神の力強い御手

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「神の力強い御手」

村上 伸
詩編55,17-23;

 『ペトロの手紙一』は、紀元1世紀の終わりか、2世紀の初め頃に書かれたと言われている。ローマのトラヤヌス皇帝がキリスト教を禁止する法律を作ったのが紀元110年頃と言われるが、そのためにキリスト教徒は迫害に遭うことになった。その中で、苦しむ同信の仲間を励ますために、一人の指導者が、恐らく使徒ペトロの名を借りて、この手紙を書いたのである。冒頭の1章6節に、「あなたがたは・・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれない」とあるのは、そのような迫害状況を示している。今日読んだ5章に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)とあるのも同じだ。

 さて、迫害の苦しみに耐え抜くためには何が必要だろうか?

 それは「神の力強い御手の下で自分を低くする」(6節)ことだ、と著者は言う。言葉を換えれば、「思い煩いは、何もかも神にお任せする」(7節)ことであり、「信仰にしっかり踏みとどまる」(9節)ことである。だが、一番重要なことは、「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる」(10節)という「終末論的な希望」である。この希望こそは、どんなに大きな苦しみの時にも耐え抜く力を与えるものだ。パウロが「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ローマ8章18節)と言ったのも、同じ意味であろう。

 

ここで、「神の力強い御手」について、もう少し考えておきたい。

人間は、しばしば、「自分の強さ」を誇示して相手と張り合うために「神の力」を持ち出す。戦争も、多くはそのような意地の張り合いから始まる。第一次世界大戦の際、ドイツ軍の兵士たちが冠っていた鉄兜には、Gott mit uns!(神は我らと共に在す!)というスローガンが刻まれていた。「神は我々の側におられる、故に、我々は敵よりも強い」と兵士たちに暗示をかけるために、戦争を始めた指導部が思いついたもので、これは根拠のない「強がり」である。「神の力」とは何の関係もない。

昨日はニューヨークであの悲惨な「同時多発テロ」が起こってから9回目の記念日だったが、アメリカ・フロリダ州のあるキリスト教会の牧師が、その日を「コーランを燃やす日」にしようと呼びかけて波紋を広げた。彼の主張によれば、9・11は「邪悪な宗教であるイスラームが惹き起こした憎むべきテロであり、コーランはその元凶であるから、焼いてしまわなければならない」というわけである。

むろん、世界のキリスト教会がそんな愚かなことに同調するわけもない。バチカン教皇庁を始め世界中の多くのキリスト教会は、この計画を止めさせようと直ちに反対の声を上げた。結局、その牧師は直前になって計画を断念したが、気がかりなのは、こういう考えを支持する人々(宗教右派)がアメリカの南部には決して少なくないという事実である。この人たちは、しばしば「原理主義的な」思い込みに基づく自分たちの行動を、「神の力強い御手」を地上で代行するものと勘違いしている。

ドイツの全プロテスタント教会を網羅する「ドイツ福音主義教会」(EKD)は、今回の計画を「耐え難い挑発だ」として厳しく批判した。この批判の背景にはおぞましい「焚書」の記憶がある。これは、1933年5月10日、ナチスが「非ドイツ的」な書物をベルリンの「国立オペラ座」の隣の広場に積み上げて焼いた事件である。その時焼かれた書物には、19世紀前半のドイツの国民的詩人ハイネや、精神分析のフロイトなど、多くの優れた思想家や文学者の作品が含まれていた。本を焼くということは、それを書いた人を否定し、殺すことと同じである。これは野蛮な行為だ。

現在、その広場の地下にはユニークな記念碑が作られており、地上からはガラス窓を通して覗くことが出来る。中には、焚書がもたらす文化的荒廃を象徴するように、空っぽの本棚があるだけだ。そして、その傍に「書物を焼いたりすると、やがて人間を焼くようになる」というハイネの言葉が刻まれている。この預言が、100年後にアウシュヴィッツ強制収容所などで現実になったことを、心ある人々は忘れることができない筈だ。「神の力強い御手」は、そんな偽りの強さとは何の関係もない。

 

私たちは、独りよがりの・根拠のない「強がり」は捨てて、真に「神の」御手に自らを委ねなければならない。そして、「神の力強い御手」とは、要するに「イエスに現われた神の御手」のことではないか。

主イエスは、「暗闇」・「死の陰の地」などと呼ばれていたガリラヤで、場合によっては律法違反という理由で断罪される危険を冒してまで、心や体を病む多くの人々の傍へ近づいて行き、その人たちの「手をとって起こし」(マルコ1章31節)、「手を差し伸べてその人に触れ」(同41節)、「その一人一人に手を置いていやされた」(ルカ4章40節)。またイエスは、「わたしがで悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(ルカ11章20節)と言って、神の国が決して空約束ではないことを示された。生涯の終わりには、世界の罪を全て一身に背負うようにして死なれたが、その時、彼の両手は太い釘で十字架に打ち付けられていた。

「神の御手」とは、このイエスの手のことである。それは強さを誇示するような手ではない。愛と、憐れみと、それ故の痛みに満ちた手である! 「神の力強い御手の下で自分を低くする」とは、このイエスの手に注目して謙虚に生きることであり、自分たちの手を働かせて、人々の間で少しでもイエスに似た愛を実践することに他ならない。



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