Followers of Jesus Christ-Iamachristian.org
世界に愛がやってくる

⇒世界に愛がやってくる 五旬祭の日、つまり過越祭から50日目に(50はギリシャ語でペンテコステー)、使徒たちはエルサレムにいた。復活された主イエスが天に上げられる直前に、エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい(使徒言行録1章4節)と命じられたからである。彼らは言われた通りにこの町に残り、市内のある家に集まっていた。すると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)。これは、神の顕現に伴う現象で、モーセもヨブも同じような経験をしている。 そのとき、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3節)という。「舌」(グロッサイ)は明らかに言葉と関係があり、続いて起こった「言葉の奇跡」を暗示して

新たに生まれる

⇒新たに生まれるミカ書 7,14-20; ヨハネ福音書3章にはニコデモという人物が登場する。ファリサイ派に属し…ユダヤ人たちの議員であった(1節)というから、ユダヤ人社会で指導的な立場にあった。その人がある夜(2節)イエスを訪ねて来た。イエスと直接に語り合いたいという強い願いを持っていたのであろう。だが、そのことが他の仲間に知れると、立場上具合が悪い。そこで夜、人目を避けてやって来たのだと思われる。 さて、彼がイエスと会って最初に発したのは、ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです(2節)という言葉であった。これは、口先のお世辞でも、対話を滑らかに進めるための修辞

愛にとどまる

⇒愛にとどまる詩編106,1-23;I今日のテキストには、神は愛ですという有名な一文が現われます。キリスト教は愛の宗教であるとも言われるのは、こうした文章が聖書にあるからです。もっとも古代において、あるいは日本においても、愛という言葉はそれなりに衝撃的なものであったようです。キリスト教が生まれた時期、日本語で愛と訳されてよいギリシア語の単語は、主として二つありました。一つはもともと性愛を意味し、とりわけプラトンによって哲学的な自己探求の意味にまで高められたエロースという語。そしてもう一つは、自らないし相互の人格を高めあう友愛を意味するフィリアという言葉です。これに対して新約聖書で圧倒的に多く用いられるアガペーの語は、もともと重視する好ましく思うという程度の、あまり輪郭のはっきりしない言葉でし

隔ての壁を取り壊す

⇒隔ての壁を取り壊すイザヤ書 9,1-6; 今日のテキストの20節以下は、家を建てる仕事を連想させる。先ず土台(20節)という言葉が出てくるし、かなめ石(同)、建物全体(21節)、聖なる神殿(同)、神の住まい(22節)といった言葉も使われる。特に、共に建てられる(同)というギリシャ語は、文字通り家を建てるという意味である。ここでパウロがイメージしているのは木造建築ではない。エフェソ辺りでよく見かける石造りの工法である。先ず、しっかりとした土台石を据える。その上に順番に石を積み上げて行き、最後にアーチの頂点に最も肝心な石をはめ込む。これがかなめ石である。 だが、その敷地に荒れ果てた建物が残っている場合はどうするか? 地震が来れば崩壊する危険があるから、先ずその廃墟を取り壊さなければならない。こ

私たちは主のもの

⇒私たちは主のものイザヤ書49,14-18;14章1節に、「信仰の弱い人」という言い方が出てくる。この言葉に抵抗を感じる人もいるかもしれない。「信仰の弱い人」というからには「信仰の強い人」もいることになる。パウロはここで、「信仰の強弱」という物差しを持ち出して教会員を判定し、格差をつけているのではないか?もしそうだとすれば、余り愉快な話ではない。しかし、ここに書かれている内容をよく読めば、彼は正にそのような格差づけ、つまり差別に反対していることが分かる。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と言っていることからも、また、そのような人を「軽蔑してはならない」(3節)とか、「裁いてはならない」と命じていることからも、それは明らかであろう。すると、「信仰の弱い人」というの

