身代金として

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「身代金として」

廣石 望
ミカ書6,1-8;

I

 本日の聖書箇所で、イエスはゼベダイの息子たちと対話した後、他の10人の弟子たちを呼び寄せて「君たちは仕える者、万人の奴隷になるだろう」と教えます。そして、その理由として、「人の子は仕えられるためでなく、仕えるために、その魂を多くの人のための身代金として与えるために来たのだから」と言います。今日は、この「身代金として」という表現について考えてみたいと思います。

 手がかりとして、次のような洗礼志願者の信仰告白があるとしましょう。「キリストが罪人である私に代わり、十字架で犠牲となって死なれたことを信じます。この尊い贖罪の死を通して私は救われると信じます」。このような信仰告白に、「多くの者のための身代金」としてという聖書の言葉はよく合致している、と私たちは受け止めるのではないでしょうか。

II

 もっとも、このような告白に含まれる「犠牲」「代理」また「贖罪の死」といった、キリスト教に伝統的で固有とも見える考え方は、従来いろいろな批判を受けてきました。

 例えば倫理的な罪責は当の本人が負うべきであり、決して他者に転嫁してはならないので、自分の罪をキリストに肩代わりさせることも許されない。あるいは、残忍な処刑法である十字架刑を福音と、つまり人の虐殺を喜ばしい知らせとして宣教するのは、身の毛もよだつ異教主義である。あるいは、贖罪の死を肯定する者は本質的に暴力を肯定しており、いずれ同様の犠牲を他者に要求するであろう。あるいは、永遠なる神の名誉回復を果たすために、自らの息子の血を要求する神はサディストの暴君であり、このような神理解はとうてい受け入れられない等々。

 これらは、いずれも重要なキリスト教批判であり、軽々しく無視してよいものではありません。

III

 そもそも〈イエスの死が救いをもたらす〉という理解は、いつ生まれたのでしょうか?それは、復活信仰が成立した後です。歴史上のイエスと弟子たちにとって、イエスの死は、恥と恥辱に満ちた挫折の体験であったと思われます。その挫折の後に、死んでいるイエスが生ける者として現れるという体験を通して、「神はイエスを死者たちの中から起こした」と表現される復活信仰は生まれました。これはゾンビが出たという意味ではもちろんなく、神が世界の終わりに行うと信じられていた死者たちの復活が、今やイエスの身に生じた――つまり世界の終わりが始まったという意味です。その復活信仰をイエスの生前にまで及ぼし、彼の存在すべてが「私たちの救いのため」に神がなした行為であるという理解から、彼の死もまた救いをもたらす神の行為であるという理解が生まれました。

 さきほどご紹介したいくつかの犠牲批判の中には、この復活信仰というキリスト教に根源的な現実理解を必ずしも十分に考慮していないものが含まれます。さらに言えば、キリスト者自身が、この新しい世界の始まりという復活信仰から離れて、キリストの犠牲、贖罪、あるいは代理の死という理解をもつならば、それは真の意味でキリスト教的とは言えません。

IV

 さらに新約聖書を見ると、私たちが「贖罪」とひとくくりにしてしまう諸発言は、じっさいにはたいへん多様です。そこには神殿祭儀、共同体のための引き換えの命、商業取引など、さまざまな領域に由来するイメージが使われています。

 例えば、神殿での贖罪供儀をモデルにした発言の代表的なものに、以下のものがあります。

神はイエスを宥めの供え物として立てた、信を介して、彼の血による。(ロマ2,25)

 歴史的には、イエスは神殿の祭壇で祭司によって屠殺されたのでなく、エルサレムの城外でローマ兵によって処刑されました。この発言はイエスの死の目撃証人でなく、復活信仰をもつ信仰者の発言です。

 あるいはヘブライ書では、キリストについて次のように言われます。

キリストは大祭司たちのように、まず自分の罪、そして民の罪の(贖い)のために毎日犠牲を捧げる必要がない。彼はこの犠牲を、一度きり自らを捧げることでなした。(ヘブライ人への手紙7,27)

 ヘブライ書の大祭司キリスト論は、旧約聖書の大祭司にイエスを準えます。しかし同時に、キリストは大祭司とはまったく異なると言います。イエスは犠牲奉献者、犠牲獣、そして祭司の役割を同時に演じており、しかも一度きりであらゆる種類の犠牲を達成することで、犠牲行為そのものを廃棄したからです。私たちが「イエスの死は私たちのための犠牲である」というとき、伝統的な意味での犠牲とはまったく異なります。

