愛にとどまる

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

愛にとどまる

詩編106,1-23;

I

今日のテキストには、神は愛ですという有名な一文が現われます。キリスト教は愛の宗教であるとも言われるのは、こうした文章が聖書にあるからです。もっとも古代において、あるいは日本においても、愛という言葉はそれなりに衝撃的なものであったようです。

キリスト教が生まれた時期、日本語で愛と訳されてよいギリシア語の単語は、主として二つありました。一つはもともと性愛を意味し、とりわけプラトンによって哲学的な自己探求の意味にまで高められたエロースという語。そしてもう一つは、自らないし相互の人格を高めあう友愛を意味するフィリアという言葉です。これに対して新約聖書で圧倒的に多く用いられるアガペーの語は、もともと重視する好ましく思うという程度の、あまり輪郭のはっきりしない言葉でした。キリスト教は、たんなる感情的な高まりでもなく、また徳目でもなく、むしろイエス・キリストの出来事において神が人間になした決定的な振る舞いを指して神の愛といい、これを受けた人間が自らの存在を他者に向けてまったく開くことを指して隣人への愛と言ったのです。原始キリスト教は愛という概念に、新しい領域を開きました。

日本においても、新約聖書のアガペーに愛の語を当てることには、かなり躊躇があったそうです。鈴木範久(著)『聖書の日本語』(岩波書店、2006年)によると、キリシタン文学において、感情的肉体的な愛情には愛恋が、また精神的な相互愛には大切が、しかし超自然的(神的)愛にはポルトガル語のままカリダアデが用いられました。適当な日本語が見つからなかったからです。そしてデウスのカリダアデによって人間一人ひとりに与えられた御大切に、信仰者が応答してゆくというニュアンスがそこにあったそうです。

さらに鈴木氏は、明治期に活躍した山本秀煌(1857-1943年)の発言を紹介しています。山本によると、愛の語はもともともっぱら男女間の神聖ならぬ賎しい関係を意味したばかりか、目上の人が目下の者を、例えば主君や親が家臣や子を憐れむという用法しかなかったため、神を愛する隣人を愛するとは言い難かったそうです。他方で、目下の者から目上の者に対しては、その社会的な関係に従って忠孝悌敬などの概念が使用されたので、けっきょく儒教を参照しつつアガペーは仁愛と訳されました。しかし日本語訳聖書も、やがてアガペーを愛と訳すようになり、このことが日本語の愛の意味そのものを変えました。



II

 今日のテキストでは明らかに神が主語で愛が述語ですが、これを逆転させるとどうなるでしょう。つまり愛は神である愛は神的であると読めば、どうでしょう。

 19世紀半ば、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハが『キリスト教の本質』(1841年)という名著の中で、この思考実験を行っています。彼は、『神は愛である』とはキリスト教の最も高潔な命題である。なぜなら神とは、人間性の神話的な類型概念以外の何物でもないからであると言います。フォイエルバッハは、神とか神的と人が言い習わしてきたのは、ほんとうは人間本来の可能性だという意見です。神とは、人間経験の理想形を天に向かって投影してものに人が与えた名前です。これに対して愛には特別な力が、すなわち人が神を崇拝していると思い込みながら、じっさいには自らの真に人間的な本質を崇拝してきたことを私たちに理解させる力がある。愛の力は、神性よりも高次の力である。だから、いまこそ神から愛を人にとりもどすべきだ。愛が神を克服するのだとフォイエルバッハは主張しました。これが彼の宗教批判です。

 じっさい人々の間で愛が出来事として生じること以上に、人が望みうることがあるでしょうか。こうした経験の集約的表現に神という名を与えて悪い理由が、ほんとうにあるでしょうか。



III

 それでもキリスト教信仰は、フォイエルバッハが言うような人間の経験一般ではなく、神の子イエス・キリストの歴史という具体的な出来事から、神の本質が愛であることを学びます。一般的な愛の現象が神的であると、つまり人間の愛が神的な性質をもっているとは主張されません。むしろ逆に、神が人になったこと、これが神の愛であると言われます。つまりキリスト教信仰が発見したのは人間の愛の神性ではなく、むしろ神の愛の人間性です。アガペー愛という言葉の新しさも、そこにポイントがあるのだと思います。

