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- 城壁は崩れ落ちる
⇒「城壁は崩れ落ちる」村上 伸ヨシュア記 6,1-5;「ベルリンの壁」が崩壊してから20年。この歴史的な出来事を振り返り、二つの聖書のテキストと関連させて考えてみたい。そこには現代に生きる教会にとって重要な教訓が隠されているからである。先ず旧約聖書のを取り上げる。実は、あの激動の1989年、9月から10月にかけて私は東ドイツにいた。その内5日ほどは、テテロウのマルチン・クスケ牧師宅に滞在していた。優れたボンヘッファー研究者である彼を、日本ボンヘッファー研究会が翌年の全国研修会に基調講演者として招いたので、その細かい打ち合わせのためであった。10月11日に帰国すると、それを追いかけるようにして、翌12日付のクスケ牧師の手紙が届いた。東独では事態が急速に動いているという。切迫した息遣いが聞こえる
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- 柔和な方
⇒「柔和な方」村上 伸ゼカリヤ書9,9-10;今日から待降節(アドヴェント)に入る。「アドヴェント」とは、ラテン語で「到来」を意味する。主イエスがこの世界に生まれたということ、つまり、この世に「到来」されたということを、毎年、教会暦の一年の初めに、改めて心に刻むのである。イエスの到来。これは、我々にとってどんなに大きな意味を持っていることか!ところで、我々の教会では10年以上も前から、水曜日の「祈り会」で旧約聖書を学んでいる。イザヤ書から始めてすべての預言書を毎週1章ずつ読み進み、今、詩編の中ほどにさしかかっている。人生について、信仰について、学ぶことは実に多い。しかし、時々、閉口することもある。たとえば、「敵に対する憎悪」や「報復」がむき出しに強調されているのに出遭ったときである。先週の説
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- 主はすぐ近くにおられる
⇒「主はすぐ近くにおられる」村上 伸イザヤ書9,1-6;今日のテキストの冒頭で、使徒パウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と勧めている。「主」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことである。常にイエスのことを心に留め、彼の生き方に倣って生活しなさい。そのことが、あなたがたに深い喜びを与える。そういう意味をこめて、パウロはこの言葉を記したのであろう。しかし、主イエスのことを心に留めて生きることが、何故「喜び」なのだろうか?イエスには、自らを誇り・高ぶる傲慢さが全く無いからだ。彼は、自分を無にしてすべての人の僕となり、「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10章45節)その生涯を捧げた。これは、この世の政治的権力者や軍事指導者、あるいはウォール街に群がる投資家には全く見られない
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- わたしたちの喜び
⇒「わたしたちの喜び」村上 伸イザヤ書42,1-4;今日は降誕祭直後の主日。「ヘルンフートの星」も「アドヴェント・クランツ」も、1月6日の「顕現祭」(エピファニー)まではこのままだ。クリスマスの喜びが持続するということの象徴である。そして、今日の説教テキストはで、これもクリスマスの余韻の中で読まれる箇所である。先ず、この手紙の著者について一言述べておきたい。彼は第1世紀終わり頃の人で、ほかに第2、第3の手紙も書いており、そこでは自分を「長老」と名乗っている。そこから見ると、当時の教会で指導的な立場にあった人物らしい。ヨハネ福音書の著者と同じ名前だが、別人だろう。しかし、言葉遣いに共通のものが多く、考え方もよく似ているので、広い意味で「ヨハネの教会」に属していたと考えられる。それだけ述べた上で
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- イエスの洗礼
⇒「イエスの洗礼」廣石 望エレミヤ書31,31-34;Iキリスト教の暦で、1月6日は顕現祭(エピファニー)です。歴史的には、12月25日にクリスマスを祝う伝統と並んで、1月6日に祝う伝統がありました。これらがやがてクリスマスを祝う期間としてまとめられていったのです。西方教会では、1月6日は、キリストが異教徒に自らを現した日とされます。そのさいマタイ福音書2章の、東方の占星学者たちがベツレヘムに赤ん坊のキリストを訪ねて礼拝した、という物語が好んで読まれます。以前に暮したスイスでは、この日は「三人の王様の日/Dreikoenigstag」と呼ばれ、それにちなんだ特別なパンが町で売られていました。他方で東方教会には、1月6日を、キリストの誕生と同時に、彼の洗礼の日として祝う伝統があります。そのとき
