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羊飼いたちが聞いた天使のメッセージ

⇒羊飼いたちが聞いた天使のメッセージ村上 伸ルカ福音書2,8-14 今夜は、の美しい物語によって主イエスがお生まれになった夜のことに思いを馳せたい。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた(8)とある。当時、羊飼いは、アラビア半島などに今も住む遊牧民(ベドウイン)と同様、羊の群れを連れて草のある場所を探しながら移動していた。常に羊と一緒に暮らしているので着る物も汚れているし、異様な臭いがする。そのために町の住人からは卑しい職業の者として差別され、警戒されていた。そんな羊飼いたちが野宿をして夜通し羊の群れの番をしていた。野宿と言えばロマンチックに聞こえるかもしれないが、そんなものではない。戦時中、私は軍隊の学校で野営訓練を受けたことがある。背中は痛むし、夏でも明け方は

幼子を腕に抱いて

⇒幼子を腕に抱いて村上 伸イザヤ書49,1-6;ルカ福音書は、幼い頃のイエスに関する二、三のエピソードを伝えている。12歳のイエスが神殿で学者たちを相手に議論をしたというのもその一つだが(2章41節以下)、今日の箇所は、両親が生まれて間もないイエスを主に捧げるために(22節)神殿に連れて来たという話である。これは、イエスのその後の生涯、特に十字架の苦難を暗示した物語でもある(34-35節)。さて、テキストに注目したい。両親は、初めて生まれた男の子イエスを主のために聖別(出エジプト記13章1節)しようとして、律法の規定に従って鳩を何羽かいけにえとして捧げた。そのとき、エルサレムに住むシメオンという老人が境内に入って来た。そして、イエスを見て直ぐ何かを感じたのだろう、幼子を腕に抱き、神をたたえて

人間にはできないことも、神にはできる

⇒人間にはできないことも、神にはできる村上 伸イザヤ書1,11-17; 大晦日の『毎日新聞』<余禄>欄に、年末恒例のいろはカルタが載っていた。2008年の世相を言い表したもので、中でも論よりに何もというのが強く印象に残った。論よりは論より証拠をもじったもの。それに北京オリンピックで二連覇を達成したときの北島選手の感想何も言えねえを結びつけたらしい。言えねえは家がないと書く。つまり、非正規労働者の仕事や住居が、有無を言わせず一方的に奪われる、その暗い現実を言い当てている。 他にも、腹立たしい現実を描き出したものが多くあった。高齢者医療制度(後期高齢者医療制度)、理不尽極まる誰でもよかった(通り魔殺人事件)、ルーズの権化、社会保険庁、温暖化止まらず洞爺湖の霧深く、悪知恵尽きぬ振り込め犯、世も末学

イエスの受洗

⇒イエスの受洗村上 伸イザヤ書42,1-7;1月6日は顕現祭(エピファニー)であった。公現祭ともいう。マタイ福音書にはメルヘンのような話がある。東の方から占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやって来たというのである。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(2章11節)。古代教会は、この日を顕現日と定めた。この日に、イエスの栄光がはるか東方の博士たちにも、つまり、全世界に現われたというのである。主の栄光が顕現した、あるいは公に現れた。それ以来、この日はキリスト教会の重要な祝日として祝われてきた。この日に関してはいくつかの伝説がある。イエスがカナの婚礼(ヨハネ2章1節以下)に出席して、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行ったのはこの日だ、というのもそ

イエスに従う

⇒イエスに従う廣石 望列王記上19,19-21;I イエスに従うことは、私たち皆にとっての関心事です。キリスト教はたんなる心の持ちようではなく、具体的な生の実践です。信仰は個人の趣味でなく、神の前で世界をどう形成してゆくかに関わります。愛とは同じグループに属する人々を大切にすることを超えて、イエスが教えたように敵を愛すること、悪に対して悪で報いず、敵に対しても友愛的な態度を基本とし、そしてすべてがうまくゆけば敵から友を作りだすことを意味します。そして生きることは自己利益の拡大再生産ではなく、命を分かち合うこと、つまり所有や食べ物、権利や知識を、場合によっては自己犠牲を覚悟で分かち合うことです。 しかし家族という問題があります。古代世界における家族は現代よりも範囲が広く、親族や一族を含みます。

