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- キリストの苦しみ
⇒キリストの苦しみ村上 伸イザヤ書45,18-19; 『ヘブライ人への手紙』の著者は、明らかに福音書の受苦物語を念頭に置いて今日の箇所を書いている。そこで、私たちも、マルコ福音書14-15章によって受苦物語の大筋を辿りたい。そこには、この世界のさまざまな問題が凝縮した形ではっきりと現われている。先ず、が挙げられよう。彼らは、モーセ律法を原理主義的に絶対化する姿勢を頑なに守っている。その立場から、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた(14章1節)。すべてはそこから始まったのだ。そして、それは計画通りに遂行された。彼らは、イエスが神を冒涜したという理由をつけて、強引に死刑を宣告する。次に、という問題がある。イエスがゲッセマネの園でひどく恐れてもだえ始め(33節)、わたしは死ぬば
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- わが神、わが神
⇒わが神、わが神廣石 望イザヤ書50,4-11;I 今週は受難週です。今日のテキストはマルコ福音書の受難物語の一部で、イエスが十字架刑で殺された場面です。この場面に先立って、イエスの捕縛と最高法院による裁判、ペトロの裏切り、総督ピラトによる尋問と死刑宣告が語られ、後にはイエスの埋葬と復活(空虚な墓)のエピソードが続きます。 受難物語は神の子イエスの死への道行きを、キリスト教信仰の視点から描いたものです。さきほど朗読した詩編第22編を見れば、この詩編が受難物語を造形するうえで大きな役割を果たしたことが分かります。この詩編を一つの下敷きにして、原始キリスト教を生きた人々は、イエス・キリストの死の意味を理解しようとしました。 受難週のキリストは教会の美しい典礼や賛美そして祈りに囲まれています。それ
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- キリストの復活
⇒キリストの復活村上 伸ホセア書6,1-3;復活はキリスト教信仰の中心であるが、最初の弟子たちも中々信じることができなかった位だから、とくに現代人にとっては躓きの石である。一体、復活とはどのような出来事だったのだろうか? 今日は、に基づいて、そのことを考えたいと思う。今日の箇所は、イエスの復活に関する叙述としては最も古い層のものだと言われている。もちろん、どの福音書にも、受苦物語に続いて詳細な復活物語がある。だが、最も早く書かれたマルコでも70年頃、マタイやルカは80年代、ヨハネはそれよりもずっと後に書かれたものだから、福音書の復活物語にはその後の教会内外の事情を反映するさまざまな要素が付け加わっている。内容もかなり膨らまされたものとなった。むろん、無責任な作り話というわけではなく、それなり
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- 生き生きとした希望
⇒生き生きとした希望村上 伸イザヤ書40,27-31;復活後第1主日には、古来、”Quasimodogeniti”(生まれたばかりのように)という名がつけられている。この日の礼拝の最初に読まれる聖句生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい(ペトロ一 2章2節)に因んだのである。キリストの復活が信じられるとき、私たちは新しく生まれる。生まれたばかりの乳飲み子のようになる。先週も引用した八木重吉の詩のように、キリスト / われによみがえれば / よみがえりにあたいするもの / すべていのちをふきかえしゆくなり。今日の説教テキスト:ペトロ一 が、キリストの復活によって私たちには生き生きとした希望が与えられると言っているのも同じ意味であろう。ところで、この手紙は、1章1
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- 天地の主なる神
⇒天地の主なる神村上 伸申命記32,1-6;パウロは紀元50年頃、第2次伝道旅行の途中、テサロニケ、フィリピ、べレアを経てアテネに到着した。古代ギリシャ文明を代表する町である。アクロポリス(城砦)と呼ばれる小高い丘の上に守護神アテナを祭る神殿(パルテノン)があり、町はこれを中心に広がっていた。私はかつてドイツ教会の世界宣教部で仕事をしていたが、1978年に任期を終えて帰国するとき、途中でドイツ教会が関係するいくつかの活動拠点に立ち寄って欲しいと要請された。そこで、ヨルダンのアンマン、インドのボンベイとバンガロール、シンガポール、インドネシアではジャカルタとジョクジャカルタ、バリ島などを歴訪したのだが、その長い旅の最初の寄港地がアテネだった。特に仕事と関係はなかったが、せっかくそこを経由するの