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- 土の器に納めた宝
⇒「土の器に納めた宝」村上 伸詩編116,1-14;パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7節)と言う。「宝」とは何だろうか? 先ずそのことを明らかにしたい。『マタイによる福音書』6章19節以下には、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」とある。この「富」は、原語では「宝」と同じである。「虫が食う」。これは西陣織のような美しい織物のことだろうか。「さび付く」。これは多分、貴金属や宝石で細密な細工を施した高価な装飾品のことであろう。「盗人が忍び込んで盗み出したりする」。これは、安全な場所にしまったつもりの貴重品や現金だろう。「宝」とか「富」とかいうのは、普通、そういう「物」のことで
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- 良いもの
⇒「良いもの」廣石 望列王記上3,4-15;I先週開催された臨時教会総会で、次期主任牧師の招聘が決まりました。このことを心から喜び、神に感謝したいと思います。その喜びと感謝を胸に、パウロの手紙の一節を手がかりに、〈教会に参加しつつ生きるとはどういうことか〉について、ごいっしょに考えましょう。今日のテキストを見ると、三種類の集団がそれぞれ区別され、その関係について言われています。まずは教会内で指導的な立場にある人々、つぎに一般の信徒たち、そして最後に、教会には所属しないけれども信徒たちが共に生きている周辺社会の人たちです。Ⅱ最初に、指導的な立場の人々が、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」(12節)と描写されています。具体的には誰のことなのでしょうか。パウロはチー
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- 愛がなければ
⇒「愛がなければ」村上 伸ゼカリヤ書8,1-17; 今日の説教テキストは結婚式でよく読まれる箇所だ。パウロは「あなたがたに最高の道を教えます」(12,31)と言って、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・」(1-3節)と語り始める。一見、キリスト者の生き方に関する一般的な教えのように見える。しかし、彼は「キリスト者の道徳」を抽象的に教えているわけではない。コリント教会の中にあった具体的な問題に心を痛めて、具体的な忠告を与えているのである。当時、コリント教会には一種の「格差」が生じていた。この手紙の第1章は、そのことを暗示している。一方に「知恵のある者」・「能力のある者」・「家柄のよい者」がおり、他方に「無学な者」・「無
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- 大祭司イエス
⇒「大祭司イエス」村上 伸出エジプト記32,7-14; 今日の箇所では、キリストが大祭司になぞらえられている。一体、「大祭司」とはどのようなものだろうか? 初代の大祭司は、モーセの兄弟アロンであった。だが、このアロンは、「すねに傷を持つ」人物であった。というのは、先ほど朗読した出エジプト記32章にあるように、モーセが山に上ったまま中々下りて来ないので民衆が不安をつのらせ、「我々に先立って進む神々を造ってください」(1節)とアロンに求めた時、彼はこれに応じて「金の子牛」を造ったからである。彼は民衆と共にこの偶像を礼拝し、そして、それは倫理的退廃に結びついた。「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(同6節)。 しかし、このような罪を犯した人物が大祭司に選ばれたのは、必ずしも無意味なことではなか
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- 苦難・忍耐・練達・希望
⇒「苦難・忍耐・練達・希望」村上 伸イザヤ書53,1-5; 今日のテキストの冒頭で、パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(1節)と言っている。この美しい言葉の意味は、パウロ自身の「回心」という大きな経験と切り離しては理解できないだろう。そこで、先ず、「回心」の前と後とでパウロの信仰がどう変わったか、特にイエスとの関係で見ておきたい。回心前のパウロにとって最も大切なことは、「モーセ律法を厳格に守る」ことであった。ところが、イエスは「愛」のためには律法を破ることも敢えてした人物である。そのために「罪人として」断罪されたほどだ。回心前のパウロは、こうしたイエスの生き方を許すことができず、神聖な律法に対する
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- 神の建物
