会の前を通りかかった人が礼拝の看板を見て、「へぇ、教会でもクリ

希望の光

⇒「希望の光」村椿嘉信; テキスト(旧約):イザヤ書43章16-20節主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。テキスト(新約):ルカによる福音書2章8-14節その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が

心の底から新たにされて

⇒「心の底から新たにされて」彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、も彼らが植えたものを、他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり、わたしに選ばれた者らは、彼らの手の業にまさって長らえる。 彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に、主に祝福された者の一族となる。 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。 狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。テキスト(新約):エフェソの信徒への手紙4章17-32節そこで、わたしは主

なすべき礼拝

⇒「なすべき礼拝」廣石 望エレミヤ書31,31-34;  I キリスト教会とは、その自己理解に従えば、神がキリストを通して呼び出した者たちの共同体です。その根拠はキリストです。そしてキリストは、信仰者各人や個々の教会共同体の内側に完全にとり込まれてしまうことの決してない、その意味では私たちの外側にある存在です。私たちの外側にあるキリストが教会の中心です。ですから私たちを相互に結びあわせるのはキリストへの信仰だけです。会員相互のその他の共通性――例えば民族、言語、出身地、社会層、政治信条、趣味など――は教会形成の規準ではありません。 他方で信仰の根本理解、宣教や教会のあり方をめぐる基本理解の違いも、じっさいに存在します。そもそもプロテスタント教会は、信仰理解の根本的な違いを論拠に、教会を分裂さ

重荷を担い合う

⇒「重荷を担い合う」心よ、主はお前に言われる、「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。テキスト(新約):ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分

存在の重さ

⇒「存在の重さ」村椿嘉信詩編 8,4-9; テキスト(旧約):詩編8編4-9節あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。テキスト(新約):ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの

神に希望をかける

⇒「神に希望をかける」廣石 望エゼキエル書 34,11-16; I 最近の若者言葉に、「心が折れそうになった」という表現があります。例えば「学期末テストの朝に寝坊して駅まで全力で走ったのに、定期券を忘れてしまい、心が折れそうになりました」。すごくがっかりしたという気持ちを、多少ともユーモラスに表現するときに使うようです。他方で私たちの人生には、テストに遅刻するよりもはるかに深刻なピンチがあります。病気や行き詰まり、あるいは仕事上の失敗といった個人的なものから、政治弾圧や戦争、社会不安や文字通りの社会崩壊に伴う困難に至るまで、人生にはさまざまな「苦しみ」がつきものです。 ふだん私たちは「苦しみ」を、そんなことを体験せずにすむなら、それに越したことはないものと考えます。だから苦しみがあるとき、そ

互いに生かし合う

⇒「互いに生かし合う」テキスト(新約):コリントの信徒への手紙(1)12章12-26節体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だっ

互いに赦し合う

⇒「互いに赦し合う」テキスト(旧約):詩編32章1-5節いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は、昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは、罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。テキスト(新約):マタイによる福音書18章 21-35節そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「

一致の根拠

⇒「一致の根拠」テキスト(旧約):イザヤ書43章16-20節主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。  初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。テキスト(新約):ヨハネによる福音書4章16-26節イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言

ユダとピラト

⇒「ユダとピラト」

分配と幸福

⇒「分配と幸福」

イエスに生かされて

⇒「イエスに生かされて」村椿 嘉信イザヤ書57,14-21; テキスト(旧約):イザヤ書57章14-21節主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないようにわたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ慰めをもって彼を回復さ

休ませてあげよう

⇒「休ませてあげよう」「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」東北大震災(2011.03.11): 東北地方の太平洋沖で巨大地震ならびに津波が起き、多くの人たちの尊いが奪われました。私は昨年の2月に

苦難の道

⇒「苦難の道」はるかに高く上げられ、あがめられる。 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように彼の姿は損なわれ、人とは見えずもはや人の子の面影はない。 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。テキスト(新約):マタイによる福音7章13-14節狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。狭い門 昨年の9月に、ドイツのオーバーアーマガウでイエスの受難劇を見ました。10年に1度、オーバーアーマガウの村人だけで上演されるというものです。 その受難劇は、中世から伝わる古い台本をもとに

そんな人は知らない

⇒「そんな人は知らない」村椿嘉信イザヤ書53,1-5; テキスト(旧約):イザヤ書53章1-5節わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって

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