 さらに、有名な信仰告白伝承に次のような発言があります。

キリストは私たちの罪の(赦しの)ために死んだ――聖書に従って。そして埋葬された。また三日目に(神によって)起こされている――聖書に従って。そしてケファに現れた、次に十二人に。(コリント一 15,3以下)

 この「キリストは私たちの罪の(赦しの)ために死んだ」という発言は、神殿祭儀とは関係がありません。ギリシア・ローマの文化伝統の中で、〈誰それのために死ぬ〉という表現は大切な人のために、例えば配偶者のため、家族のため、祖国のため、あるいは真理のために自らの命を捧げるという意味で用いられました。ローマ世界には、戦場で指揮官が敵軍に自らの命を差し出すのと引き換えに、殺し合いの流血がもたらす穢れを清め、自軍に勝利をもたらすよう神々に祈願するという習慣があります。有名な苦難のしもべの歌(イザヤ53章)に、人知れず苦しんだその傷が、民族全体に癒しをもたらすものであったと言われるのも、大枠でこの系列に属します。

 さらにパウロには、キリストの救いをもたらす死について、次のように言うことができました。

キリストは私たちを、律法の呪いから身請けした、私たちのために呪いになることで。(ガラテヤ3,13)

 「身請けした」と訳したギリシア語動詞エクスアゴラゾーは、日本語では「贖う」と訳されることが多い語です。しかしそれは神殿の「贖罪」祭儀とはまったく関係がなく、エクス(外へ)とアゴラする(市場活動を行う)、つまり何らかの値を払って物を購入するという意味の商業用語、つまりマーケットで行われる人身売買に関係しています。現代では考えがたいことですが、古代には市場で奴隷が売買されていました。

 こうして新約聖書は、非常にさまざまな社会領域に由来するイメージを多用に用いて、イエスの死が救いをもたらす死であったことを表現しています。

V

 マルコ福音書の「身代金」はどうでしょう? これも広い意味の人身売買に関係しており、例えば誘拐犯から人質を、あるいは敵軍から自軍の戦争捕虜を、代価を払って買い戻す行為を指します。

 では、イエスの死が多くの人の身代金であるとは、どういう意味なのでしょうか? 直接的な文脈から予想できるのは、イエスの死が虐げられた人々を抑圧的な支配関係から解放するための身代金であることです。

諸民族を支配すると思われている者たちが彼らを上から支配し、彼らの中の大いなる者たちが彼らを上から命令を下していることを、君たちは知っている。(マルコ福音書10,42)

 これは、ローマ帝国による二重支配を指します。「諸民族の支配者」と思われているローマ人が異民族をも支配し、皇帝の家臣である異民族たちの「大いなる者たち」、例えばヘロデ王家がユダヤ民族を支配しています。これに対してイエスは、君たちは「仕える者」また万人の「奴隷」となれと教えるのです。すなわち、

しかし、君たちの間で大いなる者でありたい者は、君たちの仕える者となるだろう。そして、君たちの間で第一者でありたい者は、万人の奴隷となるだろう。(同44節)

 マルコ福音書を全体として見渡すと、イエスは差別をもたらす病いから、また人の人格を奪いとる悪霊からの解放をもたらす存在です。古代の悪霊信仰を、現代の私たちはもはや共有しません。それでも、人間の人格を家に準え、その家の中に住む悪霊を追い祓うことで人を解放するイエスの姿は、とても人に優しいと感じます。

 イエスの死は、ローマ帝国やヘロデ王家の支配を転覆させることはできませんでした。彼の死は、むしろそうした抑圧的支配の犠牲です。それでも、彼の死は「多くの人のため」つまり「万人のため」であると言われます。

 どういう意味で、そう言えるのでしょうか? おそらくそれは、死せるイエスが天に昇り、神の命の中に迎え入れられているからです。天に昇ることで、今やイエスの地上における「仕える者」また「万人の奴隷」としての歩みは神から承認され、地上世界の全体に向けられた、つまり「万人のため」の普遍的な規準となりました。「身代金」としてのイエスの存在は、買い戻す者と買い戻される者そして支払いを受ける人という、3つの関係者を区別せず、神による全人類の買い戻しを意味します。しかも代価としてのイエスは失われず、神の命の中にいます。

 こうして復活信仰は、地上世界の抑圧的な支配の正当性を天から、ないし内側から象徴的に解体するものとなりました。イエスの存在は、たんなる身代金を超える「身代金」です。


 
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