 ヨハネ福音書とヨハネ書簡には、神は愛であるという本質表現とよく似た文章が現われます。たとえば神は光である(ヨハネの手紙1 1,5)。その場合、イエスが光としてこの世に来たからこそ(ヨハネ福音書 1,9参照)、イエスを派遣した神もまた光であることが分かるのです。あるいは神は霊である(ヨハネ福音書 4,24)と言われますが、霊が来るのはイエスが死へと去ったからに他なりません(例えばヨハネ福音書 16,7)。その出来事なしに、霊である神の経験はありません。

ヨハネの手紙は、そのようにイエス・キリストに結びついた愛の神の中にとどまる人の中に、神がとどまるという不思議な言い方をします(16節後半)。このことについては、後にもう一度ふれます。



IV

 17-18節は、愛の未来についての発言です。ギリシア語の原文を直訳すると、以下のようです。17 その愛は私たちがさばきの日に率直さを保つ私たちの間で完成されている。なぜなら、私たちがこの世ある在り方は、あの方がそうであるのと同じだからである。18 愛恐れがない。完全な愛は恐れを。というのも恐れは懲らしめを持っているが、恐れる者は愛〔いまだ〕完成されてはいないからである。

 愛の内側は、生きるための空間として、外部から区別されています。愛の中にとどまる者は、さばきの日に、その愛が本物であることが試されるということなのでしょう。さばき懲らしめ恐れといった表現は、いわゆる最後の審判に結び合わされています。そして愛の中にとどまる者は、古代において教育的手段としてしばしば当然視された懲らしめや恐れという動機づけから自由に今を生きるのです。他人を怖がらせることで自分を正当化する必要も、もはやありません。あの方つまりイエスがこの世の中で生きたあり方として、何が考えられているのか正確なところは不明です。しかし私には、次のようなヨハネ福音書の言葉が思い出されてなりません。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ福音書 16,33)。愛の中にとどまるとは、世と未来に対する恐れなしに生きることです。



V

 他方で19-21節は、愛の実践についての発言です。最初にわたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(19節)と、イエスにおいて出来事となった神の愛の本質から、信仰者の愛が引き出されます。

 それは、光であるキリストと出会うことから、神は光であるという認識が生まれ、そこから私たちが光の中を歩む(ヨハネの手紙1 1,7)ことが引き出されるのと同様です。またそれは、イエスの霊が注がれるという経験から神は霊であるという認識が生まれ、そこからだから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(ヨハネ福音書 4,24)と言われるのと同じです。

 神が最初の者として私たちを愛したことは、ヨハネ福音書では、とりわけ師であるイエスが弟子たちの足を洗うことで、互いに仕え、互いに愛するよう教えたというエピソードを通して表現されます(ヨハネ福音書13章)。

 『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です(20-21節)というときの兄弟とは、同信のキリスト教徒を意味します。具体的にはヨハネ共同体の成員です。イエス自身は敵を愛せと教えましたので(マタ5,43以下)、ここにいう兄弟愛の教えは、イエスのラディカルさに比べると狭いのかも知れません。しかしヨハネの手紙は、この共同体が分裂の危機にある中で書かれています。兄弟愛は危機の中での切実な呼びかけでした。やがてこの共同体はこの危機をのりこえることができず、福音書と手紙を残して歴史から消えてゆきました。

 考えてみれば、現代社会におけるさまざまな共同体――家庭、学校、会社、教会や教派、地域社会など――にとっても互いに愛すること、キリシタン文学の言葉を使えば互いを大切にすることはきわめて重要です。仲間の一部を軽んじて、不安を与えることが共同体を崩壊させるのです。



VI

 愛の中にとどまる人の中に神がとどまる、という発言がありました(16節後半)。これは、どういうことなのでしょうか。マザー・テレサのあるエピソードが思い起こされます。彼女は孤児院を運営していましたが、寄付をした人の脱税が発覚して税務署の役人が、彼女の孤児院にとりたてにやってきました。するとマザーは孤児院の内部の机や椅子を見せながら、役人に向かってこれがそのお金です。どうぞ持っていってくださいと言うのです。すると孤児たちは、いっせいに私たちも一緒に連れていって!と嬉しそうに叫びました。それを見た役人はもういいですと引き下がったというエピソードです。

 マザー・テレサは愛の中にとどまって生きようとした人でした。その彼女の中に、神がとどまったことを私たちは知っています。教会に連なって生きる私たち一人ひとりにとっても、そのことは基本的に同じです。イエス・キリストのゆえに神は愛ですと信じるなら、私たちも愛の中にとどまることが許されていると思います。



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