まず自分の目から

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まず自分の目から

村上 伸
イザヤ書33,1-6;

 イエスは言われた。人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる(1-2節)。

この言葉は、自分のことを棚に上げて人のことをあれこれ批判してはいけないというごく常識的な道徳訓として理解されることが多い。しかし、イエスはもっと深い意味で言われたのではないか。つまり、自分こそ正しいと言い張って人を裁いていると、その裁きは自分の上にも降りかかってくるということだ。

 これは、人間同士、あるいは国家間の平和な関係を造り上げる上でまことに大切な点だ。このことを真剣に考慮しているかどうかで、お互いの関係は良くもなり、悪くもなる。それが最も端的な形で現れるのは、戦争の場合であろう。

 1937年7月7日の夜、日本軍が北京郊外の盧溝橋の近くで演習中、兵士が一人行方不明になった。これを理由に日本軍は中国軍を攻撃した。9日には停戦協定が成立して責任者を処罰することになったが、日本政府と軍部は不拡大方針を掲げながら、11日以降次々に部隊を送り込んで、戦闘は拡大の一途をたどった(平凡社版『日本史事典』)。この盧溝橋事件が日中戦争の始まりである。

 さて、この事変が起こったとき、現地軍はもちろん、日本のほとんどすべてのメデイアは、悪いのは中国側だと主張した。中国の排日・侮日的な態度がこの事変の原因だ、というのである。しかし、そもそも中国のそんな所になぜ日本の軍隊がいて、しかも夜中に演習などをしていたのか? そのことは棚に上げて、ただ中国側の反日的な態度に責任があると責めるのは、言いがかりに過ぎない。日中戦争は、日本が中国に理不尽な言いがかりをつけることから始まったのである。そして、天に代わって不義を撃つという勇ましい軍歌を歌いながら戦線を拡大した日本は、やがて泥沼にはまり込んで最後は惨憺たる敗北を喫し、文字通り、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられたのであった。

 イエスは続けてこうも言われる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(3節)。これも、自分のことには甘いくせに、他人のこととなると厳しい見方をするが、それは褒めたことではないという常識的な処世訓として理解されることが多い。だが、それだけのことではない。むしろ我々に、問題は自分自身にあるという厳しい認識を求めているのである。

 15世紀のドイツに、マティアス・グリューネヴァルトという画家がいた。有名なイーゼンハイムの祭壇画の作者として知られる。その祭壇画に、聖アントニウスの誘惑という絵がある。聖アントニウスは、第4世紀頃エジプトで修行を積んだ修道士だが、彼については修行中にさまざまな誘惑を受けて苦しんだという伝説があり、これは中世の多くの画家が好んで描く主題となった。中でもグリューネヴァルトの絵は凄まじい。ありとあらゆる化け物の姿をした悪魔が現われ、恐ろしい表情で彼の髭や髪の毛を掴み、思うさま引きずり回しているのである。だが、私はこの絵を見たとき抵抗を覚えた。この絵に限らないが、西洋では悪魔、あるいは自分を脅かす悪は、自分の外にいるものとして描かれることが多い。自分は悪とは関係がない。悪は自分の外にあって、外から自分を脅かすものだ。こういう考え方が、十字軍や魔女狩り、そしてすべての戦争を起こすもとになったのではないか?

 だが、人間というものの本質を少しでも真剣に考えたことのある人なら、悪は単純に自分の外にあるとは言い切れないことを知っている筈だ。悪は自分の中に、自分の心の中にある。第二次世界大戦が終わった時、ドイツではやったのは俺じゃない、ヒトラーだ(芝居の題名)という声が至る所で聞かれたが、もちろん、ヒトラーだけを悪者にして済む話ではないのである。マックス・ピカートという思想家がその頃、『我々の内なるヒトラー』という本を書いたのは、まことに当を得たことであった。悪は我々の内に存在するのだ!

 イエスも言われたではないか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことはできない(マルコ7章18節)。それは、腹の中に入り、そして外に出される(同19節)。むしろ、人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである(同20-21節)。

 だから、人を責めるよりも、自分を知ること・自分を厳しく吟味することが先でなければならない。イエスが、偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けと言われたのは、そのことである。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことが出来る(5節)。

 先ず隗より始めよという言い方がある。もともとは別の意味だったらしいが、今では、何事も、先ず言い出した者から始めよという意味で使われる。本当に平和を願うならば、先ず自分から始めなければならない。

 安全保障論議ではしばしば、外国がわが国に攻撃を仕掛けてきたらどうするかという所から議論が始まるが、これは本末転倒である。先ず我々の国を、周りの国々に警戒心を起こさせないような、真に平和を愛する国にすること。武力によらないという姿勢を具体的に示し、近隣諸国の安心と信頼をかち得ること。そこから始めなければならない。これが、イエスの教えではないだろうか。



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