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- 弁護者が遣わされる
⇒弁護者が遣わされる村上 伸列王記上19,1-18;聖霊降臨祭の直前の日曜日は、アジア祈祷日と定められている。これには30年以上の伝統があり、アジア・キリスト教協議会(CCA)に所属する教会が毎年交代で準備する慣わしである。今年はスリランカ・キリスト教協議会が企画に当たった。ニュースでご存知の方も多いと思うが、スリランカでは先週5月18日、反政府武装勢力タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の最高指導者プラバカラン議長が政府軍によって殺害され、25年以上続いた内戦がここに終結したと伝えられた。民衆の中からは喜びの叫びが起こったというが、事態はそれほど単純ではないようだ。スリランカはインド亜大陸の南東にある島国で、1505年以来ポルトガル、その後オランダ、1802年からはイギリスの植民地であっ
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- キリストの平和
⇒キリストの平和村上 伸ヨエル書3,1-5;イエスは、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(26節)と言われた。この約束がペンテコステの日に実現したのである。その日、何が起こったのか? 使徒言行録2章によれば、弟子たちがエルサレムのある所に集まっていると、そこへ、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(2-4節)という。激しい風とか、炎のような舌という異常な現象を、私たちはどう理解したらよいのだ
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- 思いのままに
⇒思いのままに廣石 望ヨエル書2,21-27; I私たちを本当に生かすものは何でしょうか? ユダヤ・キリスト教の伝統では、それが神の霊聖霊と呼ばれます。本当に生かすとは、死をくぐり抜けて生を生み出すこと、関係が切れてしまったところに新しい関係を呼び覚ますことです。憎しみのあるところには愛を /諍いのあるところには許しを/分裂のあるところには一致を/疑いのあるところに信仰を・・・もたらす者としてくださいと祈る、私たちに親しいフランチェスコの祈りも同様です。先週、私たちは聖霊降臨祭を祝いましたが、このことについて伝える使徒言行録の記事も(使2章)、同じような意味を含んでいます。キリストの福音が、民族や言語の境を超えて伝達され、人々が互いに心から言葉が通じるようになったというのですから。今日のため
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- 牢屋の中で祈ったパウロ
⇒牢屋の中で祈ったパウロ村上 伸 さっき読んで下さったところは、イエス様の弟子の一人だったパウロが、フィリピ(ギリシャの町の名)の教会に宛てて書いた手紙の一部です。この手紙を書いたとき、パウロは別の町で牢屋に入れられていました。それは、7節や13節に監禁されていると書いていることからも分かります。もちろん、パウロは泥棒とか人殺しとか、そういう悪い事をしたわけではありません。イエス様のことを知って欲しいと思って、人々に向かって語りかけただけです。でも、パウロのことを余りよく思わなかった人々には、それが気に入らなかった。イエス様もそうだったでしょう? 何も悪いことをしたわけではない。ただ人を愛し、お互いに愛し合って生きるように教えただけなのに、まるで犯罪人のように捕らえられ、さんざん悪口を言われ
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- 神の国の食事
⇒神の国の食事村上 伸イザヤ書25,6-9;今日の箇所は大宴会のたとえだ。大宴会といえば、例えば宮中の豊明殿で開かれる国賓の歓迎宴のように大規模なものを連想する。シャンデリアが煌めき音楽が奏でられる大広間に、タキシードなどの正装に威儀を正した政財界の大物たちが居流れ、かしこまった仕草で最高級のワインを飲み、一流のシェフが用意したフランス料理を食べる。時々、型にはまった挨拶があり、その度に乾杯!と言い交わす。それほど豪華でなくても、盛大な宴会(16節)という以上は、目の前に山海の珍味が並ぶのが普通だと思う人もいるだろう。だが、今日のテキストに出て来る大宴会は、それよりも少しグレードが低いようだ。本田哲郎神父は、食事会と訳している。せいぜいその程度ではないか。ただ、皆で遠慮なく楽しむためには、そ
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- 大きな喜びが天に
⇒大きな喜びが天に村上 伸エゼキエル書34,11-16;今日のたとえは、を下敷きにしていると言われる。そこでは、状況がもう少し具体的に描写され、登場人物もレビという徴税人(27節)と特定されている。この人が弟子としてイエスに招かれたときの話である。ところで、徴税人というのは、ローマ帝国の手先になって税金取り立ての業務を代行する人々のことだ。貧しい人々からも容赦なく搾り取り、何がしかは自分の懐に入れるということもあったので、世間から忌み嫌われる存在であり、福音書では罪人の代表格である。レビは、その徴税人の一人であった。このレビに、イエスはわたしに従いなさい(27節)と声をかけたというのである。レビは、自分のような世間の嫌われ者でもイエスがまともに相手にして下さったということに感激したのだろう、