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- 平和の神が
⇒平和の神が村上 伸エゼキエル書34,1-10; ヘブライ書の著者は、ここで主イエスを永遠の契約の血による羊の大牧者(20節)と呼んでいる。牧者とは、むろん、単なる羊飼いのことではない。もともとは、政治的・宗教的な意味での指導者を意味していた。 羊の大牧者という言い方を聞いて直ぐに思い出されるのは、先ほど朗読した旧約聖書のテキスト、だ。ここで預言者エゼキエルは、自分のことしか考えないイスラエルの指導者たちを厳しく批判しているのである。 牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえ
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- あの方はここにはおられない
⇒あの方はここにはおられない廣石 望イザヤ書65,1-10;Iどうすれば復活のイエスに出会うことができるか――この問いは、キリスト教にとってたいへん大切です。聖書には、復活したイエスは40日間地上でその姿を現した後に天に昇った、つまり見えなくなったとあります(使徒言行録1,3以下参照)。新約聖書に収められたすべての文書は、イエスが見えなくなった後の時代に書かれました。それぞれが独自な仕方で、いわば〈この世の外にいる者としてこの世にいる〉復活者イエスとの交流について語っています。教会暦によれば、私たちは今週の半ばに昇天祭を迎えます。それに先立つ今日の復活後第5主日には、祈れというまことに象徴的な名が与えられています。祈りとは直接出会うことのできない者との交流のひとつのかたちに他なりません。今日
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- 小羊の歌
⇒小羊の歌村上 伸出エジプト記15,1-5; 『ヨハネ黙示録』が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアーヌスの頃(在位81~96年)と言われている。それは、キリスト教徒に対する激しい迫害があり、小アジアの教会指導者であったヨハネ自身もパトモス島に囚われの身となるという、全く先の見えない不安な時代であった。そのような状況の中で、ヨハネは、世界はどうなるのか? 歴史はどこに向かうのか?と問い、その末に新しい天と新しい地が来るという希望を天から示されたのであった。黙示とは、隠されている意味を明らかにするということだが、彼はその点から歴史の隠された意味を明らかにしたのである。 2節にわたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見たとある。これは一種の暗号で、解読を必要とする。佐竹明さんによると、ガ
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- 万事が益となるように
⇒万事が益となるように村上 伸エレミヤ書31,31-34;教会暦によると、5月1日(木)はキリストの昇天日であった。使徒言行録1章9節に、イエスは彼ら(弟子たち)が見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったとあるのがそれだ。先週の説教の中で廣石先生も触れておられたように、それ以後はイエスの姿を目で見るということはなくなる。主イエスは、もっぱら聖霊というかたちで信徒たちに関わることになるのである。そして、来週がその聖霊降臨主日だ。ペンテコステ(復活から50日目という意味)とも言われる。クリスマスやイースターと並んでキリスト教の三大祝日の一つだが、何となく分かりにくい。従って、妙な言い方だが人気がない。一体、聖霊とは何か? 聖霊が降臨するとはどういうことか? それを理
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- あなたがたの内に宿る霊
⇒あなたがたの内に宿る霊村上 伸民数記11,10-17;今日は聖霊降臨祭。クリスマスやイースターと並ぶ三大祝日の一つで、ペンテコステともいう。ギリシャ語で50のことだ。イエスの復活から50日目に当たる。この日に聖霊が降ったという。一体、その日には何が起こったのか?使徒言行録2章によれば、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(1-4節)。著者のルカは2000年前のユダヤの人だから、旧約聖書伝来の考え方によってこれを書いた。激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたと
