王なるイエスの元年

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 (マタイ28:18-20)

イースター(復活祭)は過ぎてしまいましたが、教会暦ではペンテコステまでは「復活節」が続いていますので、今回はイエスの復活について書きたいと思います。

ルカとヨハネの福音書によると、復活したイエスはエルサレムとその周辺でも弟子たちに現れましたが、マタイはパレスチナの北部に当たるガリラヤでの復活顕現を強調します。ユダを除く11人の弟子たちはイエスに指示された山に登り、そこで復活の主と出会いました(16節)。マタイの福音書では「山」は神の啓示を受ける特別な場所、という象徴的意味があります(山上の説教、変貌山など)。

18節から始まるイエスのことばは、マタイ福音書の結論にあたる大変重要な部分です。まずイエスは「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」と語ります(18節)。イエスの復活は、主にすべての権威が与えられた、ということを意味しています。つまり、全宇宙を治める王となったということです。このことは天に昇って父なる神の右の座に着座されることによって公に実現しますが、復活の時点ですでにこのことは確定している、ということでしょう。

イエスは復活してすべての主となられた。この事実が、この後語られるすべての根拠になります。この箇所では「すべて」を意味するギリシア語が繰り返し使われます。「いっさいの権威」(18節)、「すべての国民」(19節)、「いっさいのことを守るように」(20節)、「いつも(直訳:すべての日々に)」(20節)――イエスがすべての主となられたので、この世界のすべては永遠にその支配の中に入れられるということです。これはダニエル書7章に登場して、国々を支配する権威を神から授けられる「人の子」の記述を思い起こさせます。

この福音書は、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである 」(20節)というイエスのことばで終わっています。マタイ福音書の冒頭で、イエスの誕生が予告された時、その名は「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれる、とマタイは語りました(1:23-24)。けれども、不思議なことに、マタイ福音書の中で(あるいは新約聖書の他のどの箇所でも)、イエスが実際に「インマヌエル」と呼ばれている箇所はありません。しかし、具体的な名前は出てこなくても、インマヌエルテーマが、マタイの福音書の結末部分でもう一度出てきます(これはインクルージオと呼ばれる文学技法です)。しかし、これはどのような意味を持っているのでしょうか?

イエスが弟子たちと世の終わりまで共におられる、ということは、イエスが個々のクリスチャンと共におられる、という個人主義的な信仰の観点から理解されることも、教会の働きの中におられるという宣教的観点から語られることがあります。しかし私は、この箇所は同時にキリスト論的にも重要であると考えます。つまり、イエスが弟子たちとともにいる、という発言は、イエスご自身がどのような存在であるかについても大切なことを語っているのです。

そもそも、マタイが1章でインマヌエルのテーマを導入した時に語ったのは「神が」共におられる、ということでした。ところが、28章で語られるのは、「イエスが」共におられる、ということです。ここでマタイはインマヌエルのテーマの繰り返しの中で神をイエスに置き換えることで、イエスを神と重ねて表現していると言えます。このことは、復活のイエスに出会った弟子たちが彼を礼拝した(28章9、17節)という記述からも伺えます。

ところで、インマヌエルのテーマでよく知られているのは、イザヤ書7章14節であり、マタイ1章でもここから引用されています。しかし今回は、同じ「神が共におられる」というテーマを扱いながら、比較的論じられることの少ない旧約聖書の箇所について述べたいと思います。

キリスト教の聖書の配列とは異なり、ヘブル語の旧約聖書(タナク)はマラキ書ではなく歴代誌で終わっています。その最後の部分はこうなっています。

ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。(2歴代誌36章22-23節)

歴代誌はイスラエルの王国時代の歴史を描いた書ですが、バビロンに捕囚されたユダの人々が、バビロンを滅ぼしたペルシア王クロス(キュロス)によって解放されたところで終わっています。この部分は、マタイ福音書の結末部分といくつもの共通点を持っています。*

どちらの話でも、すべてを治める絶大な権威を神から委ねられた偉大な王が登場します。イエスの場合、天地を治める権威を与えた主体は明示されていませんが、当然神であることが暗示されています。歴代誌で注目すべきことは、異邦人の王であるキュロスが自分に権威を与えた存在が「天の神、主(ヤハウェ)」であると明言している点です。キュロスはイザヤ書45章1節では「油注がれた者」すなわちメシア(キリスト)と呼ばれています。

