異邦人を照らす

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「異邦人を照らす」

廣石 望
イザヤ書60,1-11 ;

I

 今日の聖書箇所の舞台はエルサレム神殿です。ヨセフとマリアの夫妻が、妻の産褥明けに、長子であるイエスのための犠牲を神に献げるために神殿に詣でたところです。そこにシメオンとアンナという二人の人物が登場します。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」いた、アンナは「84歳で、神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とあります。

 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていたそうです。そのシメオンは、神殿境内に入ってきた若い夫婦を見て、「幼子を腕に抱いた」。

 神殿とは素敵なところですね、よそのご家庭の赤ん坊を抱かせてもらえるのですから。私もときどき学校や教会で、かつての学生や職員さんの赤ちゃん、教会員の方々の幼子を抱かせてもらうことがあります。たいていは、ふわふわの赤ん坊です。少し大きくなっていれば、たらたらよだれを垂らしながら、きょろきょろ周囲を見回します。真っ黒の濡れ濡れとした大きな黒い瞳を輝かせて。

 

II

 シメオンが抱いた幼子イエスも、きっとそうだったのでしょう。そのときシメオンは、神をたたえて言いました。

主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(29-30節)

 すでに高齢であったのでしょう。

 シメオンの賛歌の前半部分のラテン語nunc dimittis servum tuum Domine, secundum verbum tuum in pace(直訳すれば「今、あなたはそのしもべを去らせて下さる、主よ、あなたの言葉どおりに、平安のうちに」)は、後の教会の歴史で、たいせつな祈りの言葉になりました。日々の祈りの中では夜の就寝前に唱えるものに、また容易に想像できるように、葬儀の最期に唱えられる祈りとしても用いられました。

 このシメオンの祈りは、キリスト到来への〈待望〉からその〈成就〉へ、時のクオリティーが転換したことを証言しています。

 「私の目はあなたの救いの見たのだから」――このような感謝の思いを胸に世を去ることができる人は、いかに幸いなことでしょう!

 

III

 先に申し上げたように、アンナも高齢でした。「アシェル族のファヌエルの娘で、女預言者」と紹介されています。彼女もまた、幼子イエスに「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。

 シメオンが待望していたのは「イスラエルの慰め」(25節)、ハンナが待っていたのは「エルサレムの救い」(38節)。どちらも同じことを指すのだろうと思います。二人とも、民族が自尊心をとり戻し、誇りをもって生きてゆける日が来ることを待望していました。そして、一人の幼子にその願いの成就を見出したのです。不思議な話だと思います。

 

IV

 その傍らでシメオンは、母親のマリアにこう言ったとあります。

御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。(34-35節)

 神の民イスラエルの多くの人を「倒したり立ち上がらせたり」するとは、成長したイエスのメッセージが民族を二分したことを受けています。「反対を受けるしるし」とあるのはイエスの十字架の死を、また「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」とは、この若い母親が、やがて長男を暴力的に奪われる運命にあることを、それぞれ暗示しているのでしょう。

 それは「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」でした。ここにいう「多くの人の心にある思い」とは、おそらくイエスへの敵愾心、神への反逆という意味です。つまりシメオンやアンナの希求と喜びは、人々から受け入れられるものとはならない。民族が分裂しているとは、まさにそういう痛ましい状況なのです。

 イエスへの拒絶について言うなら、同じルカ福音書は、師イエスを裏切ったユダについて、受難物語の文脈で次のように書いています。

十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。(22,3)

 しかし、この「サタンが入った」という事態もまた、シメオンの預言に照らせば、神の配剤の内にあると言えるかもしれません。

 

V

 さらにシメオンは、ヨセフとマリアの夫妻を驚かせるような発言をします。

これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。(31-32節)

 イスラエル民族の誉れは、「異邦人を照らす啓示の光」を「万民」に「救い」として告知することにあります。

 この箇所の言語的な背景として、以下の預言があると指摘されています。

いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。(イザヤ書52,7-10参照)

 確かによく似ていると感じます。しかし重要な違いもあります。

 イザヤの発言で「地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」とあるとき、それは周辺の異民族たち――エジプト人、アッシリア人、「無割礼の穢れた者たち」――が、イスラエル民族の復興されるさまを、驚愕をもって見守るという意味です。つまり救済はイスラエル中心的に理解されています。

 これに対して、シメオンの歌において、キリストは「異邦人を照らす啓示の光」であるがゆえに、「あなたの民イスラエルの誉れ」であると言われています。ならば、イスラエルの栄光は異邦人を圧倒することではなく、むしろ異邦人に救いを提示するところにあるのでしょう。

 これは出エジプト記19章にある思想です。十戒を受けとる直前の荒野のイスラエルに向かって、神は次のように語りかけます。

あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト記19,4-6)

 もしイスラエルが神の契約を守るならば、この民は、諸民族の間で「祭司の王国」として、とはつまり「王」も「軍隊」もなく、ただ和解と赦しをもたらず「宗教」だけをもつ民族として、神の「宝」になるだろう。――これはバビロン捕囚から解放されて、宗教的な民族共同体として(「祭司の王国」)、ペルシア時代に新しい歩みを始めたユダヤ民族がもった〈世界史的な自覚〉であると思います。

 

VI

 キリストの到来は、他の諸民族に向かってイスラエルの栄光をデモンストレートするためのできごとではない。そうではなく、この民族の救いと慰めは、他の諸民族に啓示の光を提示するところにある。――そう、今日の聖書箇所は告げています。

 キリスト教会の「栄光」も――もしそのようなものがあるとすれば――同じことでしょう。それはキリスト教徒が救われ、そうでない者たちが滅びるところにはありません。そうではなく、キリスト教徒でない人々に「啓示の光」をもたらすことで世界に仕えることが、教会の「誉れ/栄光」です。

  

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