偶像から生ける神へ

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「偶像から生ける神へ」

秋葉正二
列王記下17,13-18;

 パウロとバルナバの第1次宣教旅行の中の出来事から学びます。 最初に聖書巻末の地図7をご覧ください。 出発地はシリアのアンティオキアです。 セレウキアからキプロス島を経由する船旅でした。 到着地は小アジアのピシディア州ペルゲ、そこから北上してピシディア州のアンティオキアを経由してイコ二オン、リストラ、デルベに至り、そこから引き返して再びリストラ、イコ二オンと戻っています。 これらの町々でパウロたちは教会を生み出していくのですが、その歩みは決して順風満帆なものではありませんでした。 行く先々で彼らを待ち受けていたのは迫害でした。 それも下手をすれば命を落としかねない危険なものです。

 きょうのテキストの舞台はその中の町の一つリストラです。 口語訳聖書ではルステラになっていたと思います。 この町に足の不自由な人がいました。 彼はパウロの語るのを聞いていたので、パウロが彼をじっと見たところ、この人には「癒されるのにふさわしい信仰」があったので、パウロは大声で“自分の足でまっすぐに立ちなさい”と言いました。 すると彼は『躍り上がって歩き出した』とあります。 「癒されるにふさわしい信仰」とはどんな信仰なのだろうかと思いますが、「癒されるにふさわしい」と訳されている言葉(ソウセーナイ)には、「救われるほどの」という意味もあります。 要するに、信仰は人を癒し、救うものだということでしょう。 救うというのは、神さまとの関係が正しくなるという意味です。 9節に『パウロは彼を見つめ』とありますが、おそらくパウロはその人物の神さまに対する信頼度を確かめたのだろうと思うのです。

 すべての信仰者に必要なのは、その信頼度-信仰であり、とりわけ伝道者に欠けてならないのは、ひとりの人が信仰をどのように受けとめているかを知るためのこうした気配りです。 イエスさまは治癒奇跡をたくさん行われました。ペテロも3章と9章の記事で「イエス・キリストの名によって」癒やしを行なっています。 パウロは「イエス・キリストの名によって」とは言っていませんが、写本によってはその文言があるようです。 問題はその癒しの光景を見た群衆の反応です。 彼らはなんとバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと誤解したというのです。

 実は、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところへお降りになった』という11節の群衆の言葉には背景がありました。 リストラにほど近い南フリギアに住んでいた敬虔な老夫婦が、人間の姿に変えたゼウスとヘルメスを神々とは知らないで、手厚くもてなしてその報いを受けたという神話があったそうなのです。 そうなると、町の外にあったゼウス神殿の祭司たちが群衆と一緒になって、パウロたちに犠牲を捧げようとしたというのもうなずけます。 ゼウスはローマ名ジュピター、ギリシャのパンテオンの主神ですし、ヘルメスはローマ名マーキュリー、ゼウスの子ですが、神々の使者とされていました。 12-13節を読むと群衆の興奮ぶりが伝わってきます。

 さて、これを聞いたバルナバとパウロは服を裂いて群衆の中に飛び込んで行きました。 「服を裂く」という表現は、民数記(14,6等)などにあるように、神さまを汚したための恐れと悔い改めを表す態度です。 二人は飛び込むやいなや、大声で叫んでいます。 15節。 『皆さん、なぜこんなことをするのですか。わたしたちもあなたがたと同じ人間に過ぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです』。 バルナバも多少何か言ったかも知れませんが、きょうのテキストの流れでは、語っているのはパウロです。 このことはパウロをゼウスではなく、ヘルメスと位置付けた群衆の態度からも分かります。 ですから14節から18節までは、異邦人に対するパウロの初説教です。

 先ほど地図で確認した通り、バルナバとパウロは最初パンフィリア州のペルゲに上陸してからピシディア州のアンティオキアに向かいました。 そしてそこのユダヤ人会堂で会堂長たちに促されて13章でパウロは語っています。 アンティオキアではパウロの話を聞く人たちはユダヤ人でした。 彼らは旧約聖書の信仰をもっていて、神が唯一で生きたお方であることをわきまえていますから、パウロは荒れ野の40年の話や旧約の歴史を引用して語っています。 ところがここリストラでは、対象が異邦人なのです。

