重荷を担い合う

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「重荷を担い合う」

心よ、主はお前に言われる、「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

テキスト(新約):ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

重荷をにない合う:

 沖縄にいたときに、薬物依存症に苦しむ人のためのリハビリ施設についての話を聞いたことがあります。また、薬物依存による後遺症に悩む人と関わったことがあります。その人は私とほぼ同年齢で、教会の信徒でしたが、2年前に亡くなりました。その男性は、ベトナム戦争のころ(今から40年以上も前のことですが)、ロックのグループに属していて、ドラムを担当していました。米軍基地をまわっては、演奏を続け、米兵から薦められるままにマリファナ、コカイン、ヘロインなどに手を出したそうです。精神的にも、身体的にも、病いにかかり、亡くなる前、何度も病院に一緒に行きました。また市役所の福祉課の担当者とも話し合う機会を持ちました。働くことができず、暑い日などは、よく教会の庭のベンチに座っていました。私が草刈りなどをすると、心よく手伝ってくれたのですが、30分も長続きはしませんでした。

 同居していた母親が遺族年金を受けていたために、彼は母親の「扶養家族」と見なされ、生活保護を受けることができませんでした。借金を抱えていたのですが、母親の遺族年金が入ると、まず最初に借金の返済に当てようとしました。自分たちの食費や医療費を削ってでも、まずは借金返済をしようとしていましたが、そうすると生活費が不足し、再び借金をしなければならなくなります。私は、何度も、「自分たちの食費、それから医療費はとっておきなさい。返済はあとでもいいから、これ以上借金を重ねないようにしなさい‥‥」と言わなければなりませんでした。「食べる物が何もないのです」と言って、私のところにお金を借りに来たこともしばしばありました。

 ここに封筒があります。こう書かれています。「○○教会へ、ありがとうございます。いつも貸して下さって感謝です」。たくさん貸したはずなのに、ここには小銭ばかりが入っています。でもこの封筒は私にとっては宝物です。東京に来てからも、大事に、引き出しの中にしまってあります。彼を十分に支えることができたのか、教会が適切に対応できたのかはわかりません。でもともにいよう、支えよう、重荷を負おう‥‥と努力してきたことに彼が応じくれたのが、この感謝の言葉です。十分なことができたかはわからないけれども、彼が喜んでくれたこと、感謝の気持ちをこういう形で現してくれたことは事実です。彼の思いがいっぱいつまった封筒です。だから私も、彼のことをいつまでも忘れないようにと、この封筒を手元に置いています。

 私と誕生日が近いので、誕生日のお祝いをしてくれたことがありました。「先生、お誕生日だから、そばをたべに行こう」というのです。もちろん代金を払ったのは、私のほうです。

 でも彼のおかげで、いろいろな人たちと知り合いになれました。ある時、彼が古い仲間とロックのコンサートをするというので、ついていったこともあります。小さな居酒屋で、60歳前後、あるいはそれ以上の年齢の人たち(ベトナム戦争の頃、20歳前後、あるいはそれ以上だったということです)がごく親しい人たちだけを集めてロックを演奏するのですが、私はそのリズムと迫力に圧倒され続けました。

 戦争が行われているベトナムから休暇を過ごすために沖縄に来ている米兵たちを相手に仕事をすることの是非について議論しても始まりません。彼らには、それしか生きる道ばなかったのですから。その結果、アルコールや、薬物に依存するようになることは、わかりきったことですた。彼らは、それらがよくないことだと十分に知りつつ、それゆえ後ろめたい気持をいだきつつ、そう生きてこなければならなかったのです。そして、からだもこころもぼろぼろにされてしまったのです。そういう人たちは、状況が多少異なるとはいえ、彼一人ではないのです。その人たちを教会がどう支えることができるのか、私がその赴任先の教会でずっと考えてきた課題でした。

 ところで、その人たちからすれば、彼らを支えようという教会も「アメリカの宗教を信じる教会」であり、戦争を肯定し、自国の勝利と軍人たちの安全を祈る教会なのです。

 ここで、彼らにいろいろなことを語ることはできます。彼らの矛盾を指摘することもできます。「キリスト教というのは、自国の勝利と繁栄を保証するための宗教ではない、戦争を肯定しているのではない、世界の平和を願っている‥‥」と説明することはできます。でも私が語る前に、このようなことは彼らはわかっていると思いました。「先生、基地の中にも教会があるけど、何を祈っているのだろう」というような声を聞いたことがあります。また、「なぜロックのグループに加わったのか。なぜ、基地に出入りするようになったのか。なぜ、薬物に手を出したのか。なぜ、後遺症で苦しむようなことをしたのか」と彼らを問い詰めることはできます。でもこのようなことを説明しても、あるいは彼らを問い詰めても、そこからは何も生まれません。私たちに問われていることは、そして教会がしなけえればならないことは、彼らの苦しみや痛みを知ること、彼らを支えること、そしてともに生きる努力を続けていくことではないかと思いました。そしてさらにひとこと付け加えるなら、同じような不幸なことが二度と繰り返されないように努力することだと思いました。そして私は今、教会は「重荷をにない合うことのできる交わり」とならなければならないと考えています。