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- 愛と平和の神
⇒愛と平和の神村上 伸出エジプト記3,7-14; 先週、私たちは聖霊降臨祭を祝った。聖霊の降臨によって父・子・聖霊の三者が揃ったので、教会暦は今日を三位一体主日と定めている。今日の説教テキストに『コリント人への手紙二』13章の結びのところが選ばれたのも、13節の主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるようにという祝祷が三位一体的だという理由によるのであろう。ところで三位一体とは何か? よく質問を受けるのだが、答えるのも簡単ではない。今日はその辺を整理しながら話を進めたい。 先ず、三位一体(Trinity)という言葉は元々聖書にはなかった、ということを指摘しておきたい。第3世紀の終わりごろから、キリストは神か人かという問題をめぐってローマ帝国内で神学論争が延々と
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- ある金持ちがいた
⇒ある金持ちがいた廣石 望詩編133編;I今月、アジアでは二つの未曾有の自然災害が発生しました。ミャンマーでの巨大サイクロンによる水害と、中国四川省での大地震による被災です。昨日、大地震による死者は8万人に達する可能性があるという中国政府高官の予測が公表されました。ミャンマーに至っては、当地の軍事政権がつい先ごろまで国際社会の支援の受け入れを拒んできたために、人的被害の規模について正確なことはほとんど伝わってきません。 それでも昨日テレビで、ミャンマー政府の責任者が被災地を訪れ、広場に集められて地面に座らされた村人たちと対話している映像を見ました。日本語の吹き替えで、制服を着て帽子をかぶった軍人は、こう言い放ちました。君たちは生き延びられただけでも幸運だと思いなさい。自然災害は避けることがで
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- キリスト者の自由
⇒キリスト者の自由村上 伸イザヤ書55,1-3; 今日の説教テキストは、内容から見ると8章の偶像に供えられた肉というところに続いている。だから、今日は9章1-18節には触れずに、8章の内容をざっと紹介することから始めたい。 当時、コリントの町にはさまざまな異教の神殿があって、毎日、神々のために犠牲の動物が捧げられていた。祭儀が終わると、それら犠牲に捧げられた動物の肉の中から先ず祭司が自分たちの分を取り、残りは市内のマーケットに卸されて市民に販売された。神殿直営のレストランもあったという。 この肉について、コリントの教会には二通りの考え方があった。一つは、異教の神々に犠牲として捧げられた肉を食べることは偶像礼拝になりはしないかと恐れてそれを避けるというもの。もう一つは、そもそも異教の神々など存
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- 執り成し
⇒執り成し廣石 望イザヤ書 53,11-12;Iキリスト教会は執り成しの祈りという習慣を知っています。自分のためでなく、他人のために祈るという美しい習慣です。ドイツ語でFürbitteと言います。誰かのために(für)、願い(Bitte)を神に捧げるという意味です。そんなことをして何になるのだという意見もあるかも知れません。しかし自分には大したことは何もできないということを十分自覚した上で、それでも止むにやまれぬ気持ちから、困難の中にある愛する人々の心に寄り添おうとする気持ちはたいへん尊いものです。どうすればよいか分からず途方にくれているとき、私の知らないところで私のことを気にかけてくれる友がいることほど、ありがたいことは他にありません。神に祈ることは、現代社会では広範囲
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- 神の愛とキリストの忍耐
⇒神の愛とキリストの忍耐村上 伸イザヤ書25,4-5; パウロは第二次宣教旅行の途中、多分紀元50年頃と考えられるが、テサロニケに立ち寄った。この町はローマ帝国マケドニア州の首都で、地方総督府があり、商業も大いに栄えた港町であった。使徒言行録17章によると、パウロはこの町で、三回の安息日にわたって(2節)伝道した。ギリシャ人で彼の言うことを信じた者は相当数いたが、その町で暮らすユダヤ人の中にはそれを快く思わない人もいて、その人たちは広場にたむろしているならず者を何人か抱きこんで暴動を起こし(同5節)、パウロとその一行を町から追い出してしまった。 だから、パウロはこの町からはあまり良い印象を受けなかったであろう。しかし教会に対しては、第一の手紙にも書いているように、深く感謝していた。わたしたち
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- 善をもって悪に勝つ