 ここがパウロの機転の効くところですが、異邦人に対しては、まず神の唯一性と本性とを伝えなければいけない、と判断しています。 異邦人にも分かりやすいように、17節でこう言いました。 『神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです』。 パウロが異邦人に語った第1点は、神が天地の創造者であること、第2点は、神は人間とは本質を異にしていること、すなわち人間は決して神にはなり得ないことです。 そして第3点は神は自然や季節の中にもご自身を示しておられることでした。「だから皆さん、神に立ち帰りましょう」と説教して、自分たちが神に祭り上げられるのを防ぎました。

 私が驚かされることは、パウロの聴衆分析力の確かさです。 ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、同じひとりの神を語っているのです。 異邦人に対する最初の説教から、彼は遺憾無くその才能を発揮していると思います。 もちろんまだアレオパゴスでの説教のように、悔い改めとか神の裁きとかキリストの復活への言及はありませんけれども、とにかく、たいしたものだと思います。

 神さまの唯一性ということに関して言えば、私はユダヤ教とキリスト教はほとんど同一だと捉えています。 旧約聖書の神さまは新約聖書の神さまです。 イエスさまは神の子ですが、その父なる神さまはヤハウェの神さまです。 もう少し言うと、イスラム教のアッラーも同一の流れの中の神です。 「じゃ、どこが違うのだ」と思われるかもしれませんが、それはイエス・キリストがいるかどうかが決定的に違う点です。

 さらに違う点を求めるならば、神さまに対する人々の接し方が異なります。 旧約聖書の民は神の言葉をとても大切にしました。 それが最も重要だと考えたわけです。 その大切な神の言葉を語るのが預言者の存在ですが、私たちのキリスト教でもそれを認めていますし、その点では同じですが、何と言いますか、その預言者の締めくくりにイエスさまが現れたのが私たちの信仰の特徴です。 預言者たちが「やがてメシアがやって来る」と待望していたのがイエスさまなのです。 ですから、ヘブライ語のメシアは救世主という意味ですが、ギリシャ語やラテン語に訳すとキリストとなります。

 今話していることは、パウロもそのように理解していたということです。 パウロは異邦人に、神と人とは本質が違うのだ、人間は決して神にはなり得ないのだということにも触れていますが、この点もどうしても異邦人に理解してもらわなければならないことでした。 異邦人がゼウスやヘルメスを信じることのどこが問題なのか、パウロはそこに切り込んだのです。 神様がひとりであることがなぜそんなに重要なのか、皆さん突き詰めて考えましたでしょうか。 これはヤハウェの神さまが創造神であることに関係しています。 万物を創造されたお方が私たちの神さまなのです。 ですから神さま以外はすべて創られたモノと言えます。

 そもそも創造主と被造物が交わるわけがなく、その間にあるのは完全な断絶です。 そういう神さまと交わろう、何とか生きた関係を結ぼうと願い求めるのが唯一神信仰と言ってよいでしょう。 パウロにとっては、その断絶を埋めてくださったのがイエス・キリストだったのです。 このキリストを彼は何とか異邦人に理解してもらおうと奮闘しているのです。 それは涙ぐましい努力です、しかし圧倒される宣教姿勢です。 私たちは「パウロは異邦人伝道をした」と、簡単に口にしますが、彼が異邦人に伝道する際、本当にいろいろなことに気を配り、十分に考え抜いていたことを私たちはもっと考察する必要があると思います。

 現存するパウロの最も古い書簡は紀元49年頃に書かれたと見られている「テサロニケ前書」ですが、その1章9節以下で彼は、テサロニケの人たちが異教から回心した次第を述べていることがとても参考になります。 今は時間もありませんので読みませんが、リストラでの説教と相通じるものがあります。 神さまが唯一で、生けるまことの神であることをすでに信じていたユダヤ人に対しては、福音がイエス・キリストであることを宣べ伝え、異教徒にはまず神の唯一性と本性とについてユダヤ人なら熟知していることを教えなければならなかった……これがパウロが立たされた状況でした。

 この世に存在するものはすべてヤハウェの神さまが創造されたものです。 さもなければ人間がつくり出したものでしょう。 ギリシャの神々はそういう意味で人間がつくり出したものです。 いろいろな人がいろいろなことを考えて、言わば必要に応じていろいろな役割をもった神々を生み出しました。 ヤハウェの神さまはそういう神々は偶像だと言われるのです。 だから偶像礼拝は禁止です。 イエスさまもそのことを明らかにする使命を抱いて、私たちの世に来てくださいました。 「私たちの神さまは、私たちを生きて愛してくださっている神さまですよ……」、そうイエスさまは私たちに教えてくださっています。 神さまの愛の中に感謝と喜びをもって生きること、それが人間の幸福です。 そのように生きることができるよう、祈りましょう。 


 
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