休ませてあげよう

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「休ませてあげよう」

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

東北大震災(2011.03.11):

 東北地方の太平洋沖で巨大地震ならびに津波が起き、多くの人たちの尊い<いのち>が奪われました。私は昨年の2月に郡山、仙台の教会を訪ねました。神学校時代の同級生にも会いました。3つあった集会のうちの2つは、東北教区の集会でしたから、もしかするとあの時、集会に参加しておられた人たちの中に、被災された方、亡くなられた方がおられるのではないかと心を痛めています。

 いち早く震災後の東北各地に入った同僚のひとりに、兵庫教区の被災者生活支援・長田センターの柴田信也牧師という方がいます。長田センターというのは、1995年に起きた阪神大震災の後にできたものですが、兵庫教区はこのセンターを廃止することなく、専属の牧師を置いて、今日まで活動を続けています。阪神大震災から約15年もたっているのに、なぜこのセンターが活動を続けているかと言いますと、町並みは元どおりに復興しましたが、いや道路や建物はかつて以上に立派になりましたが、そこにまだ取り残されている人たちがいるからです。私は最近の活動について聞いたことがありますが、震災が人々の暮らしや心に与える影響がどんなに長く尾を引くものであるかを考えさせられました。その阪神大震災よりもさらに大きな被害をもたらした今回の地震と津波、そして原発の事故は、今後、何十年にもわたって大きな爪跡を残すのではないかと思います。

 そういう現実を前にしながら、私たちの生活はもとに戻りつつあります。ちょうど1週間が過ぎた先週の金曜日あたりから、テレビの番組もほぼ通常の状態に戻りました。まだまだ不便な部分がありますが、今週からは企業も学校も元どおりの活動を始めるのかもしれません。

 一方で、まだまだ援助物資が届かない人たちがいて助けを求めているのに、一方では何事もなかったかのように人々が暮らしていくことに、私はとても違和感を持ちます。みなさんも同じような違和感をもっておられるのではないでしょうか?

 そうは言っても、私たちは私たちの仕事があり、また生活があり、それをストップさせることはできないことも事実です。私は、日本は、ここで立ち止まってエネルギーの問題、社会の問題、私たち自身の生き方の問題をゆっくりと考えてもいいのではないかと思います。「立ち止まらずに、歩きながら考える」ということも可能なのかもしれませんが、問題なのは、歩きながら考えると言い訳して何もせず、何も議論しないまま、今までどおりに歩み続けることです。そうだとしたら、それはとても愚かなことではないでしょうか。

不安を感じる時:

 さて、私たちは、苦しいことや、悲しいことがあると、不安やストレスを感じると、それから逃れようと努力します。しかし自分の置かれている状況を変えたり、周囲の人たちとの関係を改善したりして、問題そのものを克服することは大変なので、楽になるために自分の「心のありよう」を変えようとします。

 「心のありようを変える」というのは、「苦しいことがあっても、苦しいと思わないようにする」、「悲しいことがあっても、悲しいと思わないようにする」‥‥というやり方です。つまり、不安やストレスを感じる場合に、不安をひきおこす原因を探らず、あるいはストレスをもたらす根源を解決せずに、不安やストレス自体にふたをし、それを覆い隠し、不安やストレスがないかのように生活することです。その場合に、心の中から、「苦しみ」や「悲しみ」という感情そのものを持たないようにし、不安やストレスを心の奥に閉じ込めて、それで空白になった心の中に、別の何かの「感情」を入れて満たそうとします。しかしそれでは何の解決にもなりません。

 先週、首都圏の各地で、生活必需品を買いだめする人たちがいました。不安にかられての行動だったと考えられます。不安になるのは、当然です。だから冷静に、自分たちの社会や生活を点検し、必要なことを提案し、実行に移していく‥‥というようになるといいと思います。また災害に備えて防災に必要なものを用意するとか、いざというときのために備蓄することはとても大切なことです。それは今後も大いにやるべきです。でも多くの人たちは、ただ不安にかられ、その不安を取り除こうとし、安心さを買おうとして、衝動的に買いだめに走ったのではないでしょうか。もし、私たちの心の中にある「不安感」を取り除き、「安心感」で心を満たそうとしてたくさんの商品を買い込んだだけであるならとても残念です。なぜならそれによって、「不安」をもたらす原因が克服されるわけではないからです。お米やパン、トイレットペーパーや乾電池をたくさん並べて、「ああ、これで安心だ」と思い込もうとしても、何の解決にもなりまん。