キリストの忍耐

⇒キリストの忍耐エレミヤ書1,4-10; 今日、我々が読んでいる『テモテへの手紙』は、使徒パウロが最も信頼していた弟子のテモテに宛てて個人的に書き送った書簡と言われる。テモテとは何者か? 彼については『使徒言行録』16章に簡単な紹介がある。それによると、小アジア州リストラの出身で、母はユダヤ系のキリスト教徒、父はギリシャ人だった(1節)。パウロはこの町で初めてテモテと会い、伝道旅行に一緒に連れて(3節)行きたくなった程、その人柄に惚れ込んだらしい。それ以来、テモテは弟子というよりもパウロの最も身近かな協力者として同行した。必要な場合には、パウロから特別な使命を与えられて各地の教会に派遣されたりもしている。その上、フィリピ、コロサイ、テサロニケなどの諸教会に宛てた手紙には、パウロの共同発信人と

神の知恵

⇒神の知恵イザヤ書46,3-13;I パウロが宣教した十字架の言葉は、人々を二分するものでした。それは滅びる者にとっては愚かさでしかない一方で、救われる者にとっては神の力だというのですから(18節)。十字架の言葉の内容は、十字架につけられたキリストです。このキリストが、召された者には神の力神の知恵であるとパウロは言います(23節)。しかし同時に、彼はこの宣教内容を愚かさとも呼んでいます(21節の宣教という愚かな手段によってと訳された箇所は、原文を逐語訳すると宣教内容の愚かさを通して)。さらには神の愚かさ神の弱さといった表現まで現われます。ふつうなら、神は賢く強いはずです。なぜ、こうした不思議な表現が使われているのでしょうか?II それは十字架につけられたキリストという宣教内容そのものに関係が

罪からの解放

⇒罪からの解放イザヤ書55,8-13; 今日は聖書の言う「罪」について考えたい。聖書の罪(ハマルティア)は、単に法律上の犯罪だけではなく、もっと広い意味で使われる言葉である。「踏み外し」とか「的外れ」という意味だ。人間の在り方・生き方が根本のところで歪んでいて、間違った方向へ向かっていることを指すのである。 旧制の高等学校に入りたての頃、私は18歳だったが、ある若い教師が哲学の授業の最中に、突然、「罪とは何か?」という問題を持ち出したことがある。彼は、時々このような難問を我々に投げかけて一緒に考えようとした。その時も我々学生は考え込んでしまった。いくつかのやり取りがあったが、その中で、前年のクリスマスに洗礼を受けたばかりの私は、おずおずと手を挙げて「神に背くことです」と答えた。その時、私は神

共に生きる生活

⇒共に生きる生活箴言3,27-35;  聖霊降臨によって初代教会が誕生したとき、それは整った規則や機構を備えた大きな組織ではなかった。むしろ、自発的に成立した共同体であった。2章42節には、この共同体の四つの特色が挙げられている。すなわち、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」である。このような最小限の規律が自然発生的に生まれ、その中で共同体は生き生きと活動していた。 四つの特色の第一は、使徒の教えである。イエスの生前、最も身近にいて主の指導を受けた使徒たちの教えには権威があると考えられ、これが共同体の指導原理として尊重された、ということであろう。 第二に挙げられているのは、相互の交わり(コイノーニア)である。これは信者相互の援助体制(荒井献)で、後で述べるように、それは具体

高ぶる者は低くされる

⇒高ぶる者は低くされる;マルコ福音書 10,35-45 イザヤが預言者として神に召されたのは、紀元前739年と考えられている。その少し前、743年頃から、時代は大きく変わり始めていた。東に超大国アッシリヤがティグラト・ピレセル三世の下に覇権を拡大し、強大な軍事力をもってパレスチナ地方に進出しつつあった。この王は、ペリシテの諸都市、サマリヤ、ダマスコ、そして北王国イスラエルを脅かして、莫大な貢納金(戦争協力金)を要求したのである。これら諸国はイヤイヤながらこれに応じたが、アッシリヤへの反感が強まったのは当然である。こうして、反アッシリヤ軍事同盟が結成された。 イザヤの母国ユダもこの渦中にあり、反アッシリヤ軍事同盟に参加するように誘われたが、それよりもアッシリヤと同盟関係を結ぼうとした。今日の所

