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- どのように歩むべきか
⇒どのように歩むべきかエレミヤ書17,5-8; パウロが初めてテサロニケという町を訪れた時のことは『使徒言行録』に詳しいが、それによると、彼は西暦50年頃ボスポラス海峡を越えてマケドニヤに渡り、フィリピで数日間伝道した後、いくつかの町を経由してここに入った。ギリシャ半島の付け根にある陸海交通の要衝で、現在のサロニキである。ここにはユダヤ人の会堂があり、パウロはそこに集まって来るユダヤ人を相手に3週間にわたって論じ合い、主イエスのことを語ったが、結果は余り芳しくなかった。神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数のおもだった婦人たち(使徒言行録17章4節)が入信したが、それを嫉んだユダヤ人が、町のならず者を何人か抱きこんで(5節)パウロを追い出してしまったのである。そういうわけで、この町にはあ
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- 信仰によって義とされる
⇒信仰によって義とされる 今週の水曜日(10月31日)は「宗教改革記念日」である。1517年、マルチン・ルターがヴィッテンベルク「城教会」の扉に『95か条の提題』を張り出したのがこの日だ。そのことにどんな意味があったのか?今日は先ず、その経緯を説明したい。 その頃、ローマ教会はサン・ピエトロ大聖堂の建築に必要な莫大な資金をドイツの富豪フッガー家から借りたが、中々返済できずに困っていた。そこで、「免罪符」なるものをヨーロッパ各地で売り出したのである。 今はもうそんなことはないが、中世の教会は次のように教えていた。――「大罪」を犯した者は死んでから地獄に落とされる。これは永遠の滅びであって絶対に救われない。これに対して「小罪」を犯した者は、煉獄で浄めの火に炙られる。だが、その苦しみから解放されて
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- 共に恵みにあずかる
⇒共に恵みにあずかるゼカリヤ書8,14-17; 先週、私たちの教会では宗教改革を記念して音楽礼拝を守った。私は信仰によって義とされるという主題で説教したが、その際、罪とは心も体も含めて私たちの人間関係を歪め・破壊する在り方のことだと述べ、その具体例としてパウロが『ローマの信徒への手紙』1章に挙げた罪表を引用した。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲(31節)というところである。 しかし、それら一つ一つの言葉について、私は特に説明を加えなかった。説明するまでもなく明らかだと考えたからである。だが、その後である人から、なぜ、<無知
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- 気を落とさずに祈る
⇒気を落とさずに祈るイザヤ書42,1-4; 私たちに先だって天に召された信仰の先達を記念するこの礼拝に、多くのご遺族の方々が参加された。皆さんを心から歓迎し、感謝の意を表したい。週報の裏面に31名の方々のお名前が印刷されている。いずれも正規の会員、もしくはそれに準ずる人たちである。どこかで線引きをしなければならないので、名簿に載せるのはこの人たちに限らせて頂いたが、もちろんこの外にも、教会で葬儀をして送った人々や、ご自分の家族など、忘れられない人たちは多い。今日は、それらすべての人たちを各自覚えて頂いて、共にこの礼拝を守りたい。ところで、上原教会とみくに伝道所が合同して代々木上原教会になったのは1997年のことであった。だから、今年は創立10周年という記念すべき年に当たる。私たちはこの10年
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- 裁きの基準
⇒裁きの基準エゼキエル書34,17-22; 教会暦が終わりに近づくこの時期、教会では終末の裁きに思いを致すために、マタイ25章がよく読まれる。終末に際しては、人の子(イエス・キリスト)が現われてすべての国の民を裁く、というのである。そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く(32-33節)。 この羊と山羊を分けるという言い方は、次のような分別の習慣と関係があるらしい。すなわち、当時、パレスチナでは羊と山羊は日中一緒に放牧されていたが、夜になると、山羊は寒さを嫌うので洞穴や小屋に収容される。他方、羊は新鮮な空気が好きなので、より分けて戸外の囲いの中に入れられた。そのように、終末の時には、すべての人がより分けられ・裁かれる、というわけである。 他方、パレスチ
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- 友のために
