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神の憐れみ

⇒「神の憐れみ」村上 伸詩編103,6-13;  5月9日の礼拝で、私は1テモテ2章1節以下をテキストにして説教した。その折にも簡単に説明したことだが、この手紙の受取人であるテモテという人物は、パウロが第二次宣教旅行の途中、小アジアのリストラという町に立ち寄った際に知り合った若者である。パウロは、この青年の人柄や信仰を見込んで信頼を寄せ、その後の旅に同行させたばかりでなく、時々、重要な任務を与えた。1章3節に、「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと」、とあるのもその一例である。 またパウロは、テモテを「信仰によるまことの子」(1章2節)と呼んで愛し、実際的

私につながっている

⇒「私につながっている」廣石 望イザヤ書48,12-16; Iどんな共同体にとっても、統合性や一体感は大切です。現在、サッカーの世界大会が南アフリカで開催されています。いくつかの試合で、強いといわれたチームが弱小チームに負けました。大金星をあげたチームは、たいへんチームワークがよいのが特徴です。チーム全体に一体感があるのです。おそらくそれは教会共同体も同じです。サッカーと同様、教会や教団には守るべきルールがあります。他方で、サッカー選手たちがルールを守りながらも、じっさいによいプレーをしなければ意味がないのと同様、教会もそこに集う者たちが心をひとつにして、いっしょに汗を流して働かなければ、よい教会とはいえません。「私は(まことの)ぶどうの木、あなた方はその枝である」という有名なイエスの言葉は

世の知恵・神の知恵

⇒「世の知恵・神の知恵」村上 伸イザヤ書29,13-14;  今日の箇所の冒頭に、「十字架の言葉」(18節)と言われている。この簡潔な表現を言い換えたのが、23節の「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」であろう。十字架につけられて死に、三日後に復活したキリストを宣べ伝えること。これが、「十字架の言葉」の内容なのである。  それに続けて、パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」(18節)と言っている。「滅んでいく者」という言い方はややキツ過ぎるかもしれないが、これは「異邦人」(23節)を意味する。もっと具体的に言うならば、「ギリシア人」(24節)のことだ。 パウロはここで、「ユダヤ人」と「ギリシア人」を二つの典型的なタイプとして対比しようとしていた。「ユダヤ人はを

被造世界の解放

⇒「被造世界の解放」廣石 望アモス書8,9-13; I今日のテキストである『ローマの信徒への手紙』8章は、現代のキリスト教が地球環境の問題を考えるための古典的な箇所のひとつになりました。その中でパウロは、被造世界が「滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかる」という希望をもち、このゆえに「今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(21-22節)と言います。自然界は「うめいて」いる――現代、この発言はまったくアクチュアルです。かつて自然は人間にとって、恩恵と脅威を同時に意味したと思います。しかし、やがては征服すべき領域と見なされるようになり、ついには人間の幸福に仕える資源として、また放っておいても自ずと回復するゴミ捨て場として扱われるようになりました。そ

向き合う勇気!

⇒「向き合う勇気!」16:み顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。17:悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。18:ご覧ください。わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。詩人の置かれている状況: 詩編25編を書いた詩人は、16節、17節からわかりますように、神さまに向かって「わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください」と祈っています。この詩人は、困難な状況におちいり、悩み、苦しみ、助けてくれる人もいないまま、日々、やっとの思いで生きています。 この詩人は、そのような苦難の中にあって、神さまに祈ろうとしています。主なる神さまに目を向け、神さまが答えてくださるのを待ち望ん

共に生きる喜び

⇒「共に生きる喜び」村上 伸詩編57,1-12;  私たちの教会は、二ヵ月後に「牧師交代」の時を迎える。初めて経験するこの大きな転機に、私たちはどのような心構えで立ち向かえばよいのか? この問題について、私たちは過去数ヶ月にわたって、いろいろな面から考えて来た。今日の「カンファレンス」はその準備段階の最終ステップである。この貴重な時を意義深く用いたい。村椿牧師も終わりまで参加されるから、今回は最も望ましい形で行われることになった。準備委員会の労を多とすると共に、皆さんの積極的な参加を期待する。さて、今回のカンファレンスの主題は、ボンヘッファーの名著からヒントを得て、「共に生きる生活」と定められた。むろん、この本をテキストに「勉強会」をするわけではないが、この本には私たちの教会の今後の歩みにと

力に応じて

⇒「力に応じて」廣石 望イザヤ書11,1-10; I 今日は平和聖日です。『日々の聖句(ローズンゲン)』に従ってテキストを選びました。「タラントンのたとえ」は、マタイ福音書では、終末に関するイエスの教えの段落に出ます(マタイ24-25章)。前後の文脈を見ると、主題は「最後の審判」です。およそ次のように言われています。すなわち神以外に、世の終わりがいつ来るかを知る者はおらず(24,36)、審判者である「人の子」はむしろ思いがけないときに到来する(24,44)。それは僕(しもべ)が、外出した主人の突然の帰宅を出迎えることに(24,45以下)、あるいは遅れて到着する花婿をいつでも出迎える準備が乙女たちにできていなければならないのに似ている(25,1以下)。「だから目を覚ましていなさい。あなた方は、

神の自由な選び

⇒「神の自由な選び」廣石 望創世記21,9-13; I 今年の8月6日、広島への原爆投下から65年目の平和記念式典に、米国大使や英仏代表が初めて参加したというニュースに接しました。同時に、じっさいに原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長であった方の息子さんが、米国大使の式典参加は「無言の謝罪」に当たる、つまり日本がしかけた戦争を米国が終らせたという従来の歴史理解を書き換えることを意味するので、承服できないとコメントしたとも聞きました。 いったい歴史は誰のものなのでしょうか。――戦争で核兵器を使用する主体は国家です。戦勝国がその後の世界のあり方を大きく決めてきたのも事実でしょう。しかし東西冷戦時代に核兵器を含む軍拡競争はエスカレートし、冷戦後も核兵器は分散を続けています。これが地球