⇒「神の建物」廣石 望イザヤ書66,10-14;受難節第4主日は「ラエターレ/喜べ」という名で呼ばれます。カトリック教会やルター派教会で、この主日のために用いられる式文が「喜べ」という言葉で始まるからです(イザヤ66,10-14を参照)。受難節は悔い改めの季節とされ、その間の日曜日には断食、じっさいには肉食を断つことが行われました。悔い改めを象徴する色は「紫色」です。他方、この第4主日は別名「薔薇の日曜日」とも呼ばれ、「ローザ色」に象徴されるように、喜びが主題です。悔い改めの季節にあって、いわば〈中休み〉のようなこの主日には、肉食が許されたそうです。私たちの教会は、教会歴にちなんだ諸習慣をもはや持っていません。それでもこうした伝統をふりかえりつつ、パウロのテキストを手がかりに、教会にとって受
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- 涙を流しながら
⇒「涙を流しながら」村上 伸イザヤ書53,1-12; 先ず、7節に注目する。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…」。この言葉は、イエスがゲッセマネの園で祈られた場面を思い起こさせる。 マルコ福音書14章によると、最後の夜、死が間近に迫ったのを覚悟したイエスは祈るためにオリーブ山に登り、弟子の中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて「ゲッセマネという所」(32節)に入った。その時、「イエスは、ひどく恐れてもだえ始め」(33節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)と言われた。同じ場面を、ルカは「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22章44節)と
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- イエス・キリストは主である
⇒「イエス・キリストは主である」村上 伸イザヤ書42,1-4;今年、「棕櫚の聖日」の説教テキストには、フィリピの信徒への手紙2,1-11が選ばれている。今日は、この箇所について共に考えたい。前半(1-5節)で、パウロは、キリスト者の生き方について、あるいは教会生活の在り方について教えている。先ず1節で、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と言う。これは、互いの関係を正しく保つための前提である。つまり、共にキリストを見上げて励まし合う。神の愛を信じて慰め合う。神から注がれる「いのち」の力によって上っ面でない交わりをする。そして、互いに慈しみと憐れみの心を忘れない。その上で2節では、パウロは、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き
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- 私は主を見ました
⇒「私は主を見ました」II マグダラのマリアは実在の歴史上の人物です。そして彼女は生前のイエスを知っています。 彼女の出身地「マグダラ」はガリラヤ湖西北岸にある町で、アラム語で「ミグダル・ヌーンナヤー/魚の塔」と呼ばれます。ギリシア語名は「タリケイアイ/魚の塩漬け工場」。ともに「魚」という語が出るのは、この町がガリラヤ湖でとれる魚を塩漬け、ないし塩汁付けにして、エルサレムはおろか、はるか遠くローマにまで輸出していたことに関係があります。この都市は、ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば人口「4万」を擁したとのこと(『戦記』II, 608他)。にわかには信じがたい数字ですが、数キロ離れた同じガリラヤ湖西岸のティベリアに都を移した領主ヘロデ・アンティパスが、この新しい行政の中心地と連動させるかたちで、
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- 神を愛するとは
⇒「神を愛するとは」村上 伸エレミヤ書31,15-17; 1節に「イエスがであると信じる人は・・・」とある。新共同訳は「メシア」と訳しているが、口語訳や文語訳では、「イエスのであることを信じる者は・・・」となっていた。「メシア」はヘブライ語で救世主のことだが、そのギリシャ語訳が「キリスト」であるから、どちらでも同じことだ。 教会に通い始めて、イエス・キリストの名を聞いたとき、私は単純に「イエスは名前で、キリストが苗字なのかな」と思っていた。だが、無論、これは単なる姓名ではない。「イエスこそキリスト(救世主)である」という、最も短い形で言い表された真剣な信仰告白なのである。 このように簡潔な信仰告白は他にもある。良く似ているのが、「イエスは主である」(ローマ10章9節;コリント一 12章3節な
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- すべての人々のための祈り