この「キリスト」であるキュロス王は、即位するとすぐ(「元年に当り」)、その権威に基づいて、神がともにいるという約束とともに、神の民を派遣するのです。この部分は口語訳ではわかりにくいですが、新改訳では「あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神、主がともにいてくださるように。その者は上って行くようにせよ。」となっています。

旧約聖書に精通していたマタイがその福音書をしめくくるにあたり、歴代誌の記述を念頭に置いていたことは十分考えられます。じっさい、歴代誌もマタイ福音書も系図から始まっているというのも興味深いことです。どちらの書も、選ばれた神の民がその苦難から解放されたことを語り、新しい時代の幕開けを宣言して終わっています。

もちろんマタイにとって、イエスはキュロスよりも偉大な、すべてを治める王なるキリストです。キュロスは天の神から地上の国々を支配する権威を授けられました。しかし、イエスは地上の国々を治めるだけでなく、「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と語ります。またキュロスは遣わされていく民とともに神がいてくださるように、と語りますが、イエスはご自分自身が弟子たちとともにいる、と語られるのです。つまり、マタイにおける復活のイエスは、神から王権を受けたメシア(キリスト)であると同時に、神ご自身でもあるのです。

けれども、歴代誌とマタイ福音書では一見すると大きな違いがあるように見えます。歴代誌では、バビロンに捕囚されていたユダの民がエルサレムに戻って、主の神殿を建てるようにと命じられます。けれども、マタイの福音書では、弟子たちは全世界に出ていって、すべての国の人々を弟子とするように命じられているのです。これはどう考えたらよいのでしょうか?

おそらくマタイはここで、新しい「神殿」の概念を提示しているのではないかと思います。新しい時代の神の民が建てあげるべき神殿は、もはやエルサレムにある物理的な建造物ではなく、イエス・キリストをかしらとする神の民の共同体です(1コリント3:16-17、エペソ2:21-22、1ペテロ2:5)。そしてその共同体はユダヤ人だけでなく、すべての国民から構成されるので、その「神殿」を建てあげるためには、全世界に出ていって、すべての国の人を弟子としなければならないのです。

イエスの復活において起こったことは、新しい王の即位です。マタイ福音書を通して、イエスは繰り返し「王」として描かれてきました(マタイ2:2、27:37などを参照)が、十字架の死をとおしてよみがえったイエスは、ついに天と地の王となられたことを宣言します。とらわれていた人々の解放が告げられ、新しい神殿の建設が始まりました。神の民が派遣されるのは、そのためです。(だとすると、マタイが語っている「宣教」とは、個人の魂の救いにとどまらず、新しい神殿としての共同体の建てあげにほかならないと言えます。)

それだけではありません。福音書と歴代誌を重ねて読むことによって、マタイがイエスを神の民イスラエルを代表する存在として描いていることが分かります。イエスの十字架は神の民の捕囚を、復活は捕囚からの帰還をそれぞれ体現しています。イエスは神の民イスラエルを治める王であると同時に、(すべての良き王がそうであるように)民を代表し、民と一心同体であるような存在です。だとすると、復活したイエスが終わりの時代の神の民である弟子たちと「共にいる」と言われたのも不思議ではありません。イエスは王として神と民をつなぐ存在であり、神に対しては民を代表し、民に対しては神を代表しているのです。

マタイ28章18-20節はしばしば「大宣教命令 the Great Commission」と呼ばれます。宣教のメッセージはたしかに含まれています。けれどもこの呼称は、この箇所でマタイが語っている豊かな内容を表現しきれていないのではないかと思います。そしてもちろんこれは、「イエス様がいつも私と一緒にいてくださる」という個人的敬虔のレベルにとどまるものでもありません(その祝福を否定するつもりはありませんが)。

イエスの「宣教命令」(神の民の派遣)は、歴史における神の計画の展開(クライマックス)という、より大きな枠組みの中で捉えなければなりません。そこで描かれているのは、新しい王の即位、そして神の民の再生です。それは新しい時代の始まり、イエスという王の「元年」だったのです。

 

*マタイ28章と2歴代誌36章のつながりについては、たとえばNicholas Perrin, The Kingdom of God (Zondervan, 2019) を参照してください。

 

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