神を愛するとは

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「神を愛するとは」

村上 伸
エレミヤ書31,15-17;

 1節に「イエスがであると信じる人は・・・」とある。新共同訳は「メシア」と訳しているが、口語訳や文語訳では、「イエスのであることを信じる者は・・・」となっていた。「メシア」はヘブライ語で救世主のことだが、そのギリシャ語訳が「キリスト」であるから、どちらでも同じことだ。

 教会に通い始めて、イエス・キリストの名を聞いたとき、私は単純に「イエスは名前で、キリストが苗字なのかな」と思っていた。だが、無論、これは単なる姓名ではない。「イエスこそキリスト(救世主)である」という、最も短い形で言い表された真剣な信仰告白なのである。

 このように簡潔な信仰告白は他にもある。良く似ているのが、「イエスは主である」(ローマ10章9節;コリント一 12章3節など)というものだ。「主」(キュリオス)とは「支配者」のことである。当時、地中海世界の支配者はローマ皇帝であったから、「皇帝は主である」と言われることも多くあった。しかし、皇帝の政治的支配権は、部分的・一時的なものに過ぎない。

もっと大きな視野から歴史を見ていたキリスト信徒は、「イエスは主である」と信じた。フィリピ2章10-11節に、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」と言われているように、復活のキリストこそは人類の歴史を導く光であり、真の意味で「主」(支配者)だ、と告白したのである。

私たちの教会の門の上に、魚のエンブレムがある。これは元来、初代の教会が迫害を避けて秘かに地下の「カタコンベ」(墓)で礼拝を守っていた頃に、いわば「符牒」として使われたものである。「イエス・キリスト・神の・子・救い主」というギリシャ語の頭文字を集めると「魚」(イクシュス)という語になるところから来た。オスカー・クルマンによると、これも最古の信仰告白の一つだと言う。

 

さて、「イエスは主である」、という信仰告白の意味は何だろうか? なぜ十字架上で殺されたイエスが「主」なのか?

この信仰告白は、中世になると本来の意味を離れて、「キリストが政治的にも最高の権力を持つ」という意味で理解されるようになっていった。第4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になったことがその始まりである。もともとは社会の底辺で苦しむ人々の支えであったイエスの十字架の福音、「奴隷たちの宗教」と言われていたキリスト教が今や帝国の最高権力と結びついて、次第にイエスの「下からの視点」を失い、専ら支配者の視点で物事を考えるようになってしまった。

しかし、「イエスが主である」という信仰告白には、本来、そのような権力志向的な意味はなかったのである。今日のテキストに「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(2節)と言われていることに注目したい。「イエスが主である」という信仰を告白することは、「神を愛する」ことであり、それは「神の子供たち」、つまり、神が造られたすべてのものを愛することである。

続いて3節には、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と言われている。「神の掟」とは何だろうか?がそのことを明らかにしている。そこには、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」と書いてある。神の掟は、ただひたすら愛することを私たちに命じている、というのである。

イエスご自身も、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22章36節)と律法学者に質問されたとき、の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という聖句を引用して、「これが最も重要な第一の掟である」(38節)と言われた。そして、それに続けて、「隣人を自分のように愛しなさい」を引き、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(40節)と言われた。旧約聖書には多くのことが書いてあるが、その中心・そのエッセンスは「愛」を命じるこの二つの掟に尽きる、というのである。

今日の箇所でヨハネが、「神を愛する」とは「神の掟を守る」ことだ、と教えているのも同じ意味であろう。そして彼は、「神の掟は難しいものではありません」(3節後半)と続けている。これは、「先ず難しさに心を奪われ、それを口実にして考え込み、結局は掟に背を向ける」ことを禁じた言葉ではないだろうか。ボンヘッファーは、その意味で、神に従うということは「単純なこと」だと言ったのである。

アッシジのフランチェスコ(1182-1226)も、こうした口実を持ち出さない。単純に、神の掟に従って生きた。彼は、神が造られたすべてのものを、「神の子供たち」として、「兄弟・姉妹」として愛した。彼は森の小鳥たちや川に棲む魚たちを愛し、凶暴な狼をも愛した。『太陽の賛歌』には、兄弟なる太陽、姉妹なる月や星、兄弟なる風・空気・雲・空・季節、姉妹なる水、兄弟なる火、姉妹なる大地・果物・花・野の草、赦す心を持った人々、そして最後は、姉妹なる死を愛した。

イエスのように、あるいはフランチェスコのように、自らを低くして他者に仕え、隣人を愛し、被造物すべてを愛すること。そこには、この世で信じられている価値の順序を根本的に引っくり返すような真理がある。今日の交読文(コリント一 13章)にあったように、愛こそが最高の価値なのである。

「イエスが主である」と告白することは、これを信じることに他ならない。



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