高貴なる生き方」
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、”
高貴な生き方”について考えてみました。
”ノブレス・オブリジェ”という言葉があります。これはもともとフランス語ですが、日本語に直訳すれば、『高貴なる義務』という意味です。つまり、王侯貴族のような、富や権力を人よりも多く持っている者は、それだけ人よりも多くの社会的義務と責任があるという考え方で、これは「多く与えられた者からは多く求められる」という聖書の言葉がその土台になっています。その意味では、驚くばかりの神の愛を与えられたクリスチャンは、どんな人にも王侯貴族以上に社会的義務と責任があると言えるかも知れません。以下の言葉は、マザー・テレサの有名が言葉ですが、本当に考えさせられる言葉です。ぜひ皆さんも、いつも目に付くところに貼っておかれるといいでしょう。
人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、善を行い続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。人を気にせず、状況に左右されず、いつも善を行うということは、なんと高貴な生き方でしょうか。また、いかに良い実を刈り取る人生を生きることになることでしょう。しかし、果たして私たち人間にそんな生き方が可能でしょうか?使徒パウロは、こう言っています。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:11-13)パウロは、「わたしを強くして下さるキリストによって、どんな境遇に処することもできる」と言っているのです。つまり、このような高貴な生き方は、自分の力によってではなく、キリストの愛に動機づけられて初めてできることだということです。イエス様は、
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とおっしゃいましたが、どんな人に対しても、その人の中にキリストを見出していくこと。この人も神に愛されている人なのだというところに、人に対して常に善を行う根拠と理由があるのだと言えます。
今日の一言: いつも善を心掛けよう鶴田健次
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