互いに赦し合う

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「互いに赦し合う」

テキスト(旧約):詩編32章1-5節

いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は、昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは、罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。

テキスト(新約):マタイによる福音書18章 21-35節

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

赦し合う

 イエスの弟子のペトロはイエスに向かって、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と問いました。この質問に答えてイエスは言われました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。

 イエスは、「一生懸命に数えて、何回までは赦すべきであるが、その回数を1回でも超えれば、たとえば罪を犯す回数が7回が8回になったら、赦さなくてよい」とか、「相手が罪を犯す回数が70回かた71回にまでふくれあがったら、赦さなくてよい‥‥」と言おうとしているのではありません。

 イエスはむしろ限度を設けず、際限なく赦しなさい‥‥と勧めています。

 赦しなさい‥‥といっても、決して、相手の罪や過ちを、見逃しなさいとか、見て見ぬふりをしなさいということではありません。相手が、犯罪をおかしても、神さまに反することをしても、人の心を傷つけるとしても、黙ってみていなさい‥‥ということではありません。

 子どもが、あるいはごく親しい人たちがちいさないたずらをするときに、私たちは咎め立てをすることなく、笑ってやり過ごすことがあるかもしれませんが、それは、その行為によって自分や誰かが傷つくことはない‥‥という場合に限られます。本人はわるふざけのつもりでも、小さな子どもが、お年寄りに体当たりして、そのお年寄りが腰を痛めてしまというというようなことが実際にあります。私は、身近な人からそういう話を聞いたことがあります。このような場合、ただ何も言わずに見守るのがやさしさではなく、その悪ふざけがこうじて、誰かを傷つけたり、またそのことでその本人自身が悔やんだりしないように「言うべきことは言う」のがやさしさだと、私は思います。

 さて、私たちがともに生きようとする場合に、私たちはそれぞれ、自分がどのように歩んでいるのかを「自覚」する必要があります。意図的であろうとなかろうと、自分がともに生きる相手を傷つけてしまう場合に、自分が何をしようとしたのか、実際に何をしてしまった、その結果どうなったのかを知ることが大切です。そしてもし自分に何らかの過ちがあるとすれが、それをはっきりと自覚し、相手に「ごめんなさい」と謝ることが大切です。

 赦し合ってともに生きるためには、何をどう赦すべきなのかがわかっていなければなりません。そのために、お互いに、自分の過ちについては、過ちであるとはっきりとらえること、そして「ごめんなさい」と謝ることが大切です。「赦し合って生きる」ということと、「謝り合って生きる」ということは、深い関係にあります。

 

謝る:

 「謝る」、「謝罪する」ということは、とてもむずかしいことだと思います。

 私の知り合いの中に、なかなか謝らない人がいます。約束を破っても、たとえば待ち合わせの時間に遅れても、ミスを犯しても、そしてその結果、相手にどんな迷惑をかけても、謝らない人がいます。私は、その人は、謝ろうとしないというよりも、むしろ、謝ることができないのではないかと思います。プライドの高い人や自己中心的な人は、なかなか自分の非を認めることができず、また自分が相手にどんな迷惑をかけているかを知ろうとはしないのではないでしょうか。

 私の知り合いの中には、これとは逆に、いつも「すみません」、「ごめんなさい」‥‥と謝ってばかりいる人がいます。私は、時によっては、その人に「何も間違ったことをしているわけではないから、『すみません』と言う必要はありません」と指摘することもあります。でもその人は、まるで口ぐせのように、何度も繰り返します。おそらくその人は、軽い気持ちで、「すみません」、「ごめんなさい」と繰り返しているのではないでしょうか。

 「まったく謝らない」というのでもなく、「口ぐせのように謝る」というのでもなく、自分のミスをはっきりと捕らえ、自分のミスと認め、相手に迷惑をかけてしまったことを悔い、相手に謝るということは、とてもむずかしいことです。

 正確に言うと、自分がどういう行動をしたのか、自分が何を語ったのかという<自己分析>ができないと心から謝ることはできません。

 また自分のことを自覚するだけでなく、自分の行為を相手がどうとらえたのか、自分の言葉に相手がどう傷ついたのかというように、<相手を思いやる心>がないと、謝るということは不可能です。自分が相手を傷つけてしまう場合に、相手が自分にそのことを伝えてくれなければ、自分が相手を傷つけたことにまったく気づかないこともあります。

 

謝ることの前提:

 さて聖書のさまざまな箇所に、自分の犯したあやまちや、罪を、神さまに向かって謝り、また赦された人たちの姿が描かれています。

 詩編の第32編には、神さまに自分の罪を謝った人の姿が描かれています。この詩人は、自分のあやまちをすぐに認めたわけではなく、始めは、隠していました。そして隠しとおそうとしました。しかしその結果、どうなったのでしょうか。3節にこうあります。

