敗北が勝利に」
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
“敗北が勝利に”ということを考えてみました。
サムエル記上の7章を見ると、イスラエルを苦しめたペリシテ人に対するイスラエルの勝利が記されています。この時代、イスラエルの民は、神の臨在の象徴とも言える「契約の箱」を失い、20年間もぺリシテの圧制に苦しめられていました。そのとき、民は心を一つにして、自分たちの罪を悔い改め、全焼のいけにえを捧げて、主に助けを求めて熱心に祈ったのです。
イスラエルの民の悔い改めと祈りを聞かれた神は、イスラエルに大勝利をもたらされました。この勝利は、決定的な勝利でした。そして、その勝利は全焼のいけにえの子羊を捧げた直後にもたらされた勝利でした。そこで彼らは、「主が私たちを助けてくださった」と言って、エベン・エゼルと名付けた地に記念の石を置き、主に感謝を捧げたのです。これには霊的なメッセージがあります。つまりそれは、神の小羊イエス・キリストの十字架の贖いこそ、私たちの人生を決定的な勝利へと導くものであるということです。そして、「主が私を助けてくださった」ということを経験した者は、神にすべての栄光を帰し、すべての事に感謝して生きるべきだということです。
人生の節目節目で、神に感謝を捧げることのできる人生は幸いです。私たちを究極の感謝へと導くものは、イエス・キリストの十字架と復活です。なぜなら、それによって私たちに永遠の命が保証されるからです。これが、キリストを信じる者に、すべての事において勝ち得て余りある人生が与えられている所以です。
実は、エベン・エゼルはかつてはイスラエルが敗北した場所でした。そして、その同じ場所で今度は大勝利を得たのです。罪を捨て、真剣に神を求めるとき、敗北の場所が勝利の場所になるということです。罪のゆえに、かつては敗北を味わった場所であっても、イエス・キリストを信じる時に、その同じ場所が勝利の場所に変えられるのです。
主イエスは、
「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われました。
これは、私たちが一日を周期として生きるべきであることを教えられる言葉です。その一日を精一杯に生きれば、それが最高の生き方だということです。一日が終わると、太陽が沈んで夜となり、心身を休めて、また次の日には太陽が昇り一日が始まります。ですから、神に信頼するならば、明日のための心配は無用なのです。もし私たちが明日の事を心配して生きるなら、今日を生きる力を失ってしまいます。明日の労苦のためには、また明日神が力を下さるので、明日の事は主にゆだねて心配しなくてもいいのです。明日は確かに未知の世界ですが、主が共におられることを覚えるなら平安があります。主は、私たちが一歩進むごとに道を開き、また新たな道を示して下さるのです。ですから、どんな道も、その一歩を踏み出さなければ次の場所には行けませんし、主の備えもありません。次の場所に行って初めて主の備えがあることを知るのです。あのアブラハムも、モリヤの山に来るまで、神が備えておられた雄羊を見ることはありませんでした。神は、必ず必要なときに必要なものを備えて下さる方です。しかし、その場所まで足を踏み入れるのは私たちがすべきことです。あなたも、主が共におられることを覚えて一歩を踏み出すなら、そこに主の備えを見るのです。
今日の一言: 主は敗北を勝利に変えてくださる鶴田健次
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