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アブラハムに属する者

⇒「アブラハムに属する者」関田 寛雄創世記13,8-13 ;  本日の聖書は、日本基督教団の「聖書日課」によって定められている箇所です。このバプテスマのヨハネの激しい怒りの言葉に接しながら、ここからどのようなことを学んだらよいのだろうかと、ある戸惑いを感じながら読んでいます。 ファリサイ派とサドカイ派の人々がどういう人々であったか、いま詳しく述べることはできませんが、当時のユダヤ人の信仰におきましては、アブラハムの子孫であるということが当たり前のことになってしまっていたのです。つまり、「信仰の父」アブラハムの子孫である私たちは神の救いから外れることはない、と安心しきっていました。信仰が「所有化」されているのです。信仰が個々の魂の問題ではなくて、文化的に所有されるものになってしまっている。何と

失われた羊

⇒「失われた羊」廣石 望エゼキエル書34,1-16 ; I 衆議院が解散しました。やがて選挙です。選挙は民主主義政治を支える根幹制度ですが、いくつか弱点もあります。勝つか負けるかの競争になりますので、とくにネガティヴキャンペーンの応酬は社会の統合よりも、分裂を促進しかねません。そして多数決による決着は、しばしばたくさんの「死票」を生みます。そして勝った方の多数派は、しばしばその後は「数の暴力」と呼ばれる現象を引き起こします。 戦後の西ドイツで生まれた政治思想に「討論の倫理Diskursethik」と呼ばれるコンセプトがあります。民主主義の基礎的手続きは合意を目指して行なわれる討論にあるのだから、歪みのない討論を達成するにはどうすればよいかを考えたものです。 そこで討論の真偽を判断する物差しと

朽ちないもの

⇒「朽ちないもの」廣石 望イザヤ書35,1-7 ; I なんと大胆なことでしょう――死に向かって、直接に語りかけるとは!死は勝利に呑まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(54-55節) なぜ使徒パウロは、すべてのものの終わりである死に向かって、このようなことを言うことができたのでしょう? 人は、言うではありませんか。死者たちは、ただその人々とともに生きた私たちの記憶の中にだけ存在し、その私たちもやがて過ぎゆく。そのとき私たちとともに、愛する人々についての記憶も過ぎ去る。後には、何も残らないだろうと。 私たちは知っているではありませんか。年月とともに、いつか私たちの骨すらもさらさらになり、まったく塵に返ることを。 だから人は皆「朽ちゆくべき者」であり、死

はるかなる望み

⇒(MP3, 32kbps)「はるかなる望み」佐伯晴郎創世記15,4-6 ; マタイ福音書2,1-3 かつて宮城学院女子大学YWCAの夏の修養会の折、私は「三つの不在」という題で、次のような話を致しました。三つの不在とは、権威の不在、永遠の不在、祝福の不在です。つまり現代の私たちの生活に、何が欠けているか、と言えば、一つ、私たちの日常は、誤った平等観に支配されており、まとまりのない無駄な話や、自分勝手な行動が多いのではないか。二つ、私たちの関心は、迫った目前のことだけに向けられていないか。三つ、私たちは、自分についての不平や不満、他人に対しては潜在的反感やコンプレックスを抱いており、お互いのことを喜び合う心が欠けていないかという問いを提起し、それらをめぐる話し合いから、権威、永遠、祝福という

神は我々と共に

⇒音声を聞く(MP3, 32kbps)「神は我々と共に」廣石 望イザヤ書7,1-17 ; I 今日の聖書箇所は、イエス・キリストの奇跡的な誕生について物語ります。一般に「処女降誕」と言われます。使徒信条に「処女マリアより生まれ natus ex Maria Virgine」とあるとおり。今でもこのことを歴史的な事実として承認するよう求めるキリスト教もあります。もっともそれが生物学的な父親がいないという意味であるなら、ではイエスのDNAは何なのか、マリアのクローンなのかと現代人は問うのではないでしょうか。 いったい、このイエス誕生物語の真実とは何なのでしょう? 三つほど申し上げます。 II まず、一般に「成就引用」とか「省察引用」と呼ばれている、マタイ福音書に独特な旧約聖書の引用をご覧ください

神の子羊

⇒音声を聞く(MP3, 32kbps)「神の子羊」廣石 望出エジプト記12,37-51 ; I イエスとは何者か?――この問いは、ヨハネ福音書が、他の新約諸文書と比較しても、ずばぬけて大きな集中力をもって取り組んだ主題です。キリストの降誕を待つアドヴェントの時期にある私たちにとっても、改めて重要な問いでしょう。 今日の聖書箇所では、洗礼者ヨハネがイエスについて証言しています。そのさいヨハネの聴衆は特定されていません。これは〈イエスとは何者か〉という問いが、〈誰に向かって話しているのか〉よりも遙かに重視されていることのひとつのしるしです。福音書は、洗礼者の口を通して、未知の存在であるイエスを読者に紹介してもいるわけです。 まず洗礼者イエスとヨハネの関係について、いくつかの点をおさらいし、その後