不安をどのように克服できるのか:

 苦しいできごとがあるときに、苦しみを感じるのは当然のことです。職場で失敗をしたとか、試験に落ちたとか、何らかの不幸に襲われるときに、落ち込むのは当然のことです。問題は、そのような場合に私たちがどう対応するかです。

 落ち込んで、眠れない日々が続いても、時間がたてばやがていやされることがあります。泣くだけ泣けば、すっきりすることがあります。

 現代の日本には、心にやまいを持つ人が増えているという報告があります。心がやまいにかかるのには、いろいろな理由があると思いますが、現在の日本に生きる私たちの最大の問題は、「苦しんで当然なのに、苦しまないようにすることにある」と言えます。

 時間の流れをとめて、休みをとって、苦しむだけ苦しんだら、そして自分ひとりで悩まずに、いろいろな人たちの助けを借りれば、やがて何らかの解決の仕方が出てくるはずなのに、時間にせき立てられ、それだけの余裕がなくて、自分の思いを無理矢理、取り除こうとしたり、心の奥底に閉じ込めてしまう‥‥そういうことを繰り返していると、心がこわれてしまいます。

 現代の私たちは、時間の流れにせき立てられ、「苦しみや悲しみとのつきあい方」、「不安やストレスとのつきあい方」を忘れているのではないでしょうか。心のやまいがふえつつある社会の中に生きる者として、私たちは、「苦しみや悲しみとのつきあい方」、「不安やストレスとのつきあい方」を改めて学ぶ必要があるのではないでしょうか。

 いやなことがあるから、お酒を飲んだり、おいしいものを食べたりする人がいます。いろいろ考えていると不安にかられるから、テレビやゲームに夢中になる人もいます。私たちには、「息抜き」も必要です。だからそういう「気休め」がすべて悪いと言うつもりはありません。しかし、そのような方法で一時的にもやもやした気持を吹き飛ばすことできても、たとえ気を紛らわすことができても、問題は何一つ解決されないということです。

 私たちはどうすれば重荷をおろして、自分を休め、そして新たに力を得て、不安以外のもので心を満たすことができるのでしょうか。もし私たちが心を休め、新たな力を得て歩むことのできるオアシスのような場所があるとしたら、それはどこなのでしょうか。

 それは「教会」です。そこで私たちは、イエスに出会うことができます。イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。また「あなたがたは安らぎを得られる」とも言われました。イエスこそ、そしてイエスを遣わした神こそ、私たちから「疲れ」や「重荷」を取り除き、休ませてくださる方です。そして、私たちはイエスから、神から、安らぎを得ることができます。

 しかしどうして私たちはイエスから安らぎを得ることができるのでしょうか。教会には何があるから、教会はオアシスだと言えるのでしょうか。ただ何となくそう思えるということではなく、私たちはどうしてそう言えるのかをはっきりとらえておくことが大切だと思います。

 私たちは、教会で二つの出会いを体験することができます。それが大切なことです。

 ひとつは、イエス・キリストとの出会いです。もうひとつは、キリストに従おうとするさまざまな人たちとの出会いです。

十字架のキリストとの出会い:

 私たちが教会で出会うことになるのは、第1に、十字架にかけられたイエスです。私たちは、まさにこの地上で苦難の道を歩まれた方、そして十字架にかけられた方に出会うことになります。

 私たちは、人々から見捨てられ、孤独を強いられ、苦しみ、涙を流されたイエスを、教会で知るのです。私たちと同じように、いや私たち以上に苦しみ、悲しまれたイエス。執拗に追い回され、捕らえられ、最高法院や大祭司やローマ総督のところに引きずり回されたイエス。もし私たちがそのような状態にお言いったら、不安やストレスを感じるどころか絶望することになるでしょう。そういう十字架にかけられたイエスが、私たちを教会で迎えてくれるのです。そのイエスが、私たちの苦しみや悲しみを知って、しかも私たちの罪や私たちの弱さを知りながら私たちを赦し、私たちを招き、「重荷を下ろしなさい、休ませてあげよう‥‥」と言ってくださるのです。

