「教会に鍵をかけてしまわないために」マタイ16:13-20 中村吉基

ヨブ記1:1-12;マタイによる福音書16:13-20

ヨブ記1:1-12;マタイによる福音書16:13-20

キリスト教のことを「告白する宗教」だと言った人がいましたが、確かに私たちは教会で語られていることを受身のまま聞き流していればいいわけではないし、何かお題目や呪文のようなものを繰り返しあげていればいいわけでもありません。

私たちは一人の人間として神の前に、あるいは人々の前に告白をする。礼拝のなかで、いくつもの告白があります。考えてみればお祈りや賛美歌を歌うことも信仰告白です。いちいちそんな告白をしないでもっと気楽な信仰があるかもしれません。しかし、主イエスはただ黙ってご自分に服従させるのではなくて、私たちに「応答」をすることを求めています。

たとえばこの礼拝の中でも聖書の言葉に聴き、それを解き明かす説教を聞きます。説教のあとで、皆で祈りを合わせて、自分がその聖書の言葉から何を受け取り、何を考え、そして決断したのかを「応答」しています。いつもメッセージのあとの賛美歌を「応答の賛美歌」ということもありますが、私たちが個人個人に決断したことを今度は「私たちの決断」として賛美をしています。主イエスはそれほど私たちの告白を大切に思ってくださっています。神が語りかけて人間はそれに応答するという形を大切にしておられるのです。神と私たちとのパートナーシップ。それが神と人間との基本的な関係であり、それを大事にしてくださっていることを私たちはこの福音の箇所からも知ることができるのです。

さて、主イエスは13節のところで弟子たちにこうお尋ねになります。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。「人の子」と言うのは主イエスがご自分を指すときに使う言葉です。この主イエスの問いは他人の考えではなくて、実際に主イエスに従ってきて、主イエスの言葉や行動に触れてきた弟子たちが「あなたがたはどう思うのか?」ということを尋ねられているのです。私たちは今、主イエスからこのように聞かれたならば答える準備はできているでしょうか。「教会で牧師がこう言っていたから」とか「キリスト教の本の中にこう書いてあったから」というのではなく、私たち一人ひとりは主イエスとどのように出会い、自分自身の言葉で何と答えるのでしょうか。

弟子たちはこう言いました。ある者は「洗礼者ヨハネだ」と。「預言者の一人だ」と言う者もおりました。
そのなかでペトロは「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」(16節)と答えました。主イエスは人間に対して深く優しいまなざしがあったことは私たちもよく知っていることです。あるとき主イエスはこう言っています。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。主イエスの生き方やこの世においての役割からペトロは「神の子」と告白しました。人に対する優しさや慈しみというものが他の人に比べてみてもずば抜けて主イエスには満ちておられた。そこからこれは神の姿である、神の命(めい)を受けて生きているお方だとペトロの眼にはそう映っていたのでした。主イエスは神の世界の証し人として、神の光を伝えて生きておられました。ですからこの神につながって神の国の住人はすべて「神の子と呼ばれる」と仰せになりました。

このペトロの告白に主イエスはどうおっしゃったか。
「あなたは幸いだ」と仰せになりました。それまでシモンと彼は呼ばれていたわけですが、18節のところにありますように「あなたはペトロ(岩)。この岩の上にわたしの教会を建てる」と主イエスに言われます。そしてその教会は陰府の力も対抗できない教会です。そして主イエスはペトロに19節「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と告げられます。

主イエスは神からの呼びかけに誠実に応えた者に使命をお与えになります。主イエスはペトロに「天の国の鍵」を与えます。ここで「つなぐ」とか「解く」という言葉が出てきますが、この言葉はユダヤ教のラビたちが律法を解釈して人々の実生活の規定や方針を読み取り、許可や禁止を決定することを表していた言葉でした。ラビたちは律法を掟として押し付けて人々に背負い切れない重荷を負わせ、いわば天の国に「鍵」をかけて閉ざしてしまいました。しかしここでペトロに与えられた「鍵」はすべての人々に天の国を開く「鍵」でした。