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- 人を裁くな
⇒人を裁くな村上 伸イザヤ書32,15-20; 先日、鷹番小学校のクラス会があった。幹事が親切で、私にも出席し易い日程を組んでくれたので、久し振りに参加した。会が終わりに近づいた頃、ある人が私の傍に来て座り、実は、今まで中々その機会がなかったのだが、村上君には前からお礼を言いたいことがあってねと前置きして次のような話をしてくれた。 五年生のとき、仲間と何か悪さをして(今ではそれが何だったか、さっぱり覚えていないのだが)、先生に見つかったことがある。張本人は別にいたのだが、その子はチャッカリ逃げてしまい、彼ひとりがドジを踏んで廊下に立たされた。クラスの皆は知らん顔をするし、心細く、情けない気持ちで立っていると、村上君が一人で近づいて来て励ましてくれた。その言葉を、俺は今でも忘れないよと彼は言っ
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- いつもあなたがたと共に
⇒いつもあなたがたと共に村上 伸エレミヤ書31,31-34;マタイ福音書の第1章にはイエスの誕生の時のことが書いてある。天使がヨセフの夢に現れ、見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はと呼ばれる(23節)と告げたというのである。イザヤ書7章14節の引用だが、このインマヌエルというのは、神は我々と共におられるという意味である。そして、今日のテキストである28章にも、わたしは世の終わりまで、(20節)という復活のイエスの言葉が記されている。つまり、マタイ福音書は、最初と最後に神は我々と共におられる(インマヌエル)というメッセージを置き、それを枠にして全体を囲い込んでいるのである。これは、神は我々と共におられるという真理こそマタイが最も力を込めて伝えようとした事柄であった、ということを意味し
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- 神が創造された世界
⇒神が創造された世界村上 伸;マルコ福音書10,42-45私たちの教会は昨年から、7月第2日曜日を地球環境の日と定め、危機的な状況にある地球環境を守るために祈り・学び・行動することにしている。今日はその2回目だ。説教テキストも讃美歌も、すべてこのことを念頭に置いて選んだ。先ず、に目を留めたい。この詩は、神が天地万物を創造されたということを壮大な規模で歌いあげたものだ。それも抽象的ではなく、一つ一つ被造物の名をあげて、具体的にその生態を描き出す。天(2節)から始まって、雲や風(3節)、火(4節)、地(5節)、水(6節)、山々や谷(8節)、川(10節)、野の獣(11節)、空の鳥(12節)、家畜や牧草(14節)、レバノン杉や糸杉などの樹木(16-17節)、野山羊・岩狸・獅子などの獣(18節;20-
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- 詐欺師の報い
⇒詐欺師の報い廣石 望エレミヤ書6,10-30;Iやっと衆議院が解散しました。前回の選挙以降の短期間のうちに、いったい何人の総理大臣が通り過ぎていったことでしょう。野党の側にも、政治献金の不正な帳簿処理をめぐる疑惑がとりざたされました。与党も野党も相手方のあげあしとりに躍起です。どちらが今度の選挙で勝とうと、長期の安定政権は期待できないように感じます。政権担当者がこんなにもくるくる変わる国の未来が心配です。 先週の新聞に、2009年の1-3月期で企業内失業607万人という見出しが躍っていました。このうち製造業が369万人。生産が早期に回復しなければ大規模な雇用調整につながる恐れがあるそうです。他方、年収が300万円未満の雇用者が、2007年には雇用者の過半数に達したそうです。これでは子どもを
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- 地の塩、世の光
⇒地の塩、世の光村上 伸アモス書5,21-24; 今、ポール・ゴーギャンの絵が東京に来ている。その一つに、<私はどこから来たのか。私は何者か。私はどこへ行くのか>と題された作品がある。自分のルーツはどこにあるのか、そして、自分の行く末はどうなるのか? それを知らずに今を生きている自分。私は何者か。これは、誰もが一度は抱く問いであろう。 ボンヘッファーも獄中で、私は何者かという詩を書いた。私は何者か? 彼らはよく私に言う、私が自分の獄房から平然と明るく、しっかりとした足取りで、領主がその館から出て来る時のように歩み出ると。/・・・私は何者か? 彼らは私にこうも言う、私が不幸の日々を、冷静に、微笑みつつ誇り高く、勝利に慣れた人のように耐えていると。/私は本当に、他の人々が言うような者なのか? そ