 私たちは、このイエスによっていやされ、悔い改めさせられ、みずからを回復させられることになるのです。

 さてイエスはここで、「休ませてあげよう」、「安らぎを与えよう」と言われました。だから私たちは、イエスのもとで安らぎを得て、新たに歩みだすことができるのですが、イエスは、それだけを語ったのではなく、さらに「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」、「わたしの軛(くびき=車を引かせるために牛馬の首にかける横木)は負いやすく、わたしの荷は軽い‥‥」と言われました。これはどういうことなのでしょうか。

 イエスはここで、重荷をおろして、「イエスに学んで歩みなさい」、「新しいくびき、新しい荷を負いなさい‥‥」と勧めています。「新しいくびき」、「新しい荷」、「イエスに学ぶこと」とは、いったい何でしょう。それは私たちが「神の国の福音」に生きること、私たちが「イエスとともに」歩むこと、そして「イエスに従う人たちとともに」歩むということです。

ともに祈り、支え合う人たちとの出会い:

 私たちは教会で十字架のイエスと出会うことによって、さらに、イエスに従おうとするさまざまな人たちと出会うことになります。これが第2の出会いです。

 教会は、苦難の道を歩み、十字架にかけられた「イエス」と出会い、またその「イエスに従う人たち」と出会う場所です。私たちはそこで、それぞれの苦しみや悲しみ、不安やストレスを「共感」してくれる人たちとの交わりに連なることができます。そしてともに祈り合い、ともに生きることができます。

 私たちの苦しみを知られ、私たちとともに歩んでくださるイエスがいて、そもイエスとともに歩もうとする仲間がいるからこそ、私たちは孤独にならず、見捨てられたと考えることなく、歩むことができるのです。そういうイエスと、また仲間と神の国を目指して歩むからこそ、不安やストレスを、お互いに担い合い、それを一時的に解消するのではなく原因を明らかにし、根本的な問題を解決するために歩み出すことができるのです。ヨハネの黙示録に描かれている来るべき未来は、苦しみも、悲しみも存在しない世界、そもそもそれを引き起こす原因が存在しなくなる世界です。光と喜びが満ちている世界です。そのような世界をめざして私たちはともに歩むことができるのです。

 だから私たちは、苦しみや不安を、一人で背負い、一人で解消しようとする必要はないのです。それをよくわかっておられるイエスが、私たちの道と、この世の光となってくださるからです。そして祈り合える仲間がいて、実際にともに歩むことができるからです。

 地震や津波などの災害に対する不安、原子力発電所に対する不安というものは、私たちの心が弱いからわたしたちが抱く不安ではありません。自然は、私たち人間の力をはるかに越えるものです。不安を抱くことなく、安心してしまったら、そのことのほうが問題です。また原発は、そもそも不安を抱いて当然のものなのではないでしょうか。「不安はない」‥‥と主張する人たちがいるいことも承知していますが、原発が存在する限り、不安を抱えることになるのだということを、もっと多くの人たちが自覚すべきだと思います。

 苦しみや不安を感じると、私たちは自分だけがなぜこんな目にあわされるのかと、孤独になりますが、まずイエスがその不安を共有してくださいます。そして、私たちどうしも祈り合い、共有し合うことができます。そしてイエスに学びつつ、またともに祈りつつどこに根本的な問題があるかを探ることがでます。そして私たちはお互いの重荷を担い合い、ともに支え合いながら、力を合わせて不安をもたらす根源となる問題を克服するために歩むことができます。

 神さまに見守られながら、ともに力を合わせて、人間の罪の問題や、私たちの生き方の問題をともに考える者となりましょう。不ともに不安をもたらす根源を絶ちきる者となりましょう。すぐにすべての問題を解決することはできないかもしれませんが、問題解決のために、ともに祈り、ともに力をあわせ、神の国をめざして歩む者となりましょう。

祈り:

神さま、
東北沖で地震や津波が起こり、その影響で原子力発電所が事故を起こしました。
被災地ではあらゆる人たちが大きな困難の中に置かれています。多くの人たちが不安を感じています。
困難な状況にあるすべての人たちが、あなたにあって平安を得ることができますように。
ともに重荷を担い合い、課題を共有し、
困難な状況を克服するために歩み出すことができますように。
一人で悩むのではなく、
あなたが常に私たちを支えていてくださることを覚え、
私たちどうしも、ともに祈り合い、
希望をもって歩み続けることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

The Cross Pendant

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He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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