アメリカで作られた賛美歌に「みんな神さまの家族」という曲があります。以前書きました本の中にも引用していますので、ご存知の方もあるかもしれませんがそれはこのような歌詞です。

おいで、こっちに来て座りなさい。あなたも家族なのだから。
私たちはみんな、迷い、そして見いだされた者たち。みんな、神さまの家族。
1.あなたは知っているでしょう、なぜここに来たのかを。
どんな理由も、それを説明しつくすことはできないけれど。
だから共に笑い、悲しい時は共に泣きましょう。
みんな、神の家族なのだから。
神はここにいる。私たちと共に。まるでお母さんの温かい抱擁のように。
私たちはみんなゆるされている。神の恵みによって。
だって、みんな神の家族なのだから。

2.子どもも老人も、中年も10代も、独身も既婚もそのどちらでもない人も、頑強な85歳も生意気な16歳も、みんな家族。
迎える人、新しく来る人、長くいる人、新しい人、
ここでは誰も、席に座る権利を持ってはいない。
大きな教会だって、小さな教会だって、みんな神の家族。
さまの家族。

3.パンとぶどう酒で分かち合ういのちがある。
私たちは枝で、キリストはぶどうの木。
これが神の宮。あなたのでも、わたしのでもない。
だけど私たちはみんな、神の家族。
ここには疲れた人に休息が、そしてみんなのために健康がある。
負いやすいくびきと軽い荷がある。
だから共に来て礼拝を捧げましょう。そして招きに応えましょう。
私たちはみんな家族なのだから
(以下略 中村吉基『マイカルの祈り』に全文所収)

私たちは本当に教会に鍵をかけてはならないのです。いつも開かれた状態にして置かなければならないのです。現代にあって教会を開かれたものとした貢献者にテゼ共同体を創立したブラザー・ロジェがいました。

ヨーロッパが第2次世界大戦のただ中にあった1940年8月、当時25歳だったブラザー・ロジェは、フランス東部の小さな村テゼに住み始めました。そこで信仰共同体を始めることが彼の夢でした。そして、苦しみの中で生きる人たちの間でその共同体が生きてゆくことを望んでいました。祈りを中心とした彼の生活は、ナチの占領下から逃れてきたユダヤ人らを彼の家にかくまうことから始まりました。現在もカトリックとプロテスタント各教派出身者で、20数カ国の違った国々を出身地とした、修道生活への誓願をたてたブラザー(修道士)たちがいます。ブラザーたちは、自分たち自身の労働によって生計を立て、他の人たちと分かち合っています。

世界中の若者たちがテゼの集いを開いています。それだけでなくロジェはローマ教皇、イギリス国教会のカンタベリー大主教やマザー・テレサなどとも親交を深め、教会の一致に努力していました。もとはプロテスタントの改革派教会の牧師、神学者でした。

2005年の夏に残念なこと起きてしまいました。ブラザー・ロジェは8月16日の夕べの祈りのときに2500人が集う中で精神的な問題を抱えた女性によってナイフで刺され、間もなく息を引き取りました。それは現代の悲しみと苦悩の現実を象徴したような亡くなり方でした。テゼでは、そのとき、祈りが一時中断したものの、「ブラザー・ロジェの意向は祈り続けることです」というアナウンスの後、みんながそのまま祈り続けたそうです。

今、私たちは受難節の時を過ごしています。受難節は自らの信仰を省みるときですが、私たちの教会もまたその歩みを聖書に照らして省みるときでもあります。私たちもブラザー・ロジェの意志、テゼ共同体が実践してきたことをヒントに私たちの教会をつくりあげたいと思うのです。そしてすべての人に開かれた教会を口先だけでなく現実のものとしていくために力を合わせ祈っていきましょう。

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Emmanuel

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