平和の祈り

⇒「平和の祈り」わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。 05:家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 06:妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。 07:わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。 08:イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。 09:彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。

突然、天からの光が

⇒「突然、天からの光が」村上 伸イザヤ書1,21-28 ; 3節に、「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」とある。サウロとは回心前のパウロの名前だが、キリスト教徒迫害の使命を帯びてダマスコに近づきつつあった彼は、この時「地に倒れ」、その後「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9節)という。一体、何が起こったのか?ところで、8月19日の『毎日新聞』<余録>欄に、興味深い文章が載っていた。「フランスの作家スタンダールは19世紀初め、イタリア・フィレンツエの聖堂で絵を見上げるうちになった。同様の症状を訴える観光客が相次ぎ、<スタンダール・シンドローム>なる言葉が生まれた。1990年代にはイタリアで同名の映画も作られた」、というのである。この出来事

神の力強い御手

⇒「神の力強い御手」村上 伸詩編55,17-23;  『ペトロの手紙一』は、紀元1世紀の終わりか、2世紀の初め頃に書かれたと言われている。ローマのトラヤヌス皇帝がキリスト教を禁止する法律を作ったのが紀元110年頃と言われるが、そのためにキリスト教徒は迫害に遭うことになった。その中で、苦しむ同信の仲間を励ますために、一人の指導者が、恐らく使徒ペトロの名を借りて、この手紙を書いたのである。冒頭の1章6節に、「あなたがたは・・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれない」とあるのは、そのような迫害状況を示している。今日読んだ5章に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)とあるのも同じだ。 さて、迫害の苦しみに耐え抜くた

神の国の福音

⇒「神の国の福音」村上 伸アモス書5,21-24;  に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、云々・・・」という有名な言葉がある。「コヘレト」とは「召集者」という意味で、具体的にはソロモン王を指すとも言われる。確かに、ソロモンがこれらの言葉を語ったとすれば納得がいく。人生のさまざまな局面をこれほど簡潔でしかも的確な表現で描き出すことは、深い知恵を持った人にしか出来ないことだからである。ところで、その7節に、「黙する時、語る時」と言われている。これは、今の私にピッタリ当てはまる。私はほぼ50年間、ほとんど毎週のように説教や聖書研究という形で「語って」きた。今や、「黙する時」が来たのである。神を畏れ、心から感謝しつつ、

力、愛、思慮の霊に生かされて

⇒「力、愛、思慮の霊に生かされて」04:わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。05:そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。06:そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。07:神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。08:だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。09:神

神の国の到来

⇒「神の国の到来」廣石 望イザヤ書55,8-13;  「神の国」はいつ来るのか?」――そうイエスは問われたと今日のテキストは言います。「神の国」とは、神が王として支配すること、そのような時代、およびそのような支配権が及ぶ領域という意味です。「神の国」は、イエスが神から自分に託されたと理解した使命とメッセージを、一言で表すために用いられたシンボリックな表現でした。 「神の国」とは、〈人間〉の支配ではないという含意です。イエス時代のパレスティナを支配していたローマ帝国には皇帝神学がありました。そしてイスラエル民族の王家は、じっさいにはローマの傀儡でした。そしてそこにはさまざまな意味での抑圧がありました。そのような人間の支配が最終決定的なものではない、というメッセージが「神の国」というシンボルには

賜物を生かして

⇒「賜物を生かして」04:というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、05:わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。06:わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、07:奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、08:勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。ともに生きる‥‥とは: ともに生きるとは、私たちが教会の中でだけ追い求めていけばよい課題なのでしょうか。具体的に言えば、この代々木上原教会

主が見守ってくださる

⇒「主が見守ってくださる」村椿嘉信; マタイによる福音書6,16-18テキスト:01:目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。02:わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。03:どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。04:見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。05:主はあなたを見守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。06:昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。07:主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。08:あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 山々を仰ぎながら: 山々を仰

最も小さい者とともに

⇒「最も小さい者とともに」村椿 嘉信出エジプト記23章9節; テキスト:31:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33:羊を右に、山羊を左に置く。34:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。37:すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを

愛、喜び、平和

⇒「愛、喜び、平和」村椿 嘉信エレミヤ書8,20-23; テキスト:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対

見えない事実

⇒「見えない事実」村椿 嘉信詩編23,1-6; テキスト:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 人間=<間に生きる人>: 日本語で「人」という言葉は、「猿」などの生き物と同じように、動物のひとつ、生物学上のひとつの種としての存在を表すものとして用いられています。これに対して「人間」という言葉は、「人」の関係性、あるいは社会性を強調するために使われることになったと言われています。 もちろん「猿」などの動物の世界にも社会性があることが知られていますけれども、人間とは比べものに

ご計画によって召された者たち

⇒「ご計画によって召された者たち」陶山 義雄詩編139,7-18;  本日は、教会の暦によりますと、本年最後の主日で、終末主日と呼ばれています。また、同時に収穫感謝の聖日です。来週からは、待降節(アドヴェント)を迎え、私たちは喜びに包まれたクリスマスの季節に入ります。このような日に代々木上原教会の講壇を司る光栄に預かることが許されましたことを、主にあって、村椿牧師先生と役員会の皆様、そして教会員の皆様に心から感謝申し上げます。村上先生を補佐し、13年間この教会にあって協力牧師を至らないながらも勤めることができたのは、ただ今お読みしたロマ書8章28節、冒頭の言葉、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」の交わりに支えられていたからであることを、心から告白いたします。この聖句

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He will be sent to your Side.
Emmanuel

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