⇒友のために詩編126,1-6;I友人のいない人生なんて考えられません。友とはどんな関係でしょう。それは生まれる前から血縁でつながっている親子や兄弟姉妹の関係とは違い、生まれた後に与えられる関係です。そうした生後の関係として夫婦関係があります。しかし友人関係については、夫婦に関するような法律はありません。友人関係を規定する法律はありません。他方で友と友の関係は、恋愛関係のような、同様に生後に与えられるものであれ、セクシュアルな関係を重要な要素として含むものとも違います。ようするに友人の関係は、血や法律や性的志向を超えた、自由な人格同士が互いに支えあう関係です。およそそのような意味で、古来友とはもう一人の私 alter egoであると言われてきました。それは私にとって私自身が大切であり、何か別
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- 今はどんな時か
⇒今はどんな時かイザヤ書9,1-6; 聖書が時という場合、その意味には二通りある。一つは、普通に10時半とか午後3時とかいう時刻や1時間とか3時間という時間、つまり時の長さである。ギリシャ語ではクロノスという。人が生きている間(ローマ7章1節)などというのは、それに当たる。 もう一つはカイロスである。これは決定的に重要な時を意味する。例えば、主イエスが、神の国は近づいた(マルコ1章15節)と言われたとき、そこで考えられていた時はカイロスであった。のんびりと時間が流れて、自然になるようになるというのではない。神が備えられた時が、今や充満した! 今こそ、悔い改めて福音を信じる決断をするべき時である ―― そのような時、決定的に重要なカイロスが来た、と彼は言われたのである。 さて、今日の箇所でパウ
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- この世を正しく裁く日
⇒この世を正しく裁く日イザヤ書51,1-8;I戦後日本で定着したキリスト教的な習慣に、結婚式とクリスマスがあります。とりわけクリスマスは教会の礼拝に参加しなくても、家庭やレストランで家族や友人たちで祝うことができるので、結婚式よりもお手軽なのでしょう。多くの人がクリスマスを祝い、プレゼントをします。とくにデパートでは、教会暦がアドヴェントに入る前からクリスマス商戦を始めます。この季節になると私の住む町を含めて、目抜き通りや広場は大きなクリスマスツリーや美しいイルミネーションで飾られます。東京にはこんなに隠れキリシタンがいたのかと冗談の一つも言いたくなるほどです。逆の視点からのジョークがあるのをご存知ですか。キリスト教徒ではないけれども毎年楽しくクリスマスを祝っている人が、教会でもクリスマスに
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- 来るべき方
⇒来るべき方ゼカリヤ書9,9-10; 洗礼者ヨハネは、この時、牢の中(2節)にいた。その事情は、少し後のマタイ14章に明らかである。実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕えて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである(14,3-4)。 ここでヘロデと言われているのは、イエスが誕生した頃にユダヤを支配していたヘロデ大王のことではない。その息子ヘロデ・アンティパスである。彼は、B.C.4年からA.D.39年までガリラヤの領主であった。兄弟フィリポ(14,3)とあるのはマタイの勘違いであって、正確には彼の腹違いの兄弟ヘロデ・ボエートスであることが分かっている。アンティパスは、ボエートスがまだ生きている間にその妻
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- 自分を無にして
⇒自分を無にしてフィリピ2,6-11I親愛なる姉妹兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。私たちの国の多くの子どもたちが、サンタクロースを信じています。サンタクロースは今夜つまりクリスマスイヴの夜中に、戸締りのしてある家庭にやってきて、子どもたちにプレゼントを配って歩く、知らないおじさんです。通常、夜中に戸締りのしてある家に入ってくるのは泥棒と相場は決まっていますが、サンタクロースに限って、知らない人なのに親も子どもも怖がりません。我が家の子どもたちは、サンタクロースに宛てたお礼の手紙にクッキーとミルクを添えて、クリスマスツリーの傍らに置いていたものです。私の知らない両親以外の誰かが、一度も出会ったことがないのに私のことを見守り、気にかけてくれている。彼が置いていったプレゼントが、その