まことの神

⇒「まことの神」廣石 望I 教会は、12月25日に救い主イエス・キリストの降誕を祝います。クリスマスの祝日はこの日を含めて前後3日あり、1月6日(公現祭)まで祝いの季節が続きます。 しかし新約聖書に、キリストが何月何日に生まれたかは書かれていません。ユダヤ人には誕生日を祝う習慣がありませんでした。これを継承した最初期のキリスト教徒も、異教徒たちが誕生祝いに〈どんちゃん騒ぎ〉するのを嫌い、むしろ故人の命日を祝いました。 聖書で誕生日を祝うのは、ファラオなどの王たち、例えばガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスです。アンティパスは自分の誕生日に、とりまきを招いて王宮で歌あり踊りありの宴会を開きましたが、その座興のように洗礼者ヨハネを斬首させています(マルコ6,21以下)。最初期のキリスト教で、誕生祭

異邦人を照らす

⇒「異邦人を照らす」廣石 望イザヤ書60,1-11 ; I 今日の聖書箇所の舞台はエルサレム神殿です。ヨセフとマリアの夫妻が、妻の産褥明けに、長子であるイエスのための犠牲を神に献げるために神殿に詣でたところです。そこにシメオンとアンナという二人の人物が登場します。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」いた、アンナは「84歳で、神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とあります。 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていたそうです。そのシメオンは、神殿境内に入ってきた若い夫婦を見て、「幼子を腕に抱いた」。 神殿とは素敵なところですね、よそのご家庭の赤ん坊を抱かせてもらえるのですから。私もときどき学校や教会で、かつての学生や

幼子を拝む

⇒(MP3, 32kbps)「幼子を拝む」廣石 望ミカ書5,1-5 ;  現在、入力作業中です。しばらくお待ちください。

アブラハムの子たち

⇒「アブラハムの子たち」廣石 望創世記17,1-8 ; I キリスト教は、もともと国や文化、民族を超える価値を提唱する宗教です。 しかし私たちの暮らす東アジアでは近年、国と国、文化と文化、また民族と民族の間の緊張が高まりつつあります。キリスト教会の真価が問われています。 私たちの時代に、キリスト教の立場からの普遍主義は可能でしょうか? II 今日の聖書箇所で、福音書記者ルカは、古代ギリシアの歴史文学に倣った仕方で、洗礼者ヨハネが登場した時期の政治状況について、次のように記しています。皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデ〔・アンティパス〕がガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭

すぐに従う

⇒(MP3, 32kbps)「すぐに従う」関田寛雄エレミヤ書1,4-10 ;  本日は、日本基督教団の聖書日課に従いまして、マタイの福音書4章18節以下を選ばせていただきました。三つのことを申し上げたいと思います。まず一つは、イエス様がガリラヤで伝道を始められた、その前段階のことです。 I 今日の聖書の箇所の少し前ですが、マタイによる福音書4章12節に、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあります。ここからイエス様のガリラヤ伝道が始まるのです。 イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったことは、疑うことのない事実でしたが、そのことは初代教会にとっては都合の悪いことでした。ヨハネの集団からイエスの集団に対して「おまえたちの先生は、私たちの先生ヨハネから洗礼を

花婿の時

⇒(MP3, 32kbps)「花婿の時」廣石 望イザヤ書61,1-11 ; I あらゆる宗教には、祝祭や巡礼などの定期的な行事と並んで、日々の実践があります。例えば仏教の場合、毎朝お仏壇に供え物をし、お線香をあげて、お経を唱えたりすることがそうです。 イエスの時代のユダヤ教では、定期的な巡礼祭と並んで、安息日の遵守や十分の一税の納入あるいは清浄規定などがあり、とくに重要な日々の宗教的実践として「施し」「祈り」そして「断食」が励行されていました。そして、そうしたことを日々行っていることが、その人を神の前で折り目正しく暮らしていると社会が認知する上で、重要なメルクマールだったのです。 近代日本のプロテスタント教会では、とりわけ日曜日の礼拝参加や献金がそれに当たると思います。もちろん定期的に礼拝に

イエスの尺度

⇒(MP3, 32kbps)「イエスの尺度」陶山義雄イザヤ書5,1-7 ;  「天の国は次のようにたとえられる」(20:1)という言葉を譬話の冒頭につけたのはマタイ福音書記者でした。この箇所に限らず、マタイがイエスの譬話を載せる時には、この言葉が枕詞にように登場します。マタイ記者は「神の国」「神の王国」を説明するためにこの枕詞を用いています。同じ譬話がマルコ福音書や、ルカ福音書に載せれている場合に、この枕詞がないことを思うと、これはマタイ記者が独自に語り、イエスの譬を「天の国」を説明するためにこの記者が用いている様子が良く分ります。1例を挙げますと、「種蒔き」の譬はヨハネ福音書を除いて、他の3つの福音書には記されています(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章)。マタイだけが、これを「天の国」の

