この箇所は愛の賛歌と呼ばれて結婚式によく朗読される。来週の和田さんの結婚式でも読まれる。特に4-8節には、新しく結婚生活を始める二人にとって大切な教えがある。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
しかし、このテキストは、とくに結婚式の聖句というわけではない。8節後半で突然調子が変わり、結婚とはあまり関係のない言葉が出てくることからも、それは明らかだ。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。そして、この調子は最後まで続くのである。この突然の変化をどう理解すればいいのか?
直前の一つの体、多くの部分という箇所(12章12-31節)に注目し、その文脈から考えればいいかもしれない。
パウロは、そこで教会について論じている。教会は私たちの肉体のように、多くの部分・たくさんの働きが結びついた有機的統合体だというのである。その関連で14-26節に言われていることは分かり易い。そして、あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(27節)という結論も明快である。
それに続けてパウロは、その部分を列挙する。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者(28節)などである。初代教会内部の組織を示す箇所として興味深いが、ここでパウロが言っているのは、要するにこういうことだ。すなわち、教会は皆が同じようになることによってではなく、むしろ、一人ひとりが神から与えられた異なる賜物・個性を生かすことによって、初めて真の一致に達する。教会は相違を嘆かない。むしろ、それを楽しむ。Celebration of differences!
ところが、コリントの教会には、正にこの点において問題があった。パウロはそのことで頭を悩ませていたらしい。ある注解者によると、教会の中には比較的富裕な人々がおり、その中のある人々は異言を語るという霊的賜物(カリスマ)を持つことや、知識を所有していることを鼻にかけて貧しい人々をないがしろにする傾向があった。そのために、教会を分裂と混乱の危機に陥れていたという。
ところで、異言とは何か? 普通、ある種の恍惚状態の中で語られる意味不明の言葉と説明される。これは、神から直接に示される神秘として尊ばれ、特に初代教会においては、異言を語る人は霊的賜物(カリスマ)の所有者として尊敬された。そこから、そのことを誇り高ぶる人も現れたのであろう。
そのような人々を念頭に置いて、パウロはここで、たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル(13章1節)と言っているのである。そして、彼は異言に留まらず、その他のさまざまな賜物を次々に挙げて行く。預言する賜物・あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていること・山を移すほどの完全な信仰・全財産を貧しい人々のために使い尽くす奉仕の業、そして殉教。これらは確かに素晴らしい霊的賜物に違いない。だが、それよりも尊いものがある。それは愛だ、とパウロは言うのである。愛は、あらゆる賜物に勝る最高の道(31節)である。
私は戦後の混乱の中で敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5章44節)という聖書の言葉と出会った。それは、私を深く揺り動かした。だから、愛こそ最高の道だと言ったパウロの言葉を信じて疑わない。
先週、没後60年の記念日を迎えたマハトマ・ガンディーも、山上の説教のこの言葉を読んで最高の道を示された人であった。彼はそれをヒンドウーの教えと融合させてサティア・グラハ(真理への愛)を唱えた。それは愛の道であり、もっと具体的に言えば絶対非暴力の道であった。60年前、ヒンドウー原理主義者の青年によって至近距離から銃撃されたとき、彼はあなたを赦しますと囁いたという。
このガンディーの影響を受けたのが、M.L.キング牧師である。キングは『敵を愛せよ』という説教集の中で、自分は理不尽な仕方で自分を辱め、攻撃する白人の警官を到底好きにはなれない。しかし、彼のために祈ることは出来ると言った。愛するということは、そういうことである。本田哲郎神父が敵を愛せよという言葉を、あなたに敵対する人たちを大切にしなさいと訳したのも参考になろう。
さて、パウロが4節以下で展開している愛の諸相にもう一度目を留めたい。―― 愛は忍耐強い。情け深い。妬まない。自慢しない。高ぶらない。礼を失しない。自分の利益を求めない。苛立たない。恨みを抱かない。不義を喜ばない。真実を喜ぶ。すべてを忍び、信じ、望み、耐える。
これらに共通することが一つある。それは、簡単に言えば、本当の意味で相手の存在を認めることである。相手にも自分と同じように大切な個性があることを認めること。人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする(マタイ7章12節)こと。その意味で人を大切にすることである。
この愛が、教会の内でも外でも最高の道であることを心に刻みたい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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