「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻(うめ)きに骨まで朽ち果てました」

 「黙し続ける」というのは、黙って、隠しとおそうとした ということです。間違ったことをしてしまった。それはわかっている。だけど、黙って、隠し続けようとしたということです。私たちも、自分の非を認め、声を出して謝るよりも、黙ってすごすほうがいいと思うことがあるのではないでしょうか。

 ところが、この詩人は、黙ってその場を通り抜けようとしましたけれども、自分自身の良心の呵責に悩まされることになりました。黙っていていいのだろうか、隠しとおすことができるのだろうかと悩み、骨まで朽ち果ててしまいそうになったのです。

 ところでこの詩人が悩んだのには、大きな理由がありました。この詩人が悩んだのは、神さまが、私たちのすることをすべて見ておられるからでした。4節にこうあります。

「み手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました」

 「み手」とあるのは、神さまの手のことです。この詩人は神さまの手から逃れることはできないと考えました。神さまは自分を見ておられる、神さまをごまかすことはできない、神さまに隠しごとをすることはできない、だから神さまの手から逃れることはできないと詩人は考え、自分のしたことを思い返し、悩んだのです。

 ついにこの詩人は、神さまに謝る決意をします。5節にこうあります。

「わたしは罪をあなたに示し、咎(=あやまち)を隠しませんでした。
わたしは言いました。『主にわたしの罪を告白しよう』と」。

 すると、どうなったのでしょうか。5節の後半の部分にこうあります。

「そのとき、あなたはわたしたちの罪と過ちを赦してくださいました」

 私たちが、神さまに謝れば、神さまは、私たちの罪をゆるしてくださいます。だから、私たちは正直に、心から謝ることができるのです。

 新約聖書のヨハネの第1の手紙にはこういう言葉があります。ヨハネの第1の手紙1章9節です。

「自分の罪を公に言い表すなら、神さまは真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」

 自分の罪を認めて、「ごめんなさい」とゆるしを請う者を、神さまは必ずゆるしてくれます。

 これらの箇所から明らかになることは、神さまがわたしたちのどんなささいなことでも見ているということです。神さまは私たちの罪を見過ごしにはされないということです。その神さまの手を逃れることはできないということです。だけど、私たちは自分の罪を自覚し、それを告白し、謝罪することができる。そのときに、神さまは必ず、私たちの罪を赦してくださいます。

 

罪の告白とゆるし:

 このことは、現在において、私たち人間と人間の関わりを考える上でとても大きな意味を持っています。

 日本では、どちらかというと、罪や過ちを「もし隠すことができるなら、隠しておいたほうがいい」と考える人が多いのではないでしょうか。

 その結果、隠そうと努力することになります。隠し始めると、私たちは、自分もみつめない、相手もみつめない、相手と深い関わりをもたないで、表面的に生きる方がいい‥‥ということになってしまいます。

 私たちは多かれ少なかれ、相手とぶつかったり、相手を傷つけながら生きています。罪を犯すことは、もちろん悪いことです。相手を傷つけてしまうということは、よくないことです。でも、謝り合い、赦し合うことができるからこそ、私たちはともに歩むことができるようになるのです。でももし、私たちがそれを隠そうとすると、その時点で、私たちは、相手と深い関わりを持ってともに生きることができなくなってしまいます。表面的にしか生きられなくなります。これは最悪の事態です。

 神さまが人間のどんなささいなことも見ているので、私たちは、罪を隠し通すことはできません。だから罪や過ちを隠し通すことをやめて、私たちは、悪いことをしたときには悪かったと、相手を傷つけた時には、申し訳ないと謝罪することが大切です。謝罪し合うことによって、私たちは赦し合うことができるようになります。そして赦し合うことによって、私たちはさらに相手と深い関わりをもってともに歩めるようになります。

 

アウグスティヌスの場合:

 さて紀元354年に北アフリカ、現在のチェニジアのタガステという町に生まれたアウグスティヌスについて、皆さんもいろいろ聞いたり、読んだりして、知っておられると思います。アウグスティヌスは、386年に、つまり32歳の時に、キリスト教を受け入れ、翌年、洗礼を受け、396年、つまり42歳の時に、ヒッポという町の教会の司教となりました。そして教会を指導し、また後世にも大きな影響を与えましが、教会の指導者となってから、『告白』という書物を書きました。その中で、アウグスティヌスは、自分の少年時代や青年時代の数々の過ちを告白しています。その中で、たとえば、人の家の梨の実をとって食べたことを書いています。