 アルコール依存症であった方々が、アルコールに二度と依存しなくてすむように、お互いに励まし合い、助け合う集まりがあります。この教会もそのような方々を支援しようと、役員会で決議し、教会の一室をお貸しすることにしました。彼らは、クリスマスの期間も、年末、年始も休みなく会合を続けました。なぜかと聞いてみると、年末年始、忘年会、新年会、などアルコールに誘われる機会が多いので、休みにできないということでした。勉強会であれば、年末年始は休みにするということもあり得ると思います。しかし集まっている人たちは、アルコールに依存することがよくないことだとは知っていて、そのことを学びにきているわけではありません。正解が何であるかを求めているわけでもありません。お互いに、顔を合わせ、声をかけ合うために、集まるのです。失敗することがあっても、弱い自分があっても、励まし合い、それぞれがそれぞれの歩んでいくことができるよう力を合わせることが大切なのです。だから年末年始も休みはないということでした。

 問題を一人で解決できるならそれはそれでいいのですが。でも現実には一人では解決できない問題があります。圧倒的にそういう問題のほうが多いのです。そういう問題を抱えている人たちどうしが、声をかけあい、支え合い、力を合せることによって、ともに問題に立ち向かっていくことができるようになります。お互いの力を合わせることが大切なことです。それが重荷を担い合うことです。

自分の負うべき重荷:

 私たちには、それぞれ自分の負うべき「重荷」があります。8節にあるように、「自分の肉に(種を)蒔く者は、肉から滅びを刈り取る」ことになります。「自分の肉に(種を)蒔く者」、つまり「自分の欲望を満たすために行動する者」は「滅び」を負わなければなりません。それが、その人の負わなければならない「重荷」です。

 この「重荷」について、ガラテヤの信徒への手紙6章1節から10節までの部分に、異なる二つのことがしるされています。ひとつは5節です。こう書かれています。

 「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」。

 パウロはここで、自分が負うべき「重荷」を、人に押しつけることはできないと述べています。「重荷」は、人に押しつけていいものではありません。神にその責任を転嫁することもできません。

 暗闇の中を歩もうとする人たちは、神から離れ、自分の利益だけを追い求め、他者に憎しみをいだき、ますます闇の奥深くへと落ち込んでいきます。その結果どのようになろうとも、それはその人自身の責任であり、その人自身がその結果を負わなければなりません。でも2節には次のように書かれています。

 「互いに重荷を担いなさい」。

 私たちは、「互いに重荷を担い合う」ことができます。Aさんの「重荷」は、Aさん自身が負うべき「重荷」であり、Bさんに押しつけることはできません。しかしAさんとBさんは、ともに支え合い、ともに生きようとするときに、互いに相手の負うべき「重荷」を担い合って歩むことができます。それは「義務」ではありません。「そうしなければならない」という義務ではありませんが、私たちはそれぞれの自由な意志に基づき、また相手に対する愛をもって、「そうすることができる」ようになるのです。それは、希望に満ちた大いなる「可能性」であり、その「可能性」が現実となるのは、何よりも神が私たちに力を与えてくれるから、そして実際にそのような歩みをしたイエスが、私たちを招き、私たちとともにいてくれるからです。

私たちの「重荷」をになってくださるイエスのもとで:

 イエスは、私たちの「重荷」をになってくれる方です。私たち人間の「重荷」は、私たちが負うべきものであり、イエスが負わなければならないものではありません。しかしイエスはありのままの私たちを愛を持って受け入れ、私たちの「重荷」を担ってくれます。イエスはマタイ11章28節によると、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言って、私たちを招いています。

 このイエスのもとで、イエスに教えられ導かれ、イエスに力づけられながら、私たちもお互いに「重荷を担い合う」ことができるようになります。そのとき、「重荷」は軽くなります。神が、私たちの痛みを知り、ともにいてくださるからです。

 この世には、さまざまな問題に満ちあふれています。戦争、飢餓、自然破壊、争い、孤独‥‥、一つひとつの問題を解決するために私たちは努力しなければなりません。でもすぐにすべてが解決できるわけではありません。今、ここで、苦しむ人たち、悲しむ人たち、重荷を負う人たちが現実に存在します。私た自身もまた、苦しみ、悲しみ、重荷を負うことがあります。すでに追いきれないほどの重荷を負っている人たちもいます。そのような私たちは、イエスに招きに応じるとき、ともに重荷を負いながら歩むことができます。

 私たちが自分の負うべき重荷を負い、苦しんだり、悲しんだりするときに、神は私たちとともにいて重荷をにない、苦しみ、悲しんでくれます。イエスは私たちに対する愛のゆえに、私たちの重荷を負ってくれます。そのイエスとともに歩むときに、私たちは、お互いに「重荷をにない合う」ことができるようになります。自分ひとりで苦しむのではなく、ともに声をかけあい、ともに力を合わせ、ともに支え合うことによって、私たちは、「重荷」を軽くすることができます。そのように力を合わせ、ともに生きようとするところに、イエスがおられるのです。

神さま、
あなたがともにいてくださり、
私たちを受け入れ、私たちを愛し、
私たちの重荷をになってくださることを感謝します。
イエスは、私たちに、「すべて重荷を負う人は、わたしのもとに来なさい」と語り、
私たちを招いてくださいます。
そのイエスのもとで、私たちもまた重荷をにない合いながら歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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Emmanuel

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