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- わたしたちの交わり
⇒わたしたちの交わりイザヤ書48,3-6; 25日が過ぎると、巷ではクリスマス商戦用の派手な装飾があっという間に片付けられて、門松と入れ替わる。その変わり身の速さには驚くほかはない。しかし、教会ではクリスマスの喜びはまだ持続しているのである。古来、東方の占星学者たちがベツレヘムにやって来て幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(マタイ2章11節)のは1月6日だという伝説がある。それに基づいて世界の多くの教会はその日を顕現祭(エピファニー)と名づけ、主イエスの栄光がこの世界に顕現したことを祝う。クリスマスの飾りをこの日まで残しておくという習慣も、イエスの誕生を単に一時的な祝祭で終わらせないための知恵である。さて、今日の説教テキスト:に注目したい。この命は現れました。御父と共にあったが
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- 主イエスの命とわたしたちの命
⇒主イエスの命とわたしたちの命アモス書5,14-15; 一年最初の礼拝に当たり、心から皆さんに新年のご挨拶を申し上げたい。 今年の正月は、皆さんもご存知のアンネリーゼ・カミンスキーさんから贈られた自叙伝『満たされた人生』(2007年)を読んで過ごした。胸を打たれ、また、考えさせられるところが多くあったので、先ずそのことを話したい。 この自叙伝によって彼女のこれまでの人生を紹介すると、彼女は1936年にナチス支配下のベルリンで生まれた。間もなく第二次世界大戦が始まり、1942年には父親が軍に召集されて東部戦線に送られる。ベルリンの空襲も激しくなり、一家は近郊の町に疎開したが、その町も敗戦の直前に米軍の猛烈な空襲で焼かれるなど、幼い頃に戦争の惨禍を体験した。敗戦後、東独は旧ソ連の支配下に入り、彼
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- イエスの命
⇒イエスの命イザヤ書55,1-13;I教会の暦では、今日の主日は顕現後最終主日です。顕現祭は、キリストが諸国民の前に現われたことを祝う祭りです。歴史的に見れば、異邦人伝道が本格的に行われたのは復活節の後です。ですから異邦人へのキリストの顕現とは、復活のキリストの命が啓示されることを意味します。他方で来週の日曜日から、受難節前の三週間が始まります。私たちは今日、顕現と受難の間にいるわけです。では、キリストの輝きの現われは、彼の受難あるいはこの世界における苦難と、どのような関係にあるのでしょうか。パウロを手がかりに、ご一緒に考えてみましょう。II パウロにとってキリストの顕現とは何だったのでしょうか。今日のテキストの最初の部分で、彼は次のように述べます(6節)。闇から光が輝き出よと命じられた神は
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- 朽ちない冠を得るために
⇒朽ちない冠を得るためにダニエル書9,15-19; 今年は、北京オリンピックの年である。夏の開会を心待ちにしている人も多いことだろう。スポーツには何かしら人の心を打つものがあるから、私も好きで、テレビでよく見る。パウロもスポーツには関心を持っていたらしい。今日の箇所でも、ランニングとボクシングを話題にしている。 そもそも、ギリシャはオリンピック発祥の地だけあって、いろいろなスポーツ大会が盛んだった。コリントの町でも、有名なイストミア大競技祭というのが一年おきに開かれていたというから、もしかしたらパウロにもそれを見るチャンスがあったかもしれない。少なくとも、その噂ぐらいは耳に入っていたであろう。 古代オリンピックは、既に300年以上も前に途絶えたままであった。紀元前776年に始まったこの一大イ
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- 両刃の剣
⇒両刃の剣イザヤ書49,1-6; 先ず、12節の両刃の剣という表現に注目したい。『広辞苑』を引くと、の剣と書くのが普通らしい。そして、それは一方では大層役に立つが、他方では大害を与える危険を伴うもののたとえと説明されている。正反対の二つの機能を持つという意味であろう。政治家たちもこの言葉をわりに頻繁に使う。その場合は、相手を切ることもできるが、同時に自分をも傷つける恐れがあるという二義性を意味していることが多い。ある政治家が、自分を批判した相手を切り返すためにこの言葉を使っているのを聞いたことがある。 しかし、ヘブライ書の両刃の剣(マハイラン ディストモン)は、正に両側に鋭利な刃がつけられた剣のことであって、二義性というよりは、むしろ鋭さ、あるいは凄まじい切れ味を意味している。神の言葉は生き
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- 愛の賛歌