光り輝く雲

⇒光り輝く雲村上 伸申命記18,15-22; イエスは、その公生涯のほぼ中ごろに当たるこの時、高い山に登られた(1節)。山に登ることにはどのような意味があるか? 私の小さな経験から考えたい。 私の最初の赴任地・安城(愛知県)の一帯は昔荒地であったが、矢作川から引かれた用水のお陰で素晴らしい農地に生まれ変わった。明治用水(明治17年完成)という。教会の直ぐ裏に満々と水をたたえた用水が流れ、その向こうには見渡す限り美田が広がり、土地の人は誇らしげに日本のデンマークと呼んでいた。 私は、その町に7年いた。二人の子供たちもそこで生まれたから、美しい思い出が沢山ある。ただ一つだけ、不満があった。それは、一面の平地で、山がなかったことである。遠くに猿投の山々が望まれたから、全く山が見えないわけではなかっ

ぶどう園は誰のものか?

⇒ぶどう園は誰のものか?廣石 望イザヤ書5,1-7;I米国の金融危機に始まる世界同時不況が、私たちの国でも、製造業を中心にいわゆる実体経済を直撃しています。毎日、大幅赤字転落減産工場閉鎖人員削減といった言葉が、新聞の見出しに踊っています。最初に解雇される派遣社員の中に、大量の外国人労働者が含まれることを忘れてはいけません。他方、大きな金融機関や国の基幹産業には大量の税金が注入されます。大いに疑問なのは、かりに銀行や大企業が生き残ったとしても、大量の失業者が生まれる社会で、人間は果たして生き残ることができるのかという問いです。金融や産業は、いったい誰のものなのでしょう。投資家、経営者、業界、あるいは国のもの、それとも被雇用者たちのものでしょうか。イエスが生きた時代のユダヤ社会も、ある意味で似通

種を蒔く

⇒種を蒔く村上 伸イザヤ書55,8-13; この譬え話は、共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)のすべてに出てくる。言葉遣いがやや違うところもあるが、内容はほとんど同じだ。譬え話の後に説明が付け加えられるという構造も同じである。 一体、種とは何か? それは神の言葉である(11節)と説明されている。神の言葉は種のように人々の心に蒔かれる。では、神の言葉とはいかなる言葉か? マタイは御国の言葉(マタイ13章19節)と言い換えた。 主イエスは宣教の最初に、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1章15節)と言われた。御国の言葉とはこのことであろう。神の国(=神の支配)が近づいているという約束である。この世界は、今は悪の支配の下にあって、病気や貧困や戦争で絶え間なく苦しんでいる。

たとえ全世界を手に入れても

⇒たとえ全世界を手に入れても村上 伸イザヤ書43,16-20;受難節前の最後の日曜日に、イエスの受難予告について考えることは時宜に適っている。31節がその受難予告である。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。このような予告を、イエスは三度語っている。マルコでは今日の箇所が最初で、9章31節が二度目、三度目は10章33節だ。日本語でも三度目の正直とか仏の顔も三度という言い方がある。二度までは偶然が重なることがあるが、三度となると偶然では済まされない。イエスがゲッセマネの園で夜通し祈られた時、アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください

悪魔の誘惑

⇒悪魔の誘惑村上 伸申命記8,2-10; イエスは“霊”に導かれて荒れ野に行き…40日間、昼も夜も断食した(2節)という。受難節が40日間と定められたのはここに由来する。 40日の断食で空腹になったイエスのところへ悪魔がやって来て、手を変え品を変えて彼を誘惑しようとした。それが今日読んだ福音書の物語である。 一体、悪魔とはどのような存在なのだろうか? 第4世紀始め頃のエジプトに、アントニウスという修道士がいた。明日のことを思い煩うなというイエスの言葉に心を強く動かされて修道生活に入ったという。空っぽの墓の中に住んだりして20年ほどはただ独り隠遁の生活を送った。その間、化け物の姿をした悪魔に引きずり回されたという伝説がある。この伝説に基づいて描かれたのが、マティアス・グリューネヴァルトの聖アン