⇒「すべての人々のための祈り」村上 伸出エジプト記32,30-35;テモテは、小アジアのリストラで生まれた。母はユダヤ人キリスト教徒、父は異教徒である。この青年とパウロが知り合ったのは、パウロが第二次宣教旅行の途中でこの町に立ち寄った時であった(地図3参照)。そして、テモテの人柄に感銘を受けたパウロは、彼の宣教旅行に一緒に来て欲しいと求めたらしい。使徒言行録17章以下にテモテの名が時々現われるようになったのは、そうした経緯による。パウロは、テモテを「信仰によるまことの子」(1章2節)と呼ぶ程に深く信頼し、しばしば重要な仕事を任せた。1章3節を読むと、テモテがその時、教会形成の任務を帯びてエフェソに残っていたことが分かる。そしてパウロは、この若き同労者に牧会上の助言を書き送った。まず第一に勧め
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- 神の定め・神の道
⇒「神の定め・神の道」村上 伸イザヤ書45,18-19; ペンテコステの直後の日曜日である今日は、「三位一体主日」と呼ばれている。聖霊降臨によって「父なる神」・「御子イエス・キリスト」・「聖霊」の三つが揃い、しかもその三つが一体であることが明らかになったからである。だが、「三位一体」というのは中々分かりにくい。ユダヤ教徒やイスラム教徒は、「神は唯一である」と固く信じるので、まるで神が三人いるかのように聞こえる「三位一体」には強く反対するが、同じような理由で「三位一体」に反対する人はキリスト教徒の中にもいる(ユニテリアン)。また、「三位一体」という概念は後の教会によって作られた教義で本来聖書にはない、ということも反対する理由として挙げられる。しかし、それでは「三位一体」が聖書の信仰に反している
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- 霊が鳩のように
⇒「霊が鳩のように」村上 伸ヨエル書3,1-5; イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとき、「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」(10節)という。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声が天から聞こえた。この時、イエスは自らの生涯の使命を自覚されたのであり、これは聖霊の働きであった。さて、聖霊は「鳩のように」降って来たというが、このことには何か特別な意味があるのだろうか? 私は興味をそそられて、キッテルの『新約聖書神学辞典』で「鳩」(ペリステラ)の項目を調べてみた。いろいろなことが分かった。では、鳩は「神の鳥」・「霊鳥」であった。最高神ゼウスを鳩で表現したコインがクレタ島で出土した。また、鳩は神々に捧げる犠牲用の鳥だからと
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- 愛には恐れがない
⇒「愛には恐れがない」村上 伸申命記15,7-11; 16節後半に、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」とある。「とどまる」とは、「あなたがたの内にいつもある」(2章14節)、あるいは、「わたしたちと共にある」(2ヨハネ2節)という意味である。 「神が愛である」と信じ、この信仰を支えとして生きるとき、私たちと神との間には常に生き生きとした関係が保たれる。この深いつながりは、決して断たれない。神に愛されていると信じる限り、私たちはどんなに苦しい時でも、神に向かって「アッバ、父よ」(ローマ8章15節)と呼びかけることができるし、ルターが言ったように、私たちの「言葉にもならない、呻きでしかないような祈りでさえも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」の
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- 敵を愛しなさい
⇒「敵を愛しなさい」村上 伸私が子どもの頃行っていた幼稚園には「イジメッ子」がいて、よく泣かされました。帰り道でもまだ泣いていると、妹が私の背中を抱いて、「ヒロちゃん、泣かないのよ」と慰めてくれたことがあります。それくらい「泣き虫」でした。小学生になると、お父さんの仕事の都合でよく学校を変わりました。一年生に上がったのは船橋ですが、その年の夏にはもう満州の新京という町に引っ越し。2年生になると、今度は名古屋です。そこでは2回も学校を変わりました。3年生の2学期からはやっと東京に落ち着きました。目黒区の鷹番小学校です。そこには卒業まで3年半いたので友達もできたし、楽しかったのですが、数えてみると、小学校の6年間に5回、転校をしたことになります。中学・高校の6年間では、6回です。転校はとてもイヤ

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
