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深い悲しみ

⇒深い悲しみ村上 伸申命記7,6-8; はユダヤ人問題を扱ったところだと言われている。ユダヤ人問題とは何か?神に選ばれた民であるユダヤ人、つまり、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束(4節)を与えられたイスラエル民族が、神に背き、御子イエス・キリストを殺してしまった。一体、どうしてそんなことになったのか? このことを考える度に、パウロの心は悲しみにふさがれた。わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります(2節)というのはそのことであり、それが、パウロにとってのユダヤ人問題だったのである。 ところで、同じユダヤ人問題という言葉を使いながら、まるで別のことを考えていた人物がいた。ナチス・ドイツの指導者で、第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーである。まだ若かった1

まず自分の目から

⇒まず自分の目から村上 伸イザヤ書33,1-6; イエスは言われた。人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる(1-2節)。この言葉は、自分のことを棚に上げて人のことをあれこれ批判してはいけないというごく常識的な道徳訓として理解されることが多い。しかし、イエスはもっと深い意味で言われたのではないか。つまり、自分こそ正しいと言い張って人を裁いていると、その裁きは自分の上にも降りかかってくるということだ。 これは、人間同士、あるいは国家間の平和な関係を造り上げる上でまことに大切な点だ。このことを真剣に考慮しているかどうかで、お互いの関係は良くもなり、悪くもなる。それが最も端的な形で現れるのは、戦争の場合であろう。 1

求めよ、さらば与えられん

⇒求めよ、さらば与えられん村上 伸エレミヤ書29,10-14;7節で主イエスは、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれると約束された。だが、一体、何を求め、何を探し、何の門を叩けというのだろうか?それは、直ぐ前の6章に明らかである。8節でイエスはあなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだと言われた後で、9-13節の主の祈りにおいて、私たちが何を祈り求めるべきかを簡潔に教えられた。すなわち、父なる神の御名が崇められますように。その真実の支配(御国)が来ますように。御心が天で行われている通りこの地上でも行われますように。私たち一同に今日食べるパンが与えられますように。私たちの罪が赦されますように。私たちを

互いに愛し合う

⇒互いに愛し合う廣石 望レビ記26,3-17;I来月中旬に、今年度の教会カンファレンスが開催されます。準備委員会が周到に用意を進めています。今年の総合主題は平和をつくりだす教会――私たちのヴィジョンです。戦争に抗して貧困に抗してそしてキリスト者の自由という三つ視点から、この総合主題について、私たちの教会が将来に向けて本当に大切にしてゆかなければならないことについてゆったり語り合い、ともに祈りたいと願っています。今日のテキストに照らせば、戦争や貧困に抗して平和をつくりだすことは、互いに愛し合う(7/11-12節)ことと関係がありそうです。逆に、戦争や貧困は兄弟を憎むないし目に見える兄弟を愛さない(20節)ことが積み重なった、その結果なのでしょう。そして私たちがそこにむけて解放されている自由とは

支配者への従順と隣人愛

⇒支配者への従順と隣人愛廣石 望サムエル記上8,1-22;I先週に続いて、今年度の教会カンファレンスの総合主題平和をつくりだす教会――私たちのヴィジョンとの関連で、そしてとりわけ戦争に抗してというサブテーマを念頭におきながら、今日の聖書箇所に耳を傾けたいと思います。ローマの信徒への手紙13章は教会と国家あるいは宗教と政治という主題を扱う上で、古典的なテキストの一つになりました。人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです(1節)という言葉で始まるこの箇所は、しばしば王権神授説の根拠に、つまり政治権力を神の名によって絶対化するために用いられました。他方で市民革命の時代には、神の意思に逆らう悪しき国家権力に対しては服従する必要

自由へと召し出す

⇒自由へと召し出す廣石 望創世記17,1-14;I遠くない将来に、私たちの教会は主任牧師の交代の時期を迎えようとしています。それぞれ独自の歩みを続けてきた二つの教会が合同して代々木上原教会が設立されたのが1997年。この間、私たちの教会はともに祈りながら歩みを続け、新しいメンバーも加えられて一つの教会へと成長しました。昨年の教会カンファレンスでは教会創立10周年を、感謝をもって祝いしました。他方で、会員の高齢化や教会学校の生徒の減少といった、他の日本の諸教会に共通する問題を、私たちの教会も抱えています。とりわけ主任牧師の交代は、私たちが本当に一つの自立した教会になったかどうかの、重要な試金石になるのかも知れません。教会は、神に呼び出された者たちの集まりです。ですから自分たちの能力の多い少ない

確信を捨てない

⇒確信を捨てない村上 伸ハバクク書2,1-4; 今日の説教テキストは、だから、自分の確信を捨ててはいけません(35節)という言葉で始まっている。だからと言うのは、その直前の32-34節の言葉を受けているからである。すなわち、あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。つまり、信仰に入ったばかりの頃のあなたがたにも、さまざまな苦難の中でそれに耐えたという経験があるでは