この世のやり方への異議申し立て

⇒この世のやり方への異議申し立て村上 伸歴代誌下36,11-16;ぶどう園の管理を委ねられた農夫たちは、主人が収穫を受け取るために派遣した僕たちを次々に袋叩きにしたり、頭を殴って侮辱したり、殺したりした。それだけではなく、最後に遣わされた主人の愛する息子を、ぶどう園の乗っ取りを企んで殺したという。これが今日の譬え話である。この農夫たちとは誰のことか? 差し当たりはイエスを殺したイスラエルの指導者たち、すなわち、祭司長・律法学者・長老たちのことであろう。12節に、彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたとあることからも、それは明らかだ。だが、この言葉が当てはまるのは、イエスの時代の祭司長・律法学者・長老たちだけではない。旧約聖書を読むと、いつの時代にもそのような人々が

主に目を注ぐ

⇒主に目を注ぐ村上 伸; コリント二1,8-11 今日は受難節第3主日である。この日は昔からオークリ(oculi)と名づけられている。ラテン語で目という意味である。日曜日の呼び名としてはいささか奇妙だが、それはこの日の礼拝の入祭文に詩篇25編15節が朗読されたことに由来する。 この箇所は、新共同訳ではいつも主に注いでいますとなっているが、より正確には、常に主に向うである。わたしは…主に目を注ぐとわが目は…主に向うとでは、微妙に違う。微妙だが重要な違いだ。わたしは…主に目を注ぐと言うとき、意識して見ているという感じが付きまとうが、わが目は…主に向うという場合は、特に意識的ではない。むしろ、自然に目が主の方に向くという感じが強い。あるいは、わたしの目は主の方に引きつけられると言った方がいいかもし

できるかぎりのこと

⇒できるかぎりのこと廣石 望申命記15,1-11; I三月末は卒業式の季節です。勤め先の学校でもいろいろな行事が行われます。学位授与式には、娘や孫の成長を祝うため家族の人たちが大勢やってきます。親御さんたちは一様に、晴れがましい表情をしておられます。私たちも喜びを分かち合います。卒業パーティではホテルの大きなホールを借り切って、着物やドレスに美しく着飾った卒業生たちとともに最後の別れの宴を祝います。子どものためにできるかぎりのことをしてやりたいという親心は、いつの世でも変わらないと感じます。他方で目を社会に転じると、私たちの社会は大不況の真っ只中です。中小企業の倒産が止まりません。三月の決算期を迎えて、さらに失業者が増えるだろうといわれています。先日私たちの教会は、美竹教会の呼びかけで始まっ

一粒の麦

⇒一粒の麦村上 伸; ヨハネ福音書12,20-2620節に祭りのときとあるが、これは過越祭のことだ。ニサンの月(太陽暦の3-4月)の14日の夕刻、春分に近い満月の夜に祝われた祭りで、イエスはちょうどその頃にエルサレムに入り、十字架につけられた。このことには深い意味がある。だが、そのことを考える前に先ず、過越祭の由来について述べておきたい。によると、エジプトで奴隷であったイスラエル民族は、主(ヤハウエ)がお遣わしになったモーセによって解放されるが、その直前、傷のない一歳の雄の小羊(5節)を犠牲として屠るように命じられる。この指示に従って民は小羊を屠り、その血を取って・・・家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り(7節)、その肉を火で焼いて食べ・・・酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べた(8節)。その後

主の名によって来られる方

⇒主の名によって来られる方村上 伸ゼカリヤ書9,9-10;  今日から受難週が始まる。この日に、イエスは、十字架が待ち受ける都に入られたのである。12節に大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、の枝を持って迎えに出たとあるところから、古来この日は棕櫚の聖日と呼ばれている。なつめやしと棕櫚は全く別の木だが、誰かが勘違いしたのだろう。 マルコ福音書11章では、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた(8節)となっている。これは、王や凱旋将軍、あるいはメシアを迎える儀礼である。群衆は、イエスこそはこの地上に王国を実現させて自分たちを救ってくれるメシアに違いないと期待したのだろう。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように(13節