神のもとに立ち帰れ

⇒神のもとに立ち帰れ;フィリピの信徒への手紙 2,1-11 ホセアは紀元前8世紀、つまりイザヤとほぼ同じ頃に北王国イスラエルで活躍した預言者である。彼は、自国の罪を指摘してエフライムは偽りをもって、イスラエルは欺きをもってわたし(神)を取り巻いた(1節)と言ったが、同時に同族国家である南のユダをも責めた。「主はユダを告発される」(3節)。彼にとっては北も南もなく、イスラエル民族全体の罪が問題だったのである。その目は自分の国だけに向けられてはいない。それを超えて広くイスラエル民族全体、さらには人類全体に及ぶ。そのような広い視野に立って、彼は神に立ち帰れ(7節)と呼びかけたのである。一体、イスラエル民族の罪はどこにあるのか? わたし(神)が彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアル

私の記念として

⇒私の記念としてエゼキエル書34,20-28; I 二つの文化が、対等でない仕方で出会うことがあります。一方の文化が政治・経済・軍事・技術などあらゆる点で、もう一つの文化に対して圧倒的な優位に立っている場合です。そのとき劣位に置かれた文化と社会の中から、ときおりカリスマ的な預言者が登場します。そして社会の現状に異議を唱え、富と権力および教育の新しい再分配を訴えて、民衆の支持を集めます。これに対して支配する側の文化に属する人々は、しばしばカリスマ的な指導者を逮捕するなどの行動に出ます。ところが民衆は、権力に抵抗したヒーローをますます支持するに至り、やがてはそうした指導者は死んだ後も生きているという伝説まで生まれてゆく――こうした事例が世界中にあります。 こうした現象は、とりわけ西欧列強によって

主よ、あなたはどなたですか

⇒主よ、あなたはどなたですかエレミヤ書20,7-13; I 来月、私たちの教会は創立10周年を祝いつつカンファレンスを開く予定です。そこでは、教会とは何か、聖書とは何かを、一人ひとりの私の物語から問い直そうとしています。今日は、パウロの回心の物語、とりわけ主よ、あなたはどなたですかという彼の問いかけの言葉を手がかりに、私は何者なのかという問いについて考えてみましょう。今日のテキストは、有名なパウロ回心の物語です。それは、パウロにとって私は何者なのかという問いが、人生の一大事になったできごとでした。回心以前のパウロは、キリスト教会の迫害者でした。ダマスコ教会の会員であるアナニアは、幻に現われたイエスに向かって、主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、

神の相続人

⇒神の相続人箴言3,1-6;パウロは今日の箇所で、肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります(5-6節)と言っている。続けて、肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます(13節)とも言う。ここでは、二つの互いに対立する生き方が紹介されている。一つは死に至る肉の道であり、他は命とシャロームに通じる霊の道である。彼は、この二つの道を紹介しながら、人間の中には霊と肉、あるいは精神と肉体という互いに矛盾対立する二つの原理がせめぎ合っている、ということを示している。精神は高尚なことを思っていても、肉の衝動に動かされることも多い。これは、形や程度は違

神は愛である

⇒神は愛であるエレミヤ書31,1-6; 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです(7-8節)。これは、まことに単純で偉大な真理である! 世界のすべての人は、ここに立ち返らねばならない。だが、ここで言われている愛とは、もちろん、単に好きになるという感情のことではない。愛とは、自分とは違う他者の存在を認め、その価値を重んじることである。 旧約聖書の最初に、初めに、神は天地を創造された(創世記1章1節)とある。これは神が天と地、光と闇、さまざまな植物、太陽や月や星、魚や鳥、獣や爬虫類、そして人間など――要するにご自分とは違う存在を造られた、ということである。つまり、神はご自分