主に結ばれて

⇒主に結ばれて村上 伸ゼカリヤ書8,16-17; この礼拝は教会カンファレンスの開会礼拝を兼ねている。私は今日の説教を、平和をつくりだす教会という総合テーマを念頭に置いて、一つの物語から始めたい。 この夏、私はライプツィッヒのニコライ教会を再訪した。この教会は、1989年の秋、ベルリンの壁崩壊をもたらした東独の大変革の発端となった場所である。あの頃、東独の現実を憂える人々が毎週月曜日の夜ここに集まり、正義と平和と環境保全のために祈っていた。月曜祈祷会という。参加者の数は急速に増え、やがてこの人たちは祈りの場から街頭に出て行き、社会に訴えるようになった。このデモが、遂に体制を揺るがしたのだが、その際、終始絶対非暴力の原則を崩さなかった。そのために、東独では一発の銃声も響かずに変革が実現したと賞

真実を語るということ

⇒真実を語るということ村上 伸ゼカリヤ書8,16-17; 今日の箇所は、直前の古い生き方を捨てる(17-24節)という段落の続きである。すなわち、キリストを知る前の古い人は悪に支配され、22節によると情欲に迷わされ、滅びに向かっていた。また、卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談といったさまざまな悪徳がその特徴であった。彼らはみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者(5章4-5節)であった。このような古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません(22-24節)。パウロはこれを受けて、さらに具体的に次のように戒める。先ず怒りについて。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れ

主の晩餐

⇒主の晩餐村上 伸申命記16,1-8; 今日の説教テキスト:は、説教後に守られる聖餐式の制定語として使われている。だが、これはパウロが自分で創り出した文言ではない。彼が最初にわたしがあなたがたに伝えたことは、です(23節)と断っているように、初代教会に伝わっていた伝承なのである。よく似た言葉がマルコ14章22節以下に見られることからも、それは明らかだ。 この場合、儀式の在り方なども言い伝えられたかもしれないが、そうした外面的な事柄だけではなかったであろう。最も大切なものとして伝承されたのは、主イエスの物語、すなわち、彼の生涯・真実と愛・受難と死、そして復活の物語である。 そのことを示すのが、次のような文言である。すなわち、主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、こ

一つの体

⇒一つの体村上 伸コヘレトの言葉4,9-12; 今日の箇所で、パウロは先ず、体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である(12節)と述べた。私たちの肉体という身近な例を用いながら、教会も一つの有機的統一体であるということを明らかにしたのである。そのことを、彼は14節以下でさらに分かり易く説明する。すなわち、体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおい

赦しと権利

⇒赦しと権利廣石 望イザヤ書 52,7-15;I いま世界中でサブプライムローン問題のせいで株価が乱高下し、各国政府も対策に乗り出しています。この問題が正確には何のことなのか、素人の私にはよく分かりません。どうやら経営状態の思わしくない、つまり銀行が融資しても貸し倒れになる危険性の高い、いろいろな会社の株式をひとまとめにした後で、これを小口に分割してリスクを減らすことで証券を販売する仕組みが、うまく機能しなくなったせいなのだそうです。つまりはじめは、私たちの多くが生命保険をかけても、そんなに一度にたくさんの人が死んだりしないので保険会社が潰れないのと同じなのでしょう。格付け会社の太鼓判もあって、証券の価格は維持されていました。しかしそもそも実態が伴わない価格で債券が売買されたために、やがて債

キリストは私たちの平和

⇒キリストは私たちの平和村上 伸イザヤ書 2,1-5; 今日の箇所でパウロは、実に、キリストは私たちの平和である(14節)、と断定的に言っている。そう信じたいというのではない。キリストは私たちの平和であると言うのである。これこそ現実だ、と言っているように聞こえる。 言うまでもなく、私たちが目の当たりにしている世界の現実はそれとは違う。先ほど私たちが一緒に唱えた『コヴェントリーの和解の祈り』にもあるように、憎しみが、人種から人種を、民族から民族を、階級から階級を切り離している。平和は破れ、対立が強まっている。これが、私たちに見えるこの世の現実である。長年にわたるパレスチナ紛争や、アフガニスタンやイラクにおける抗争、アフリカ各地で頻発する大量殺戮などはそのことを示している。平和は常に脅かされてい

時にかなって美しい

⇒時にかなって美しい村上 伸;マタイ福音書 6,25-34 『コヘレトの言葉』は独特な文書である。特に、一種の虚無感が漂っているところがユニークで、聖書にはこれに類するものは他にない。一体、誰がこういうものを書いたのだろうか? この書の冒頭に著者が紹介されている。エルサレムの王、ダビデの子(1章1節)。これはソロモン王のことだ。それに続けてコヘレトとあるが、これは木田献一氏によると招集者を意味するという。これもソロモンに当てはまる。エルサレム神殿が完成した時、ソロモンは契約の箱を至聖所に安置して祈りを捧げるために、イスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに(列王記上8章1節)とあるからだ。しかし、実際にこれらの知恵の言葉を語ったのはソロモンではない。