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- 忠実な良い僕
⇒忠実な良い僕村上 伸アモス書8,4-8;タラントンのたとえは、ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた(14節)という言葉から始まる。ある人が旅行に出かけたというのは、復活した主イエスが天に昇り、もはや我々の肉眼では捉えられない存在になったということを暗示している。だが、彼は行きっぱなしではない。再び帰って来るだろう。これを再臨という。の十人のおとめの話も、キリストの再臨を花婿の到来にたとえ、その肝心の時に目を覚ましているかどうかが問題だという。では、羊と山羊を分けるという分かり易いイメージを用いて、最後の審判について語る。つまり、25章に出てくるたとえは三つとも、終末に備えてどう生きるべきかということをテーマとしているのである。 さて、今日のテキストに注目しよう。主
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- 神殿での祈り
⇒神殿での祈り廣石 望イザヤ書6,1-8;I今日のテキストである〈ファリサイ派の人と徴税人〉の譬えは、例話に分類されてきました。倫理的ないし宗教的なお手本あるいは反面教師を具体的に提示することで、この人と同じようにしなさい間違ってもこのようなふるまいをしてはなりませんと教え諭す物語という意味です。現行のルカ福音書の導入句も、そうした理解を促しているようです。イエスはこの譬えを、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して語ったというのですから(9節)。結びにおかれただれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる(14節後半)という一般化する教えが、これに対応しています。そのとき、登場人物であるファリサイ人は高慢さと自己欺瞞の否定的モデル、他方で徴税人は自らを神の前で低
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- 開け
⇒開け廣石 望列王記上17,8-16;I 福音書にはイエスの奇跡がたくさん報告されています。それらを読んで私たちが感じるのは、本当にそんなことがあるのだろうかという疑問です。私たちは日頃から科学的でナチュラルな説明を求めます。奇跡についても同じです。イエスが少しの食べ物で何千人もの人々を養ったと聞くと、じっさいには各人が隠し持っていた食糧を供出したということではないかと考えます。つまり奇跡を本質的には消去する方向性です。他方で、奇跡こそがその宗教や教祖さまが本物であることの証明であるという理解が、今でもあります。おそらくそのとき、奇跡はマジックショーに近づきます。つまり奇跡は一方では消去され、他方では濫用されるのです。 そもそもイエスにおける奇跡は何なのでしょうか。それから私たちにとって重い
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- 善いサマリア人
⇒善いサマリア人村上 伸レビ記19,13-18; 8月27日から30日まで、私はエバハルト・ベートゲ生誕100年記念シンポジウムに参加していた。今朝は、その簡潔な報告から説教を始めたい。先ず、ベートゲという人物についてざっと説明すると、彼はドイツ人の牧師で、ナチスに抵抗した神学者ボンヘッファーの弟子であった。やがて、フィンケンヴァルデ牧師研修所でボンヘッファーの助手として告白教会の若い牧師候補生たちの訓練に当たり、この仕事を通じて二人は無二の親友となった。ボンヘッファーの姪レナーテと結婚して親戚になったという事情もあって、戦後、故人の遺稿の大部分がベートゲの手元に集まった。これを基にして、彼はボンヘッファーの著作、特に『現代キリスト教倫理』や『獄中書簡集』を編集して世に出し、さらに1967年
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- 必要なただ一つのこと
「必要なただ一つのこと マルタとその姉妹については、ヨハネ福音書11章にもやや詳しい話が出ている。それによると、この姉妹はエルサレム付近のベタニア村に住んでいて、ほかにラザロという兄弟がいた。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた(5)とあるところを見れば、イエスはこの三人とは旧知の仲だったのであろう。その頃、ラザロは重病を患い、危篤に陥った。姉妹は動転してイエスのもとに人をやり、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです(3)と言わせた。だが、イエスは中々来てくれない。その間にラザロは死んでしまう。イエスがやっと姿を現したのは、死後四日も経ってからだった。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った(20)。そして、待ち焦がれていた思いを吐き出すようにして、「主よ、も
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- 善悪を知る?