私たちの教会の10年

⇒私たちの教会の10年申命記6,4-9; 今年の創立10周年記念教会カンファレンスは、これまでと同様、この主日礼拝をもって開会する。この後、多摩センターに場所を移して続けられるが、そちらには出席できない方々も、少なくとも今はこういう形で共に参加しておられるわけで、問題を共有できることを喜びたい。 今年の総合テーマは教会とは?である。この主題の意味は、一般論として教会を論ずるということではない。むしろ、具体的に私たちの教会の諸問題について考えようではないかという呼びかけと理解したい。そんなことを考えながら、私は先週、この教会の過去10年間の記録類をできるだけ丁寧に読み、この間の私たちの教会の歩みを改めて思い起こした。 それは、上原教会とみくに伝道所が合同するという、実験的試みとして始まった。先

キリストの体

⇒キリストの体申命記10,12-22;I先週、私たちの教会は、創立10周年を祝って教会とは?という主題で、一泊二日のカンファレンスを行いました。そのさい準備委員会は、全体の聖句として二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタイ福音書18,20)という慰め深いイエスの言葉を掲げました。開会説教の中で村上牧師は、このテキストをとりあげてイエスは2人、または3人と言われたのであって、200人または300人と言われたのではないというシモーヌ・ヴェイユの言葉を引用されました。そして、そこで言われているのは注意力のことではないか、イエスもまたお互いの間で注意力が働いているところ、そこに自分は共にいると約束した。実際、イエス自身が常に弱い人々・小さな人々に対する注意力を

和解のための先手

⇒和解のための先手出エジプト記21,12-14;今日の箇所で、イエスは言われた。昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている(21節)。先ず、この言葉に注目したい。これが十戒の第六戒殺すなを受けていることは明らかである。しかし、人を殺した者は裁きを受けるという言葉は十戒そのものの中には見当たらない。それに最も近いのは、の人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられるである。そしてイエスは、必ず死刑に処せられるというところを裁きを受けると言い換えた。恐らく意図的に。モーセの時代、故意に人を殺した者は死刑に処せられた。だが、どんなケースでも死刑、というわけではない。出エジプト記21章13節には、故意にではなく、偶然に相手が死んでしまったような場合は(過失致死)、逃れの町に逃げ込めば

あなたの罪は赦される

⇒あなたの罪は赦されるイザヤ書2,18-20; イエスは紀元30年頃ガリラヤで宣教を始め、町々村々で神の言葉を語り、悪霊を追い出し、病気を癒した。その言動には、他の律法学者たちには見られない権威があった(1章27節)。そのために、「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(同28節)。ある日、カファルナウムで、彼がある家の客となると例によって大勢の人が集り、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(2章2節)。 そこへ、四人の男が中風の人を運んで来た(3節)。しかし、その家は既に大勢の人で溢れていたために、中へ入ることができない。そこで男たちは、やにわに担架ごと病人を屋上に担ぎ上げ、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり下ろした(4節)という。

義と平和と喜び

⇒義と平和と喜びイザヤ書9,1-6; 神の国は飲み食いではない(17節)と言われている。この言い方は少し変だと感じた人もいるかもしれない。神の国と飲み食いはもともとカテゴリーが違う。神の国は言葉ではなく力にある(第一コリント4章20節)という言い方なら分かるが、どうしてここに飲み食いという言葉が出て来るのか? しかし、14章の前半を読めば、その事情が分かる。パウロがこの手紙を書いていた頃、地中海の沿岸諸地域は、政治的にはローマ帝国の支配下にあったが、宗教的には古代のさまざまな宗教(異教)の影響を受けていた。 つまり、異教の神殿では祭儀が行われ、動物犠牲が神々に捧げられる。儀式が終わると、犠牲として屠られた動物の肉は市場に払い下げられる。ところが、キリスト教徒の中には、それは異教の神々に捧げら

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help