自分の業を終えて休む

⇒自分の業を終えて休む村上 伸ダニエル書12,1-3;キリスト教の暦では11月23日が一年の最後の日曜日で、終末主日と呼ばれている。西欧の教会では、その日に死者を記念する礼拝を行うのが一般の習慣であるが、私たちの教会では毎年11月第2日曜日に召天者記念礼拝を守ることにしている。先に天に召された信仰の先達を記念するこの特別の礼拝である。今日もここに多くのご遺族の方々をお迎えした。懐かしい人たちのことを思い起こして感謝の気持ちを新たにするとともに、ご遺族の上に心から神の恵みと祝福を祈りたい。週報の裏面に名簿が印刷してある。一応正規の教会員をということで線を引かせて頂いたので、この名簿にお名前が載っていない方々もある。しかし、その人たちも同じように記念したいので、お写真をお持ちの方は今からでも前の

神の愚者

⇒神の愚者廣石 望ヨブ記5,1-20;I 現代の私たちの社会では、それこそ〈恥も外聞もない〉仕方で、お金や権力が追求される傾向にあります。それでも権力を手に入れた人々は、最後には名誉と名声を手に入れたいと願うようです。〈お金がすべて〉の世の中にも、名誉欲は必ずついてまわります。 名声と名誉は大人たちばかりか、子どもたちにも期待されます。世間で評判のよい学校に入りなさい。絶対に倒産しない有名企業に就職しなさい。周囲から羨望が集まるようなよい家柄のお相手と結婚しましょう。お願いだから出世してちょうだいなどなど。こうした〈常に上を目指せ〉という圧力に耐えかねて、最近の子どもたちの中には下流志向、つまり無理して勝負しないでほどほどで十分だという、逆向きの傾向もあるそうです。 私たちはいったい何のため

待ち望む生活

⇒待ち望む生活村上 伸イザヤ書65,17-20;今日は、教会暦では一年最後の日曜日、つまり終末主日である。それに因んで、教会では昔からこの日に死者のための礼拝を守ったり、終末について説教したりしてきた。この伝統に従って、今日は終末について考えたい。与えられた説教テキストはである。この手紙は、紀元120年頃のある教会指導者が、使徒ペトロの名を借りて書いたと考えられている。あの時代の人は、基本的には、後期ユダヤ教の黙示文学的なものの考え方(パラダイム)によって考えたり書いたりしていた。だから、科学的な世界観の中で生きている現代人にとっては理解しにくい発想や用語が多いかもしれない。だが、矢張りそこでも問題になっているのは人間や歴史のことであるから、現代の我々にも無関係とは言えないだろう。 さて、終

子ろばに乗るイエス

⇒子ろばに乗るイエス村上 伸ゼカリヤ書9,9-10; 今日の箇所には、イエスが十字架につけられるためにエルサレムに入る場面が描かれている。そのとき、イエスは子ろばに乗っていた。その経緯は、マタイによるとこうである。――イエスの指示に従って弟子たちは向こうの村へ行き(2節)、そこでイエスが言われた通りにろばと子ろばを見つけ、そのろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった(7節)。マタイはこの場面を、ゼカリヤの預言の成就として書いた。見よ、お前の王がお前のところにお出でになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って(5節)というくだりは、少し違うところもあるが、ゼカリヤ書9章9節の引用なのである。先ほども朗読したが、少し丁寧に再読してみたい。娘

来るべき方は

⇒来るべき方は村上 伸イザヤ書35,1-10;洗礼者ヨハネは、このとき牢の中(2節)にいた。死海東岸から約6キロ離れた山の頂上にヘロデ大王が築いた<マケルス要塞>の牢獄であったらしい。だが、いったいヨハネはどうして牢に入れられたのだろうか?その辺の事情は、に説明されている。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである(3-4節)。このヘロデは、イエスが生まれた時にユダヤの王であった有名なヘロデ大王ではない。息子でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスである。彼は、腹違いの兄弟がまだ生きているうちに、その妻ヘロディアを自分の妻としてめとった。モーセ律法には兄弟の妻を

生まれる子

⇒生まれる子廣石 望創世記28,10-17;I敬愛する姉妹兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。いわゆるクリスマスの表記は各国語によって、さまざまです。英語のChristmasはキリストのミサ、ドイツ語のWeihnachtenは献げられた夜(複数形)、フランス語のNoëlは知らせという具合に、意味もさまざまです。スペイン語Navidadやイタリア語Nataleは誕生の意です。もちろん神の子キリストのという限定詞が省略されているのだと思います。クリスマスを指してお誕生と呼ぶのは、たいへん意義深い習慣だと思います。今日は有名なマリアの受胎告知の場面を手がかりに、キリストの誕生とは何か、そもそも人が生まれるとは何であるのかについて、ごいっしょに考えてみましょう。II 私たちは誰も

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