イエスのまわりの人々

⇒(MP3, 32kbps)「イエスのまわりの人々」村上 伸イザヤ書55,8-11 ;  先週の13日(灰の水曜日)から40日間の受難節が始まった。この時期に、イエスの愛と苦しみに満ちた生涯に思いを馳せるのは相応しいことである。 に、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を告げ知らせて、『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音に信頼してあゆみを起こせ』と言った」(本田哲郎訳)とある。福音を告げ知らせるために、イエスは行った、というのである。 ガリラヤというのは、神殿のあるエルサレムから北へ100km以上も離れた辺境の地で、当時、「異邦人のガリラヤ」(マタイ4,15)と呼ばれ、また、そこの住民は「暗闇に住む民・・・死の陰の地に住む者」(4,16)などと偏見を以て見られてい

自分の十字架を背負う

⇒(MP3, 32kbps)「自分の十字架を背負う」廣石 望エレミヤ書20,7-13 ; I 本日の聖書箇所は、イエスに従おうとする人々にとって、彼の苦難の運命がどのような意味をもつかについて述べています。少し広くとれば、この世界で数知れぬ故なき苦しみの中にある人々と神はどのように関係するか、という神義論に関わる示唆を含むと見ることもできるでしょう。 そのことをテキストに沿って、三つのステップを踏みつつ考えたいと思います。最初はイエスとペトロの対話です(31-33節)。この部分は、ひとつの過去の出来事を報告していると見えます。第二は「群衆」に対するイエスの信従の教えです(34-37節)。この教示は内容的に、こうして福音書を読んでいる私たちもそこに含まれる〈現在〉の話しのようです。そして最後の

神の恵みの喜び

⇒(MP3, 32kbps)「神の恵みの喜び」下村 優イザヤ書11,1-5 ;  春の訪れを感じさせるやわらかな陽射しの中、この世界を創造された神の、言い尽くせない豊かな恵みの中で、今日は「愛の書簡」「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙をテキストに選びました。 はじめにパウロの回心体験、次に私の体験、最後に今日のテキストの順序でお話させていただきます。 I 私は、パウロの回心体験が、彼の伝道の旅を支え続けた力の泉であったろうと、考えています。パウロはこの体験のことを繰り返し思い起こし、語り、確認する度に、神に感謝し、祈り、力を得て、伝道の旅を続けたのだろうと想像いたします。私にはそう思われるのであります。 イエスが十字架の死を遂げたのは紀元30年頃と考えられています。 イエスがガリ

降誕節から受難節へ

⇒(MP3, 32kbps)「降誕節から受難節へ」陶山義雄イザヤ書53,9-12 ;  私たちはおよそ2ヶ月前にクリスマスを共に祝いました。1ヶ月ほど前の1月20日は顕現後最終主日で、その後は受難週とイースターを軸にして、巡り来る聖日を、その前後で数えています。そして、今日は受難節の第3主日にあたります。レントと呼ばれる受難節は3週間前の2月13日水から始まっています。ちなみに、今年の受難週は3月24日で、イースターは3月31日になります。今年のようにクリスマスとイースターが近づいているのは太陽暦に倣って12月25日と決まっているクリスマスに対して、太陰暦に倣って、春分の後の最初の満月に続く安息日をイースターとする、数え方の違いによることから起きています。救い主のご降誕、受難の出来事、それに

この世が裁かれる

⇒「この世が裁かれる」廣石 望ダニエル書7,1-14 ;  I 2年前の明日、東日本大震災が起こりました。そして今は教会暦にいう受難節、つまりイエスの死とその意味を思うための季節に当たります。 聖書は、この世は「罪」に捕らわれているといいます。罪は人間が生みだすものであると同時に、人はその罠を自力で逃れることはできないと。人には自己破壊への止みがたい衝動が具わっているということなのでしょうか。 たしかに地震や津波、大吹雪などは自然現象ですが、そのとき生じる「災害弱者」や「復興支援の遅れ」などは社会現象です。原発事故となると、やはり人間の仕業という他ありません。その被害は広域かつ長時間に及びます。それは放射線量の高い地域だけでなく、海を含む地球環境全体に及ぶでしょう。被災地で暮らす人の中には、

仕えるために

⇒(MP3, 32kbps)「仕えるために」廣石 望エレミヤ書13,15-22 ; I 受難節も第5週に入りました。今日のテキストの末尾で、イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言います(45節)。ふたつの文章は互いに補い合ってひとつのことを述べているのでしょう。すなわちイエスの生は「仕える」ためであり、その奉仕の生は十字架の死に極まり、その死は人々に「解放」をもたらすものであった、というつながりです。奉仕の生と解放をもたらす死は、表裏一体の関係をなしていると思います。 現在、「ボランティア」と呼ばれる活動があります。キリスト教系の大学には、ボランティアセンターを設置しているところが少なくありません。 その場合ボラン

ダビデの子

⇒(MP3, 32kbps)「ダビデの子」廣石 望詩編118,19-29 ;  ただいま入力作業中です。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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