「善悪を知る? お気づきの方もおられようが、創世記の1章と2章とでは明らかな不一致がある。先ず神の名が違う。新共同訳聖書は、1章では「神」、2章では「主なる神」と訳しわけている。元来「エロヒーム」、「ヤハウェと別々の名だからだ。また、人類の創造に関しても、1章では「男と女とに」(27)創造されたとあるのに対して、2章では男が先に造られている。その「あばら骨の一部を抜き取って(21)女が造られたのである。 この違いは、聖書学者たちの説明によれば、資料が別々であったためという。1章が採用しているのは紀元前5世紀頃の資料で、年代・月日・統計・祭儀などに関心を寄せており、祭司のように荘重な文体を持つ。そこで、「祭司資料」(P)と呼ばれる。それに比べて2章から4章まではかなり素朴な書き方だ。「主なる神
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- 大魚の腹の中にいたヨナ
「大魚の腹の中にいたヨナ 「何人かの律法学者とファリサイ派の人々、つまり、ユダヤ教の指導者たちがイエスのところにやって来て、「先生、しるしを見せてください(38)と要求した。イエスの評判が高いので彼らも関心は持っていたが、指導的立場にある者として安易に新参者を認めるわけにいかない。距離を置いてイエスの行動に注目していた。その彼らが、思い切って正面から「しるしを見せよとイエスに要求してきたのである。 「しるしとは何か? 「保証のことである。「証拠と言ってもいい。あなたを信用してもいいが、今一つしっくり来ない。いかがわしい人間ではないという動かぬ証拠を見せてくれないか。そうしたら、あなたを信用しよう、というのだろう。 だが、誰かを「信じるのに証拠など要らない。信じるということは、相手の真実に動か
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- 貧しいやもめ
「貧しいやもめ 注解書によると「賽銭箱とは、神殿の庭の壁を背にして置かれた13個のラッパ型の容器だという。施しのためのもので、今日風に言えば「災害救援募金箱」のようなものだったのだろう。そして、たまたまその「向かい側に座って(41)いたイエスには、群集がそれに金を入れる様子が見えた。「大勢の金持ちがたくさん入れているところは、特別によく見えたであろう。この場合の「金持ちとは、一般的な意味で「豊かな人々というよりは、38節の「律法学者を指していると思われる。彼らは、主イエスが厳しく批判されたように、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする(38~40)ような人たちで、自己顕示欲が強
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- 命の言葉
「命の言葉 ヨハネ福音書には、所々、分かりにくい文章が出てくる。今日、説教のテキストとして指定されているこの箇所も、その一つである。一体、ヨハネはここで何を言おうとしているのだろうか。 先ず、弟子たちがイエスの言葉を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(60)と言った、とある。「ひどい話とか、「こんな話とかいうが、彼らは「どんな話を聞いてこのように憤慨したのだろうか? 6章のはじめから目を通してみよう。1節以下に「パンの奇跡のことが書いてある。五つのパンと二匹の魚で5000人を満腹させたという、あの不思議な出来事である。このことは群衆の記憶に残った。しばらくたってから再びイエスを見つけたとき、彼らはとても喜ぶが、それは「この方のそばにいれば喰いはぐれることはないと安
- 1Q & A 「贖い」の意味をどう説明すればいいですか?
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- 8特集「教理」とは何か?教理を学ぶ意味と喜び
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- 10Mt. Hermon Youth Camp 証し その3

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