⇒善をもって悪に勝つ村上 伸アモス書5,14-15; 命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない(出エジプト記21章23-25節)というのが旧約聖書の代表的な考え方だと考える人は多い。家族や仲間を殺されたら下手人は断じて生かしておくな。目を抉り出されたら相手の目も抉り出せ。歯を折られたら相手の歯も折ってやれ。復讐が正義であるというのが旧約の基本だ、というわけである。 しかし、旧約聖書があくまで復讐にこだわっているかのように考えることは、一面的である。歴史家たちによると、目には目、歯には歯という掟は、本来、我々が今想像するほど残酷なものではなかったらしい。人間には自分に甘く・他人に厳しい性質があるから、自分に加えら
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- 暗闇から光へ
⇒暗闇から光へ村上 伸イザヤ書43,1-7; この手紙の冒頭に筆者はペトロだと書いてあるが、どうもそれは事実と違うらしい。多くの学者は、1世紀の終わり頃、ある教会指導者がイエスの使徒ペトロの権威を借りてこれを書いたのだろうと考えている。著作権という概念がまだ確立していなかった当時、こういうことは珍しくなかったのである。しかし、この手紙の受取人は大体分かっている。1章1節に、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへとあるように、この手紙はトルコのアナトリア地方の信徒たちに宛てて書かれたのである。この地方一帯には、もともと多くの民族・文化・宗教が入り混って存在していた。その中に、キリスト教に改宗した人々がいた。この手紙の内容から判断する
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- いのちのパン
⇒いのちのパン廣石 望出エジプト記16,1-18;I 現在、世界中で食糧価格が高騰しています。原因は原油価格の高騰があらゆる経済活動に影響を与えていることと並んで、米国が石油の代替燃料としてバイオエタノールを用いることを打ち出したために、原料である玉蜀黍の価格が高騰したことが波及していると言われています。しかし玉蜀黍はもともと食糧です。食糧であるものを、自動車を走らせるための燃料に用いようとするために、貧しい人々が廉価な食糧を手に入れることができなくなるのであれば、それは金持ちの許されざるエゴイズムでしかありません。 先ほどお読みした聖書箇所の直前には、イエスが大麦パン五つと二匹の魚で、五千人の男性を含む大群衆を養ったという給食奇跡の物語が配置されています(ヨハネ6,1-13)。ヨハネ福音書
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- 被造世界への私たちの責任
⇒被造世界への私たちの責任村上 伸;ローマの信徒への手紙8,18-25 私たちの教会では、年に一度は主日礼拝を地球環境の日として守ることになった。今日がその第1回目である。聖書の朗読箇所・讃美歌・交読文などはそれぞれ相応しいところを選び、説教もそのつもりで準備した。通常の説教とは違って、いささか講義風になるかもしれないがご容赦頂きたい。人間活動が活発になればなる程、地球の環境は汚染され、遂には破壊される。最も悪質な環境破壊は戦争だが、それは別として、火力発電所・工場・自動車、さらには各家庭から排出されるCO2が地球の温暖化を招いたとして、今大問題になっている。先週開かれた北海道洞爺湖サミットではこれが最重要課題だった。この問題は以前から知られていたが、それが具体的に明らかになったのは、ローマ
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- 愛は多くの罪を覆う
⇒愛は多くの罪を覆う村上 伸箴言10,1-12;1 初代教会の人々は、基本的に後期ユダヤ教・黙示文学の考え方を受け継いでいたと言われる。その最大の特徴は終末論であった。すなわち、歴史は同じことをいつまでも繰り返す円環のようなものではなく、始まりと終わりがある一本の線のように終末に向かって直線的に進む、という歴史観である。 すべての人に誕生と死があるように、歴史にも始まりと終末がある。ただ、歴史の終末は、生物が段々と弱ってやがて息を引き取るというような自然のプロセスではない。むしろ終末は、神が今だと見られた時に、突然来る。そして、最後の審判が行われる。その時、キリストが栄光の座についてすべての国の民をその前に集め、一人ひとりをその生き方に応じて裁かれる。 ペトロが万物の終わりが迫っています(7

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