良い羊飼い

⇒良い羊飼い村上 伸; ヨハネ福音書10,11-16先週の教会総会では、皆さんが思っていることを率直に述べて下さり、良い話し合いができたことを感謝している。しかし、熱心な議論に耳を傾けながら、私は皆さんの心の中に何かが釈然としないまま引っかかっているように感じていた。それは教会と政治の問題である。私は、この教会の牧師として、この問題を正面から取り上げて、考え方の道筋を明らかにするように努力しなければならないと思った。ただ、今日の説教テキストとして私自身が選んだのは、ヨハネ福音書10章1-16節である。この中に教会と政治の問題に関するヒントを見つけようとしても、やや無理がある。全く不可能というわけではないが、こじつけになる危険もある。ところが、ヨハネ10章と密接な関係があるを読んでいるうちに、

イエスと分かる

⇒イエスと分かる廣石 望イザヤ書43,1-7; I キリスト教信仰の中核には、かつて生きて死んだのちに復活し、今は私たちに聖霊を通して働きかけるイエスへの信仰があります。彼が生きている神の命は、この世の命とはちがい、もはや死によって脅かされることがありません。そのことに対応して、もはや私たちは直接この目でイエスを見ることはできません。その意味で、彼はいない。同時に彼は、風のように自由に私たちに働きかけます。その意味では彼はいるし、出会うことができます。復活者イエスとの出会いは、そのような〈いない人と出会う〉というかたちをとります。エマオ途上の顕現物語も、そのような視点から物語られています。いくつかテキストの特徴をひろってみましょう。II 場面設定(13-16節)では、二人の弟子たちが歩きなが

イエスは主である

⇒イエスは主である村上 伸イザヤ書53,9-12; 先週はエゼキエル書34章に基づいて教会と政治の問題を考えた。旧約の預言者たちが良い手本になることは分かったが、教会にとって最も大切な規準は、矢張りイエス・キリストである。今日は先ずその点について述べたい。 初代教会が活動を始めたばかりの頃、使徒ペトロが仲間と共に主イエスを宣べ伝えていると、当時の宗教指導者であった大祭司がサドカイ派の人々と一緒になってこれを禁じたことがある。むろん、ペトロとその仲間たちは敢えて騒ぎを惹き起こすようなことを言ったわけではない。使徒言行録2章47節によると、彼らはむしろ民衆全体から好意を寄せられていたのである。だが、権力者は新しい動きに対しては常に警戒的だ。だから、大祭司は彼らを投獄して、もう宣教活動をしてはいけ

私のもとに来なさい

⇒私のもとに来なさい廣石 望箴言8,22-36;I だれでも私のもとに来なさいとキリストは私たちを招きます。人は何を求めて教会に来るのでしょうか。その動機はいろいろです。生きて甲斐ある人生にいたる知恵を求めて、社会の中で体験した冷たさへの慰めを求めて、自分が犯してしまった過ちに対する赦しと再出発を求めて。あるいは人の優しい心にふれたくて、人間として成長したくて、よりよき世界のあり方を知りたくて。そしてもっとシンプルに神を求めて。そのように多様な気持ちを抱えた私たちに向かって、キリストはだれでも私のもとに来なさいと招きます。そしてこの招きが教会の土台です。 II 今日のテキストは、少し注意してみると分かるように、いろいろなイエスの言葉、少なくとも三つの言葉の寄せ集めです。 最初の言葉でイエスは

勇気を出しなさい

⇒勇気を出しなさい村上 伸ゼカリヤ書14,4-9; ヨハネ福音書14~16章は十字架の死を覚悟したイエスが弟子たちに残された訣別説教で、今日のテキスト(16章25-33節)はその結びの部分である。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く(28節)とか、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ(32節)というくだりには、別れの感情が強く現れている。中でも、33節が重要である。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。今日、私はこの聖句

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He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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