 アウグスティヌスはこう書いています。自分は当時、お腹がすいていたからでも、おいしそうだったからでもなく、友人といっしょに、人のものを盗んで食べるというそのことじたいがおもしろくて梨の実を盗んだ。つまりスリルを味わっていた。だから盗んだ梨は、豚に食べさせた。盗むということも、人に迷惑をかけることも、悪いことだと知りつつ、仲間といっしょにあえてそれを行うことを自分はの好んでいた‥‥というように、アウグスティヌスは自分の行為を「分析」しています。貧困のゆえに、今日食べるものもなくて、人のものを盗む人がいます。アウグスティヌスの場合は、そうではなく盗むという行為自体をおもしろがっていた‥‥と分析しています。

 さてその際にアウグスティヌスは、このようなことを公にしたら、自分の地位があぶなくなるとか、多くの人たちから信頼を失うというようには考えませんでした。むしろ、隠しておくことこそ、信頼を失うことになると考えました。そしてその当時の多くの人たちは、このアウグスティヌスの態度を理解し、教会の指導者としての彼を支持しました。実際に、自分の罪を告白したからといって、それで人々が自分から離れていってしまうというようなことはありませんでした。むしろそのようなアウグスティヌスを信頼したのです。それは先ほどの、聖書の言葉が生きていたからだと思います。

 このことはキリスト教の影響が少ない日本では、なかなか通用しないことなのかもしれません。罪や不正は、隠せるものなら、隠しておいたほうがよい。もし自分さえ黙っていれば、あるいは当事者たちが沈黙を貫けば、おそらく誰も問題にしないだろう。逆に、もしそれを明らかにするなら、多くの人たちから信頼が得られなくなるだろう‥‥こう考える人たちがたくさんいます。

 みなさんはどう思われるでしょうか。自分のほんとうの姿を明らかにしてしまうと、陰で笑いものにされたり、うわさにされたり、何もいいことはない。だから黙っておこう‥‥と考えるでしょうか。

 もしみなさんが自分を隠して生きていこうとするなら、表面的な付き合いしかできません。相手を知り、それぞれの弱さを克服し、ともに力を合わせて生きることはできません。不正を隠しておくことによっては、信頼し合える関係を築くことはできません。ほんとうに信頼できる関係というのは、お互いに自分を隠し合うことによってではなく、自分のいやな部分も含めて、自分そのものを明らかにし合うことによって、そしてそれを赦し合うことによって、築くことができるのです。

 このような話をしたところ、外交官は、秘密事項を扱うことがあるはずだけど、どうなるのですかと聞かれたことがあります。外交官や政治家が、交渉の過程で、何もかも明らかにできないという場合は当然あると思います。でもそれは外交官や政治家だから秘密を持っていいということではないはずです。国民のために、あるいは世界中の人たちのために何らかの情報を非公開とするのか、それとも政治家や外交官という一部の人たちの利権を守るために非公開とするのかについて、きびしく自問しなければならないはずです。

 またたとえ真実であったとしても、相手に語るべきか、どう語るべきかが問題になることもあります。相手が幼い子どもの場合にどう伝えるか、あるいは、それを伝えることが相手に、二度と立ち上がれないほどのショックを与えてしまうというような場合に、どうするのかという問題があります。重要なことは、自分のためにではなく、相手のために真実を、どのように伝えるかを判断することです。私たちの場合は、相手のことを考えてというより、自分の体面を保とうとして、自分の都合ばかりを考えて、謝罪もしなければ、ともに赦し合って生きようともしないという場合が、圧倒的に多いのではないかと思います。

 聖書は、私たちに、私たちが神さまに赦されているのだと告げています。私たちは、神さまのひとり子イエスを十字架にかけてしまうほどの罪人なのに、私たちは赦されていると告げています。だから、自分を隠すことなく、むしろ明らかにし、お互いに相手の真実の姿を見つめ合おうと努力しましょう。それぞれ自分を分析し、相手を思う心を持つ努力をしましょう。私たちも、その神さまのもとで、互いに謝り合い、またお互いに相手を赦し合って、ともに神さまの祝福を受けながら、歩むものとなりましょう。

神さま、
あなたは、私たち一人ひとりのことをみ心に留めてくださいます。
あなたは私たち一人ひとりのことをかえりみてくださいます。
そのことを覚え、感謝します。
あなたが、私たちを愛していてくださることを覚え、
私たちも互いに愛する者となって歩むことができるよう、お導びきください。
主イエスが人々を愛されたように、十字架に架けられても人々を愛しとおされたように、
私たちも愛をもって歩むことができますように。
重たい存在である一人ひとりが、あなたによって生かされ、
主イエスによってひとつとされ、ともに助け合いながら歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン

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Emmanuel

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