⇒愛の賛歌ゼカリヤ書8,15-17; この箇所は愛の賛歌と呼ばれて結婚式によく朗読される。来週の和田さんの結婚式でも読まれる。特に4-8節には、新しく結婚生活を始める二人にとって大切な教えがある。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 しかし、このテキストは、とくに結婚式の聖句というわけではない。8節後半で突然調子が変わり、結婚とはあまり関係のない言葉が出てくることからも、それは明らかだ。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
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- 誘惑
⇒誘惑廣石 望ヨブ記 1,1-11;I今日は受難節の最初の主日です。『日々の聖句(ローズンゲン)』は、今日のためのテキストとして誘惑物語を指定しています。なぜ受難節の最初のテキストとして、この物語が選ばれているのでしょうか。キリストの受難と誘惑に共通するものとして二つのことが考えられます。第一は、どちらも彼の身に降りかかった経験であることです。アリストテレスは人間のふるまいを行動と受苦に分けて、前者を自らの積極的な行為によるもの、そして後者を人がその身に蒙るものとしました。受難と誘惑は後者に属するでしょう。じっさい私たちは人生で、さまざまなことを避けようもなく身に降りかかることとして経験します。自分が生まれてくる家族や時代や国を私たちは選ぶことができません。誰かを好きになること、病気になるこ
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- 苦難は忍耐を生む
⇒苦難は忍耐を生む村上 伸イザヤ書53,1-5; わたしたちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている(1節)。これは、ホッとするような美しい文章である。このような言葉を発することのできる人は、幸いである。 かつてのパウロはそうではなかった。例えば『フィリピの信徒への手紙』に自ら書いているように、生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人(3章5節)と自らの出自を鼻にかけていたばかりか、律法の命じることを完璧に実行することによって自分の義を達成することができたと自惚れていた。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(同3章6
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- 真実を語る
⇒真実を語る村上 伸ゼカリヤ書8,14-17; 今日の箇所では、先ず捨てるという言葉に注目したい。この表現は、二回(25節と31節)出るだけだが、内容から見ると、パウロは殆んどすべての節で何かを捨てることについて語っているからである。といっても、廃棄物処理のことではない。生きる姿勢の問題である。私たちの毎日の生活の中には、多くの捨てなければならないものがある。パウロは、このことを指摘しているのである。彼は、先ず25節で偽りを捨てよと言う。偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。これが大原則だ。いくつかの具体的な勧めがそれに続く。26節の日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません。これは、執念深い情念を捨てなさい、ということであろう。そして、32節にあるように、神がキリストによって
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- あふれる慰め
⇒あふれる慰め村上 伸ダニエル書9,15-19; パウロは4節で、神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださると言っている。神の慰めとはどういうことだろうか? 苦しみを一時忘れさせるという意味での慰めではないであろう。 苦しみを忘れるということにも意味がある。それを一概に否定することはできない。ガンのような辛い病気で悩む人が増えつつある今日、一時的であっても苦しみから解放してあげるという配慮は一層必要になってきた。耐えがたい苦痛に苛まれている末期ガンの患者にとっては、苦痛を忘れさせてくれるモルヒネは正に慰めなのであり、束の間ではあっても安らかな眠りを与えてくれる。このような薬を上手に使いこなすターミナル・ケア(終末医療)は、将来ますます必要になってくるだろう。 しかし、他方、宗教はア

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
